6:00 蔵座駐車場 気温12度 晴れ
6:25 西登山口
7:10 展望岩
7:20 八畳岩
7:35 深入山
8:30 いこいの村
8:50 シンニュウ谷
9:10 ノボリタテ
9:35 堀割峠(深入峠)
10:40 河内神社
10:50 辰己山
11:05 河内神社
11:25 191号線
11:55 先峠
12:00 西登山口
12:20 駐車場
蔵座高原駐車場を出発、気温12度。フランスギク、アザミが咲く。191号線を渡り、南登山口に進む。日が入る深入山を見上げる。西回りの登山道を進む。西側にサバノ頭、恐羅漢山、砥石郷山が見える。レンゲツツジが咲く。大谷管理道分岐を過ぎて、西登山口に進む。タンナサワフタギの白い花。キツツキの機関銃の連射。
あちこちタンナサワフタギが多い。分岐に出ると東側が開ける。最早山へ続く尾根の向こうに大平山が見える。山の上部へ草原が続く。ツボスミレが咲く。ギンリョウソウ、コナスビ。水場で手を洗う。コアジサイはツボミ。ハスノハイチゴの花。ウリハダカエデの翼の果実。林間から十方山が見える。登山道を水が流れている。ナガバモミジイチゴの黄色い実。チョッキチョッキを繰り返し、その後、ホーケキョが聞こええる。
展望岩に進む。向真入山の先に十方山と恐羅漢が見え、砥石郷、天杉、聖と続く。ズミが実を付ける。ニョイスミレ、レンゲツツジ。八畳岩に進む。山道を進むと山頂が見えてくる。青空の草原を進む。草原は北側のトンガリ山の手前まで続いている。トンガリ山の後に苅尾山と掛津山。
ツボスミレ |
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ギンリョウソウ |
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ハスノハイチゴ |
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アラゲナツハゼ |
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足元に角礫が多くなる。八畳岩の少し下から山頂へ続く登山道の角礫は、周氷河地形を表すものだという。
「深入山山頂部より、周氷河地形と考えられる、構造土・ブロックストームが、1965年に下村彦一氏らによって発見され報告された」
「周氷河地形を特徴づける基本的作用は、地中の水の凍結と融解である。岩石は孔隙中の水の凍結によって破砕され、岩塊が地表を覆う岩石原となり、それらの岩片が凍結融解の繰り返しや滑落集合によって、構造上、石畳、アースハンモックなどの形をしている」
「深入山山頂の1100mに平坦面があり、それにより山頂1153.0mまでドーム状になっている。このドーム状の部分に角礫乱層があり表面は黒ボクで覆われて草原になっているが、西の八畳岩へ向かって下る所に露出部があり角礫が散乱している」(『西中国山地』桑原良敏)。
蔵座高原から1時間半ほどで深入山。気温18度で北風が吹く。360度の展望。恐羅漢山、砥石郷山、聖山、高岳、弥畝山と風車、苅尾山、掛津山、北方向は霞んでいるが、大箒山が目立つ。大平山、天上山、向山、サバノ頭。
浸食が進む登山道を下る。分岐をいこいの村へ下る。ワラビが伸びる。白花のニガナが咲く。長く続く下りの階段は足にきつい。日当たりにコアジサイが咲く。山頂から1時間ほどで、いこいの村駐車場に出る。
山際にブタナが群生する。分岐に進むと、旧国道・深入峠の道標がある。車道を進む。タンナサワフタギが咲く。「ササユリ等の採取はできません」と、広島県の標識がある。シンニュウ谷付近にエゴノキが咲いていた。冷涼な谷間を好むようだ。ウツボグサ、ウツギが咲き、谷にミズタビラコ。谷を通るたびにエゴノキの花。ミヤマガマズミの緑の実。
草原の縁に立つと、深入山から涼しい風が吹き下ろす。小谷が通る車道の真ん中にシマヘビ。ノボリタテの谷を過ぎる。コシアブラの木が倒れていた。イワガラミが枯木に巻き付いて、ツボミが出ている。ヤマボウシが咲く。アズキナシの花は終わり。途中、山側に石垣が組まれている。マムシグサがかま首をもたげる。
オシロイ谷の上流に石垣がある。堰堤のように見える。堀割峠(深入峠)に差し掛かると、冷たい向かい風が吹き抜ける。気温19度。深入峠の標識に「Shinnyudao
標高890m」と記されている。
レンゲツツジ |
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マムシグサ |
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エゴノキ |
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モリアオガエルの卵 ブドウ谷 |
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峠を少し下ると、ブドウ谷右岸の水源に小屋がある。小屋の下に谷に石垣が見え、ブドウ谷沿いに古道があるようだ。ヤマボウシ、ニガナ、コアジサイが咲く。ブドウ谷を渡る地点に進むと、谷の左岸に山道が通っていた。さらに進むと、左岸に別荘がある。谷沿いにエゴノキの花。鉄橋が架かる。橋の左岸の山側は草原になっていた。牧草地のようだ。
モリアオガエルの卵がぶら下がる池がある。足元には轢かれた蛇の死骸。ホオノキ、カンボク、ヤブウツギ、レンゲツツジ、キショウブ、白いハナショウブが咲く。茅葺の廃屋が立っている。右岸に作業道「作登利木線」が入っている。右岸に別荘。ウバユリの茎が伸びる。左岸の真入山かじや跡を過ぎると、右岸に石垣が組まれ、石灯篭が立つ。何かの施設かな。
真っすぐに伸びる車道を進むと、北側に古民家喫茶、古民家民宿の看板がある。奥に民家が見え、元は茅葺の屋根だったようだ。牛が鳴く道を河内神社の入口に進む。車道から草道を通り、スギ林を抜けると鳥居が立つ。鳥居を潜ると、左右に狛犬、巨杉が伸び、奥に社殿が立つ。
河内神社の東側が草原で、草原の奥へ進み、東端の林を抜けると、三角点に向かって草原になっている。草原から山に入ると、猛烈な薮で三角点は埋もれているようだった。近くに境界柱が立っていた。来た道を引き返して車道に戻る。北側の水田の向こうに黒毛和牛が10頭余り見える。水路にキショウブが咲く。
車道を南へ進む。ツボスミレ、マユミ、ウワミズザクラ、オククルマムグラ。トンガリ山が見える。破線道へ入ったが、茂っていて引き返した。イデガ谷落ち口の池の傍にハンカイソウの看板。191号線に出る。タンナサワフタギが多い。キブシが実を付け、エゴノキが咲く。アナゴヤ谷水源の向真入積石塚、向真入かじや跡を過ぎる。
マムシグサが多い。先峠で長い登り坂が終わる。西登山口の谷で一休み、顔を洗った。ミヤマガマズミが咲く。ヤマウルシの雌花、ノイバラの花、キショウブ、アザミ、セイヨウミヤコグサが咲く。深入山の登り下りに2時間半、山麓一周に4時間ほどで蔵座高原駐車場に帰着。気温は21度だった。
マユミ |
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オククルマムグラ |
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キブシ |
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ハナショウブ |
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キショウブ |
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イワガラミ |
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ニガナ |
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ニガナ |
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タンナサワフタギ |
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ノイバラ |
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セイヨウミヤコグサ |
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フランスギク |
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ノアザミ |
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コナスビ |
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ナガバモミジイチゴ |
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アズキナシ |
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アズキナシ |
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ウツボグサ |
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ミズタビラコ |
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ウツギ |
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ミヤマガマズミ |
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ミヤマガマズミ |
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ホオノキ |
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ヤブウツギ |
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レンゲツツジ |
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ウワミズザクラ |
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ヤマウルシ |
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ハクウンボク 花後 |
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■地名考
新入山 深入山
「独立峯として目立つ山なのに、古い地誌に、深入山の記述がないのは意外である。『芸藩通志』戸河内村絵図では、完全に無視されていて山の形すら描かれていない。考えて見れば、山の呼称はほとんどが山林の名である。木の無い草山は論外であったのかも知れぬ。南麓の蔵座や北麓の桃木畑には鈩場があり、運搬のためには馬も必要である。深入山一帯は、昔から放牧場として利用されていて無毛の山となっていたのであろう。樹林がなかったので山林名は、つけられていなかったのかも知れないし別の名で呼ばれていたのかも知れぬ。明治二十一年、参謀本部陸軍測量部発行の輯修二十万分の一『広島』に、深入山の山名があるのが初見である。明治三十ニ年、山頂に設置された三等三角点の点称は『新入山』となっている」(「西中国山地」桑原良敏)。
1725年の新入山は草山
『戸河内町史』によると「享保拾年巳十月御改山県郡戸河内邑御山帖」(享保10年・1725)及び文政期の資料(『戸河内町史』)に、新入山がある。
新入山(小板ヶ原)の植生
『戸河内邑御山帖』にある植生
(享保10年・1725年)
新入山(野山) 草山
(文政2年・1829年の資料)(『戸河内町史』)
新入山(野山) 蕨山
「野山」(のざん)は農民が個別あるいは共同所持する林野で、田畑に肥し草を採取するためなどに利用された。その場合には、春先に山焼きを必要とした。また、野山は、牛馬の飼い草を採ったり、薪を得るためにも利用された(『戸河内町史』)。
新入山は1725年には草山、100年後は蕨山となっている。『西中国山地』にあるように、周辺のたたら操業のために利用された山であったと考えられる。
深入山周辺の鑪操業
●佐々木家の鑪操業状況
1699〜1705年 蔵座鑪
1708〜1712年 蔵座鑪
1752〜1755年 小板鑪
1777〜1783年 甲繋鑪
1840〜1850年 甲繋鑪
●香川家の鑪操業状況
1750〜1752年 小板ヶ原
炭山所 小板ヶ原新入山・くみヶ原・城山・栃谷山
「加計町史」によれば、餅の木鑪は寛政6年(1794〜1798)、文化2年(1805〜1810)に操業しているが、山林として 小板城山・新入山・くみけ平山がある。
鑪操業の炭山として小板ヶ原に「新入山」の山名がみられるが、これは深入山のことと思われる。1725年には新入山は草山となっているので、それ以前から炭山として伐採されていたようだ。1500年代の終わりには石見の砂鉄を山県郡側へ運び込んでいるので、新入山の炭山としての歴史は古いのかもしれない。
広島県指定史跡のたたら・かじや跡(深入山周辺)
(遺跡番号・名称・年代・場所)
32 庄原たたら跡 寛文6(1666)年以前 餅の木
33 餅の木山たたら跡 寛文6(1666)年 餅の木
35 向真入かじや跡 小板(深入山西)
37 小坂たたら跡 小板(深入山北)
39 真入山第1号かじや跡 小板(深入山北)
40 真人山第2号かじや跡 小板(深入山北)
45 水梨たたら跡 近世(ミズナシ川)
46 登尾山たたら跡 近世 松原(深入山東)
47 石塔原たたら跡 近世 松原(深入山東)
48 桃木畠たたら跡 近世 松原(深入山東)
50 蔵座山たたら跡 近世 松原(深入山南)
「シンニュウ」地名の変遷
1725年(享保10年) 新入山(『戸河内邑山帖』)
1880年(明治13年) 深入山(『山県郡地誌略』)
1882年 深入山(『芸備両国名斎智頭』)
1888年(明治21年)深入山
(陸軍測量部発行の二十万分の一図)
深入山と周辺の地名
深入山三角点(点名 新入山 所在地 字松原)
向眞入山(所在地 字小板)
辰己山(深入山北818m三角点 所在地 字深入)
小板地区字名(『戸河内町史』)
真入山(シンニュウザン)
向真入(ムコウシンニュウ)
シンニュウの地名は新入 深入 真入と変遷した。1725年の新入が初見のようだ。
吉和村の新入山(『吉和村誌』)
『下調べ書出帳』(文政2年・1819年)
新入栩山(野山)
『御建山・野山・腰林帖』(享保10年・1725年)
新入なめらとち山(野山)(1里余×1里10町)
新入栩山、新入なめらとち山の位置は不明だが、八郎川沿いの山と考えられる。八郎川の支流にナメラ谷、トチ谷がある。4km四方だから、かなり大きな野山(ノザン)である。
「ナメラ谷はタジマ谷に西北から合流しワサビ谷もタジマ谷に合流する。トチ山は大杉谷と八幡の谷にあり、この間、3km以上。その背後の山は千両山(三坂山)から中津谷川に至る連丘である。野山としては最も大きい方だから、おそらく滑りやすい山に老木が茂った八郎川全域をさしているのであろう。新入山・なめら山・栃山の合成語で後滑ら山を省いたとみられるが、『新入』の意味が分らぬ。しかも八郎、三坂、千両といった通称もある…
…滑山を東半分とすれば二艘、四艘をふくむ神秘に包まれた三坂、千両山は吉和村だとは正しくいい切れず今、小さい谷の名の栃(栩)山だという事になる。これには理由がある…1467年の『曽木之事』のように周防側はこの頃すでにこの山中の栃材を取得していたのである。なぜなら、大内氏はこの1世紀以前の1336年に石見国の守護となり山県郡戸河内辺りをも支配していたからである」(『吉和村誌』)。
『芸藩通志』に二艘船岩、四艘船岩があることから、かなり古くから村人が入り、田島坊主、坊主山などの地名からかつて、伐採された山であったと思われる。
戸河内村、吉和村で1725年(享保10年)に、野山として「新入山」の地名が見られるのは偶然ではないように思われる。
ハチロウスギと東大寺再建
八郎川の支流、ナメラ谷にオバケ杉がある。『山毛欅の森の詩』の西村保夫氏によると、幹周り約10m、樹齢560年という。ハチロウスギの巨木は東大寺再建に伐採された。
「吉和村内でも天然スギが特に多く分布している地域を総称して、地元では千両山と呼んでいる。『千両に値するスギの美林がある山』と言う意味で、古くからそう呼びならされている。地図上では中津谷の西側、八郎谷と四そう谷にはさまれた、およそ850haの地域をさしており、その中には、広島県指定の特別母樹林も含まれている。
調査は千両山を中心に行ったが、吉和村における天然スギの分布は、南の冠山(1339m)付近にまで拡がっており、調査地点もそれに伴って分散している。調査地域の標高は600〜1100m、地質は大部分が古生層である。又、1941年〜1970年の年平均降水量は2276oで、平均積雪深は110cmと多雪地帯であり、この積雪がハチロウスギの伏条更新の重要な要因となっている。
記録(宮本常一:中国風土記)によると、奈良の東大寺再建の折には、県境付近のスギが山口県側へ相当量切り出されている。その中には、柱にして長さ65尺(21.5m)、元口径5尺3寸(1.7
m)という巨木が含まれていたという。又、明治の末期には、切り株の上に大人が大の字になっても、手足の先が外へ出ないような木が、何本もあったと言うことである。
現在そのような木は、極めてまれにしかみることはできないが、このことは、これまでかなりの人為が加えられたことを物語っている。
又、中本造林株式会社の西垣義憲氏によれば会社に残されている大正時代の記録をみると、現在スギの多いところは、当時広葉樹が多かったところであるという。その原因としては、昭和10年代に枕木生産のために行われた、クリ等の広葉樹の抜き伐りを挙げておられる。このように、本地域に現在残されている森林の様子は、本来の姿とは相当異なっていると考えられ、特にスギが純林に近い状態で残っている林分
は、人為的な影響の結果である可能性が強い」(『ハチロウスギ天然林の森林植生に関する研究』池田作太郎)。
「新」は「たきぎをとる」の意
角川「新字源」の「新」は、第一に「たきぎをとる」の意で、次のように記されている。
「新 もと、斤(オノ)と、えだのわかわかしくしげった木の意と音とを示すシン(木と、音符辛シン、しげる意→蓁シンとから成る。辛は省略形)とから成り、若木を切ってたきぎにする意を表した。薪の源字。転じて『あたらしい』の意に用いる。 意味@たきぎをとる。Aあたらしい。あらた。Bあたらしくする。…」
深入山は、かつては木が茂る山であったが、鈩操業以降、伐採されて、草山、蕨山になった。そのため新入山と呼ばれるようになったと思われる。新入山とは「たきぎをとる」ために入る山の意であろう。
深入山の土壌図に見られる植生
褐色森林土壌 Kwa-1 Kwa-2
乾性褐色森林土壌 Fut-1
褐色森林土壌 Tak-2
黒ボク土 Ysi-1
深入山全体は褐色森林土壌が分布している。山の周辺部に黒ボク土が分布する。深入山はかつて森林が覆い、周辺部は草原植生であったと考えられる。
「日本の土壌では、森林下の土壌、特に褐色森林土壌が圧倒的に多く、腐植含量がきわめて高いという特徴を持つ。また、イネ科植物の影響下に形成されたと推定される黒ボク土壌の分布も広い」(環境省自然環境局生物多様性センターHP)。
カシミール3Dデータ
総沿面距離15.9km
標高差389m
区間沿面距離
蔵座駐車場
↓ 3.9km
深入山
↓ 4.3km
深入峠(堀割峠)
↓ 3.0km
辰己山
↓ 4.7km
蔵座駐車場
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