8:05虫木峠出発 雨後曇り 気温9度
8:25 堀割
8:55 林道分岐(オオブナ谷)
9:50 林道終点
10:05 鞍部
11:15 大箒山
12:00 A
12:25 B
12:45 956ピーク
12:55 C
13:20 D
13:40 床尾山
14:05 床尾峠
14:20 965ピーク
14:40 E
14:50 F
14:55 G
15:10 大平山
16:00 床尾峠
16:15 林道終点
16:55 林道分岐(オオボウキ谷)
17:50 虫木峠
松原林道基点 |
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虫木トンネルを抜けて国道からすぐ左へ上がると、松原林道入口で除雪はここまで。虫木峠はもう少し先にある。林道入口に「林道松原線起点」の表示がある。小雨の中を出発、191号線をスキーを載せた車が絶えず上がっていく。左手にホワイトバレーのスキー場が見える。林道をスノーモービルが登っていたようで、締まった轍の上を歩くと沈まない。林道は803ピークの北側を回り込んでいて、20分ほどで堀割に到着。
シモコ谷右岸に架かる橋 |
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シモコ谷の滝 |
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堀割を過ぎると松原林道は板ヶ谷川右岸を上がっていく。川の水量は雨と雪解けでかなり多い。下を見ると対岸のシモコ谷右岸から板ヶ谷川右岸に青い鉄の橋が架かっている。シモコ谷を見上げると50mほどの落差の滝がある。前方に大箒山へつながる尾根が見えてくる。林道分岐手前の谷は溢れんばかりの流れである。出発から50分ほどでオオボウキ谷とオオブナ谷の分岐に到着、林道はここで分岐する。分岐付近はスギ、ヒノキの大木が多い。
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オオボウキ谷右岸の林道を上がった。斜面の樹木の周りは黒い輪ができて雪解けが進んでいる。県営林松原事業区の看板があり、面積38.12ヘクタールとある。この辺りはヒノキ林が主のようだ。しばらく進むと橋があり、水が橋の上を溢れている。深いところで20cm、浅いところでも10cmほどある。飛び跳ねて橋を渡った。次の橋も水が溢れていた。大分上がったところで振り返ると大平山辺りが見え、左手に大箒山がある。左手に「水資源をつくる公団造林」と書かれた緑資源公団広島出張所の黄色い看板があった。
看板からほどなく林道は分岐し大箒山へ登っている。分岐から少し上がると林道終点。林道は鞍部近くまで延びていた。大箒山が目前に見える。ここでカンジキを履いた。オオボウキ谷水源の左岸に踏み跡があるようだ。ほどなくクロタキ谷へ越す鞍部へ到着。出発からちょうど2時間ほどだった。この頃には雨は止んでいた。
鞍部は1mほど盛り上がっており、ヒノキ林の北側は落ち込んでいる。ここは馬道が通っていたところであり、土塁が築かれている。この道は南の尾根の西側を通り、大箒山北の鞍部に出てA峯の南へ上がっていたようだ。
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オオボウキ谷を越える鞍部は「鉄の道」、タタラ道だった。この道は戸河内松原から大箒山付近、床尾峠を通って加計の杉泊(すぎのとまり)へ通じていた。
西谷(杉泊西)から戸河内の松原へ「吐虹垰」(とこうだお 床尾峠)を越していく道は「トコオ(床尾)道」と呼ばれ、奥地の鉄山からタタラ鉄を運び出し、米・塩を運びこむ「鉄の道」だった(「加計町史」)。
戸河内猪山の民話に「黒滝の権大重王神の話」(くろだきのごんだいじゅうおうじん)がある。八十次(やそじ)というじいさんが、加計の上調子(うえじょうし)から杉ノ泊を登って、床尾という所を越して黒滝へ抜けている。文政11年(1828年)頃の話と言うからタタラ道がすでにあり、上調子から黒滝へは、滝山川でなく稜線を通る「鉄の道」が利用されていたようだ。
寛政時代の伝承によると、文禄・慶長年間(1592~1614年)に中国山脈越えの石見那賀郡から山県郡奥山筋に通ずる空山道を開通させ、石見の砂鉄を山県郡側へ運送していた(寛政9年「鉄山諸事一件」)。
「『隅屋文書目録』に『石州波佐山、空山鉄山道紛攪一件』(1779年・安永8年)というのがあり、空山とあるのはこの山のことであろうか」(「西中国山地」桑原良敏)。
「鉄の道」は石見国から弥畝山、空山の北を通り、戸河内八幡村が「中場」と言われる中継点になっていた。中場に集められた砂鉄は戸河内、加計のタタラ場に運ばれた。
戸河内の松原はもっとも古い時期のタタラ操業で、寛文8年(1668)から加計村の佐々木家が操業開始し、松原は佐々木家にとって鉄山業の根拠地となった。チュウダア谷に中代屋、中台屋という鍛冶屋があったようだ。
山県郡内では鉄穴流しが禁止されていたため、郡内のタタラ経営者は原料となる砂鉄を石見国で購入し、郡内へ運び込む必要があったが、加計佐々木家のようにタタラと鍛冶屋を合わせて操業する鉄師でも、両者が同一場所で操業されない場合にはタタラでつくられた銑(ずく)を割鉄鍛冶屋へ搬送する必要があり、割鉄鍛冶屋で鍛造された割鉄を製品として出荷するため、加計村へ運ぶ必要があった。
これらの鉄山関係の諸物資の運送作業を農民たちが駄賃稼ぎとしておこなった。雪深い10月から3月頃を除いて4月から9月が運搬時期だった。
黐小屋鑪(戸河内餅木)から松原経由で月ノ子鍛冶屋(加計)まで銑の駄賃銀額は0.85匁(10貫目につき)だった。
鉄荷物は馬で運んだ。文政期(1804~1830年には戸河内村で267匹の馬が飼育されていた。宝暦期(1751~1764年)、松原だけで30匹の馬がいた。
こうして作られた割鉄や釘地鉄は加計村の鉄蔵に納められ、川舟で広島まで、広島から廻船で大坂、下関に運ばれた。(「戸河内町史」)。
以上が「鉄の道」の要約だが、鉄のルートは幾つかあったが、松原経由で加計に運ばれる道がよく使用されたようだ。
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鞍部の土塁から南の急な尾根を登った。開けたところに出て振り返ると、ガスで霞んでいるが、掛津山辺りが見える。雲が1000mを越えるあたりまで下りており見通しがない。右手にオオボウキ谷を見下ろせる。
急にガスが出てきて、視界は100mほど。鞍部へいったん下って登ると大箒山。ガスで視界は全くない。南よりに大きなブナがあり、計ると周囲2.1m。
「大箒山は戸河内町と加計町の境界にある山である。『戸河内森原家手鑑帖』(1715年)に大箒山の山名はない。加計町側の『加計村御建山御留山野山腰林御改帖』(1707年)に〝大はうき〟とあるのが初見と思われる。大箒山の山名は加計町側の呼称が一般化して現在も用いられていると考えるのが穏当のようだ」(「西中国山地」)。
「点の記」に、大箒山は二等三角点で点名は大坊木(おおぼうき)とあり、所在地は戸河内町大字松原、俗称大箒山と言う。選点は明治26年と古い。点名の〝大坊木〟は大箒山の東面、加計側の小字名である。南東の668ピーク(点名 上温井)の字名は〝大坊木〟となっている。温井側には大枋木林道(おおほうき)が通っている。
加計の地籍図によると、大坊木は山頂からカジヤ谷の北面、滝山川と戸河内境に挟まれる大箒山西面辺りをいう。
「温井ではオオホウキ、松原、杉泊ではオオボウキと濁音で呼ぶ人が多い」(「西中国山地」)。
杉泊の呼び名のオオボウキが、明治に入って地籍を決める時、大坊木と表したと思われる。戸河内の松原でもオオボウキと呼んでいるのは、「鉄の道」で松原と杉泊が繋がっていたためだろう。
箒の字をいつから当てるようになったのか定かでないが、比較的新しいと思われる。広島県統計年鑑を見ると、昭和元年(大箒山)、昭和29年(大坊木)、昭和33年(大箒山)と変遷している。
A峯の札 1996年2月27日とある |
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早々に東へ進みA峯へ向かった。踏み抜けそうな谷の雪を渡って登るとA峯。A峯付近に「大箒山」と書かれた10年前、1996年2月27日の札が掛かっていた。時期も同じ頃、ガスの濃い山に入って山頂を間違えたのかもしれない。
A峯からはアップダウンの少ない、1000mを越えない稜線が南へ延びている。1000mを超えているのは大箒山と大平山の周辺だけである。A峯から25分ほどでB峯。B峯のすぐ先に3.2mの二又ブナがあった。この稜線はブナが多い。東側はヒノキ林が上がっている。C峯を過ぎたところでヒノキが折れて白骨林のようになっており、東側が開けている。周辺はヒノキの倒木も多い。雪の重みや東側の風に耐え切れないで途中で折れた様は、加わった力の大きさを示している。
白骨林を過ぎるとこの尾根筋で一番大きなブナがあった。周囲3.4m、根元で見上げると雨を集めて幹を伝って絶えず水が落ちている。D峯には赤い境界見出標が貼り付けてある。
D峯から西へすすんで床尾山、茶色のブナの葉がまだぶら下がっていた。春になればいっせいに輝く緑に変わるだろう。D峯から20分ほどで床尾山、何の意味か「焼き直し品」と書かれたプレートがあった。
床尾山から25分で床尾峠、「鉄の道」はここから杉泊へ下りていた。床尾峠から965ピークを通り、E峯を過ぎて下りに入るとヒノキが多数、途中から折れている。ガスで視界がないが南側が開けている。前方にガスに煙る大平山の斜面が見える。F鞍部へ下りて大平山への登りに入ると、絶えず北風が当たり雪の斜面は固く締まっている。F鞍部から20分ほどで大平山山頂到着。山頂周辺もブナが多い。
大平山は四等三角点で所在地は大字松原となっており、選点は昭和27年で比較的新しい。
山頂から西のH峯を通り、ヨコエキの落口へ下りて、板ヶ谷川を上り堀越へ上がろうと思っていたが、余りに川の水量が多いのであきらめた。早々に下山すると急にガスが切れてきた。北側への展望、ホワイトバレーの先に雲の掛かった深入山が見える。さらに下ると南への展望があり、正教山とその左に草尾の段々畠が見える。ガスが切れたのは一瞬の間だった。E峯への登り、白骨林辺りから振り返ると、大平山がガスに隠れていた。
大平山から50分で床尾峠、ちょうど4時だった。南側は緩やかに下っている。北側のヒノキ林を下った。15分ほどで林道終点に出た。林道は意外と上部まで上がっていた。林道終点はオオブナ谷左岸にある。少し下るとスノーモービルの轍が下りていた。オオブナ谷と言うくらいだから、かつてはブナの鬱蒼とした森だったのだろう。今はヒノキで埋め尽くされている。
前方に大箒山が見える。中ノ原、ナメラ谷の分岐、サル谷の分岐過ぎて、林道の雪は谷へ落ちんばかりにせり出している。コンクリートの電柱を倒して簡易の渡り橋がある。その辺りの対岸は石垣が組まれており水田があったようだ。床尾峠から1時間ほどで林道分岐に戻った。見上げると青空が覗いていた。17時50分、虫木峠に帰着した。
サル谷とオオブナ谷 |
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オオブナ谷 |
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石垣 オオブナ谷 |
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板ヶ谷川 分岐下流付近 |
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箒、坊木を含む地名は東日本に多いようだ。近世初期に出羽流の製鉄技術を導入したことと関係しているのかもしれない。
坊木を検索すると澪標がヒットする。澪標(みおつくし)は「水の緒」の意で、内湾や河口付近の水の流れの筋、航路を示すために立てられた杭のことで、近世では、澪木(みおぎ)・水尾坊木(みおぼうぎ)と呼んでいる。和歌では「身を尽くし」にかけて用いることが多い。
源氏物語の第14帖は澪標(みおつくし)、第2帖は帚木(ははきぎ)で、箒は帚とも書く。帚木は伝説の木で、遠くからは見えるが、近くに行くと見えなくなる木。
水尾坊木は水路を示す道標のこと。
「ボーギのキビレは、榜木の立ててある鞍部の意であるが…国境にある峠名として、傍示、防地、棒路、法師、法事、棒木等の呼称が記されているが榜示木から出ていることは明らかである」(「西中国山地」)。
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カシミールデータ
総沿面距離19.2km
標高差352m
区間沿面距離
虫木峠
↓ 5.1km
鞍部
↓ 1.2km
大箒山
↓ 3.7km
床尾山
↓ 2.4km
大平山
↓ 1.7km
床尾峠
↓ 2.7km
林道分岐(オオボウキ谷)
↓ 2.4km
虫木峠
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