山歩き

チュウダア…大箒山…掘割…オオノタ谷 2006/9/23
チュウダア…馬道…オオボウキ谷鞍部…馬道…大箒山…大箒山西尾根…掘割…オオノタ谷…松原…チュウダア

■大箒山(オオホウキヤマ)1013.3m:広島県山県郡戸河内町大字松原(点の記)

林道仲代線入口
チュウダア谷
ヒノキ林

坊主の山

林道を上がる
幅広の鉄の馬道
大箒山 864ピーク南の鞍部から
オオボウキ谷の先に見える女鹿平山と冠山
大箒山
十方山
苅尾山と掛津山
深入山
大箒山
大箒山東の小鞍部
大箒山
深入山とホワイトバレー 大箒山西から
降りた林道の交差点
スギ林
大平山
垰から上がる馬道
松原小学校
7:25 チュウダア出発 晴れ 気温6度
 

8:00 仲代林道終点
9:10 オオボウキ谷鞍部
10:25 大箒山北東の鞍部
10:40 大箒山東の小鞍部
10:55 大箒山
12:25 林道分岐
12:55 掘割
13:55 チュウダア入口

 松原交差点から県道11号線(旭戸河内線)を北へ1kmほど進むとチュウダアの入口である。

 山間の朝の気温は6度、ついこないだまで、山奥でも20度前後の気温だったのがウソのようである。林道の入口のおばさんに道を尋ねた。チュウダアの由来を聞いてみると、「仲代屋」の墓がすぐ近くにあると言う。林道の入口に台風で倒れた「林道仲代線起点」の標識が寝かせてあった。

 チュウダアは変わった呼び名だが、安蔵寺山の南にもチュウダアがある。

「戸河内町の松原から大箒山への登り口となっている谷にチュウダアの谷≠ェある。これは中代屋(チュウダイヤ)という屋号の家があった谷という意であるが、

 チュウダイ→チュウダア

と転訛している。六日市町高尻の奥の折元にもチュウダア≠ニ呼ばれているかなりおおきな谷があるが、この呼称の意について付近の村人に聞いて見たが誰も知らない」(「西中国山地」桑原良敏)。

 桑原氏はチュウダイの呼び名がチュウダアに転訛したとしている。加計町史によると、加計村八右衛門家(隅屋)は寛文6年(1666年)に、戸河内村松原中台山に炭山を移転したとあるので、チュウダイの呼び名はかなり古いようだ。

 チュウダアの読みをそのままアイヌ語にあてはめて見ると、
 chiw-ta-an-nay チュウ・タ・アン・ナイ 「急流が・そこに・ある・川」の意がある。川の交わる所が、三角形の先端のように尖っていることを「水流が・立つ」と表現していたようだ。

 松原のチュウダアの北に張四郎谷がある。アイヌ語で、
 so-us-oro-nay ショウ・ウシ・オロ・ナイ 「滝・ある・所の・川」の意がある。

 細見谷の入口の立野はアイヌ語で、
 putu-chimi-nay
 プト・チミ・ナイ
 その川口・左右に分ける・川

戸河内・松原
安蔵寺山南
細見谷入口


 県道からチュウダアの谷に沿う、林道仲代線を上がった。稲刈りを終わった田と、穂を垂れた水田が並んでいる。舗装道はすぐ終わり、土の林道になる。アキギリが咲いている。水田だったと思われる石垣の中はヒノキ林になっている。樹林のなかに日が入ってきた。しばらく林道を上がると、北側の山は丸坊主になっている。

 二万五千地形図にある林道終点付近に「仲代線終点」の標識があるが、林道はさらに上に登っている。終点標識から500mほど登った所が、林道の終点だった。終点からヤブを少し上がると、チュウタアの谷と張四郎谷が交わる鞍部に出る。そこに山道があった。幅広の鉄を運んだ馬道である。

 松原から加計に抜ける鉄の道は、チュウダアの谷を通り、オオボウキ谷の鞍部に出て、大箒山北の鞍部を通り、尾根を南へ下り、床尾峠から杉の泊へ降りていた。

 鉄荷物は馬で運んだ。文政期(1804〜1830年には戸河内村で267匹の馬が飼育されていた。宝暦期(1751〜1764年)、松原だけで30匹の馬がいたと言う。

 幅広の鉄の馬道はしっかりと残っていた。馬を通すため緩やかに登っていく。斜面の急なところは、掘って傾斜を低くしてある。この古道が残っているのは、長く踏み固められた道だからであろう。
 大きなブナが一本、山の斜面に残っていた。864ピーク南の鞍部に差し掛かると、キャキャキャと、けたたましく鳴きながら、頭上の幹に留まった。頭の赤い、アカゲラのようだ。

 鞍部に出ると東側が開け、目前に大箒山が見えた。チェンソーの音が谷に唸っている。ここからは、3、4mのヒノキ林のヤブ道になる。大箒山の西先に大平山が覗いている。眼下にオオボウキ谷に上がる林道の終点が見える。オオボウキ谷の先に市間山、女鹿平山が見えてくる。ヤブ道は下を見ると、所々掘った道なので、それと判る。ヒノキの樹林帯に入り、ヤブを抜けると、東のクロダキ谷とオオボウキ谷の鞍部に出た。

 鞍部の西側にある林道終点から鞍部と尾根道へ、ササが刈ってある。ヒノキの枝打ちされた馬道を進んだ。200mほど進んだところで、猛烈なヤブにぶつかった。尾根道へ上がった。今日は見通しが良く、遠くまでくっきりと見える展望がすばらしかった。オオボウキ谷の先に十方山、恐羅漢から伸びる尾根の障壁があり、さらにその奥に冠山の特徴ある山形が見える。深入山は登っている人が見えると思われるほど迫っている。北には苅尾山、掛津山の大きな山容がある。

大箒山東の小鞍部
 

 尾根道を進んだ。踏み跡があり、ササは膝下ほどである。大箒山が迫ってくる。大箒山北東の鞍部に降りた。西からササの茂った馬道が上がっている。大箒山の東を通る馬道を進んだ。馬道の谷の所は、がけ崩れで崩壊していた。大箒山東の小鞍部に「大箒山」と書かれた道標があった。山道が上がっている。ここで鉄の馬道と分かれて大箒山へ登った。15分ほどで山頂に到着。

 山頂は樹林で展望はないが、北へ少し下ると展望がある。大箒山は点名が「大坊木」で二等三角点、明治26年の選点。戸河内松原の共有地になっている。点名の「大坊木」(オオボウキ)は、大箒山東面の地籍名である。

 大箒山には東と西から上がるオオホウキ谷とオオボウキ谷の二つの谷がある。東のオオホウキ谷はアイヌ語で、

 オオホウキ谷
 ooho-nup-kus-nay
 オオホ・ヌプ・クシ・ナイ
 深い・野を・通る・川

大箒山の2.1mブナ

 大箒山から周囲2.1mのブナの横を通って、西へ下りる尾根を下った。ササの低い踏み跡がある。開けたところで、深入山の坊主が間近に見える。その右に苅尾山がある。左に最早山、向山がある。大平山は樹林の間から僅かに見える程度である。所々深いヤブがあるが、踏み跡が西へ降りる尾根に続いている。林道に降りるすぐ手前で、踏み跡がなくなったが、ちょうどオオブナ谷へ上がる林道とオオボウキ谷の林道の分岐のスギ林に降りた。

 松原林道を西へ進んだ。スギ林の谷底から、人が喋っているような、流れの音が聞こえてくる。掘割の手前から大平山が正面に見える。掘割を過ぎて、垰集落(タオ)から上がる小谷を覗いてみると道があった。降りてみると幅広の馬道のようだった。おそらく、松原から掘割、板ヶ谷を通る古道の一部だった思われる。倒木で歩きにくいが、ほどなく車道に出た。「中国電力所有土地」の看板があり、水位計と書かれた貯水池があった。

 

仲代屋の墓

 車道を降りて垰の集落に出た。そこからオオノタ谷を降りる旧道を下った。金色の稲穂が頭を下げている。コブ山を正面にみながら車道を下り、松原交差点の北東の、県道11号線の松原小学校付近に出た。中郷橋を渡り、ほどなくチュウダアの谷の入口に帰着した。チュウダアの谷の右岸にある墓に寄ってみた。正面の昭和33年と刻まれた墓に「仲代屋」とあった。その右横にかなり古い四つの墓石があった。

 戸河内松原はもっとも古い時期のタタラ操業で、寛文8年(1668)から加計村の佐々木家が操業開始し、松原は佐々木家にとって鉄山業の根拠地となった。チュウダア谷に中代屋、中台屋という鍛冶屋があったと言うから、「仲代
屋」の墓はこの鍛冶屋の祖先と思われる。

仲代屋の墓
オオノタ谷
オオノタ谷

 戸河内松原付近の二万五千地形を見ると、大きな口のある特徴的な顔の形をしている。南から松原へオオノタ谷が降りている。オオノタ谷はアイヌ語で、

 poro-nutap-nay
 ポロ・ヌタプ・ナイ
 大きい・川の湾曲内の地の・川

戸河内・松原


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カシミールデータ
総沿面距離11.0km
標高差435m

区間沿面距離
チュウダア入口
↓ 3.0km
クロダキ谷鞍部
↓ 1.6km
大箒山
↓ 1.9km
谷の分岐
↓ 4.5km
チュウダア入口

 
 

苅尾山と掛津山
深入山
十方山
登路(青線は磁北線 薄茶は900m超 茶は1000m超)