6:00 後温井駐車場 気温4度 晴れ
6:20 アンテナ塔(大箒トンネル上)
6:25 瀧山峡大橋
6:50 猪山展望台
7:05 古道入口(電気柵)
7:50 新盆徳橋(盆徳滝の上)
8:20 とや橋(渡屋橋・186号線)
8:40 黒滝橋
8:50 堰堤
9:10 古道橋跡
9:40 黒瀧神社跡
10:40 黒滝第2号たたら跡
10:45 左岸作業道終点
11:40 クロタキ谷左谷鞍部
12:00 灰床原
12:15 大箒林道終点
12:20 登山口(大箒林道)
13:00 14番鉄塔
13:15 向イ山林道
13:35 大箒林道起点
14:00 後温井駐車場
後温井駐車場を出発、気温4度、夜明けの空に滝山のシルエット、その左の尾根に送電線鉄塔が見える。186号線を渡り、大箒林道に入る。ヤマザクラが咲く。国道の先に高鉢山を望む。花を下げたキブシが多い。20分ほどでアンテナ塔、タムシバが咲く、キツツキのドラミングが響く。
ササ原を下ると、大箒山トンネルの上のサイレン塔に出る。そこから東側を下り、トンネル出口の横へ降りる。西側に894ピークが大きく見え、その左を送電線が延びている。木々の新緑と花々が湖岸を覆っている。12番鉄塔の右に猪山展望台が見える。
滝山と高鉢山の間に遠くゴミカセ山が見える。橋を渡り左岸の遊歩道に入ると倒木が塞ぐ。イカリソウが咲く。車道に出て坂を上がる。大橋から20分ほどで猪山展望台。眼下に大橋とダム湖を見下ろす。送電線の左にA峯からB峯への伐採尾根が見える。向山の下の北西方向の山腹に大きい崖が見える。展望台のヤマザクラが咲き始め、アセビがたくさんの花を付ける。展望台の下の石垣は、旧道の石垣を復元している。
イカリソウ |
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ヤマルリソウ |
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展望台から下る。クロモジ、ダンコウバイの花。雉野原キャンプ場に満開のサクラが見える。洗川の標識から少し先で旧道へ入る。スギ林を通り、小谷を渡る所に電気柵が設置されていたが、撤去されていた。マムシグサが伸びている。旧道沿いの電線も撤去されていた。イカリソウが多い。
コバノミツバツツジが咲き始めている。西側へ伐採尾根を望む。キブシ、ヤマザクラが咲く。サクラ花の縁がピンクだった。山側に石垣の水路が入っている。ヒサカキの小さい花。スギ林の中にコンクリの基礎跡がある。伐採尾根を望む。山側に大岩の石垣が組んである。
旧道の北側の入口の電気柵も撤去されているが、電気柵注意の標識はそのまま立ててあった。西側の芽吹きの山は白っぽい。伐採尾根を遠望する。眼下に国道の分岐点があり、ここから道は小原、猪山へ入る。スイセンがポツンと咲いていた。新猪山大橋を渡り、出発から2時間ほどで盆徳滝。山側の民家は廃屋になっている。橋の下に滝が落ちている。
盆徳滝から榎平山線に入る。ここから伐採尾根を遠望できる。アカシデにたくさんの雄花序。盆徳滝への入口を過ぎる。アセビの花が多い。タムシバが咲く。コバノミツバツツジは咲き始め。下山ダムの先に大佐川が見える。ダンコウバイの黄色の花。ヤマグルマの葉が出ている。盆徳滝から30分ほどで、とや橋。
上流に下山発電所が見える。国道を渡り、下山橋山林道に入る。左手に黒滝洞門を見る。保護林の標識、代表的な樹種にナラ類、カシ類。途中に下山造林地の標識。山側へ分岐道が入る。山へ入る道に石垣が組まれている。とや橋から20分で黒滝橋。入口は通行止。右岸に葉が落ちた高いメタセコイアが見える。
メタセコイアの木の前に向い山黒滝事業区の標識がある。林道上にメタセコイアの雄花序がたくさん落ちていた。堰堤の上流の川原に降りてみた。数分で鉄滓を8個見つけた。数センチ程度の大きさで、ここに流されてくるまでに大分浸食されたようだ。フキノトウが伸びている。
マムシグサ |
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キブシ |
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スギ林の倒木が林道を塞ぐ。大岩が山側から落ちていた。最近の落石のようだ。スギ林の間に滝が見える。林道から谷側に古道が通っている。古道は廃屋の下流で谷へ落ちている。右岸を見ると石垣が組まれていた。ここに橋が架かっていたと思われる。右岸へ渡り、右岸の古道の上へ出た。左岸に廃屋が見える。
右岸の古道を進むが、道を覆う倒木が多い。左岸に黒滝かじや跡が見える。古道はヒノキの倒木で埋まっていた。川原へ回り込んで、クロタキ谷の分岐に出る。左谷は宮ヶ谷と呼ぶようだ。倒木が覆う宮ヶ谷右岸を進む。スギとトチの大木が見えると、黒瀧神社跡。昨年は気が付かなかったが、右岸の古道に「五大龍王神社後」の小さい石柱が立っていた。
倒れた黒瀧神社跡の横に「五大龍王黒瀧神社後」の石柱が立つ。石柱の反対側に「昭和51年11月15日」の日付。大きい3本のスギの周囲を測ってみる。3.8m、3.9m、3.9mであった。北側の大スギの先に小さい石柱が見えた。「五大龍王神社後」とある。神社跡付近の川原に大きい鉄滓が二つあった。神社跡の西側にも石柱があった。この石柱には文字が彫ってなかった。
ヒサカキ |
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アカシデ |
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タムシバ |
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周囲158cm 年輪65年 |
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右岸の古道を進む。右岸に石垣があり、谷中にコンクリの橋のようなものがあった。左岸へ渡る橋跡のようであった。スギがきれいに枝打ちされているが、歩くたびに枝に残る花粉が舞い上がる。スギ林を進む。炭焼跡がある。間伐された倒木の中を乗り越える。左岸に石垣、右岸にも石垣、右岸に渡ると黒滝第2号たたら跡。石積がある。
たたら跡から上流左岸が作業道終点。作業道が水源上流へ続いている。泥道にイノシシの足跡。作業道は分岐し、左岸山側と右岸の谷側に続く。道は右岸を進み、一反右岸山側に回って谷へ降りる。左岸、右岸の山腹に作業道が見える。伐採されたスギの切株の周囲は158cm、年輪は65年。
道は左岸へ、丸太橋を右岸へ渡る。途中、道は山側へ入っているのでヒノキ林の谷を進む。両岸の山に作業道が見える。谷から左岸の作業道に出る。結局、作業道は水源鞍部まで続いていた。鞍部に「火の用心」の石柱が立つ。
植林地の谷を下る。15分ほどで灰床原の平坦地に出る。途中、クマの寝床、ササの円座があった。クロタキ谷左谷鞍部から30分ほどで大箒林道終点に出た。5分ほどで大箒山登山口。道標が落ちている。フキノトウが伸びる。クロモジの花。ヒノキ林手前から雑木林の尾根を下る。タムシバが咲く。ヌタ場があった。町有林石柱。
林道から30分ほどで14番鉄塔。ショウジョウバカマが咲く。送電線は滝山川左岸の山へ延び、鉄塔が山へ上がっているのが見える。急坂を下る。小屋跡に13番14番標柱。10分ほどで向イ山林道に出る。気温25度で暑い。林道は倒木が塞ぐ。20分ほどで大箒林道起点。朝には咲いてなかった大箒林道入口のコバノミツバツツジは、たくさんの花を付けていた。
コバノミツバツツジ
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コバノミツバツツジ
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ヒュウガミズキ
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ヒュウガミズキ
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ショウジョウバカマ
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ヤマザクラ
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ニシキゴロモ
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アセビ
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ヤマグルマ
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アラカシ
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メタセコイア
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メタセコイア 雄花序
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フキノトウ
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ミヤマシキミ
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イヌシデ
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■地名考
とごうちの民話(第23話)
黒滝の権大重王神の話(猪山)
(くろだきのごんだいじゅうおうじん)
黒滝の権大重王神の話(要旨、下に全文)
「黒滝の宮ヶ谷の入口にお宮がある。
この宮の神様は権大重王神といい、山を守る神です。
宮ヶ谷入口に一人
王泊の上の向山に一人
王泊ダムの下の八神栃の木の根に一人
王泊ダムの下の島岩に一人
向山日落滝の下の大岩に一人
計、五人兄弟がおり、各山の神様です。
日落(ひうち)の神様は、猪山の岡田の神様の真向いに安置してある。岡田の宮は猪山郷社になっている。
たたら鍛冶屋がここから移る時、宮ヶ谷の神様も、お移ししようと考えたが、加計の長尾神社の太夫弟子に聞くと、20年したら黒滝が盛んになるので、神様を残して、たたら鍛冶屋の人たちは他所へ行ったという。
それから15年後、八十次というじいさんが、子ども3人を連れて、加計の上調子から杉ノ泊を登って、床尾を越してやって来た。黒滝に小屋を建てて開墾し、黒滝に一町歩の田畑を作った。兄は利平、二男は丈太郎、三男は音吉といい、4人で働いた。
八十次が黒滝に来た時には、田の中に木が生い茂り、1枚耕すにも、たいそう手間がかかったと、私が子どものころ聞いたもんです。昭和4年の春まで、黒滝から猪山小学校に生徒が通っていたことを懐かしく思い出し、今でも忘れることはできません」
「権大重王神」は、「五大龍王黒瀧神社」
宮ヶ谷はクロタキ谷の支谷、黒瀧神社跡がある谷のことだろう。
王泊の上の向山は王泊ダム下流右岸の山。
八神栃は八神洞門付近のことだろうか。
向山日落(ひうち)滝は、猪山郷社の真向いにある。猪山の西、滝山川右岸であろうか。
とごうちの民話の「権大重王神」は、五大龍王黒瀧神社のことと思われる。「五大」は「権大」、「龍王」は「重王」に言い替えたものだろう。
「鉄山繁栄之祈祷」としての神楽
旧山県郡加計村の長尾社には安芸西部の先駆となる神楽
が行なわれていた(正徳 5年 1715年)…
加計家の歴史を記録した『加計万乗』(佐々木正躬が明
治10年に編纂したもの)には「宝暦四甲戌年九月佐々木八右衛門宗封が鉄山繁栄之祈祷として、毎年九月十五日ニ長尾社へ湯立神楽奉献ス依之テ舞太万四振寄附」とある…
古老の話では、明治の終わり頃まで四方祓・折居・荒神・白湯・三韓・厳島・建・岩戸・五郎王子・八花・荒平・将軍などを舞っていた
(以上『安芸西部山間地域の「御神楽」』から)
五龍王は五郎王子、五神ともいう。五大龍王黒瀧神社は加計の長尾神社と関係が深い。長尾社の神楽は加計村周辺の村々でも行なわれていたので、黒瀧神社でも行われたかもしれない。
黒瀧神社の創建
黒瀧神社の創建は不明である。神社の大スギの周囲は4mほどで、直径130cm。一般的にスギは50年で直径30cm。黒瀧神社のスギは200年以上経過したことになる。
クロタキ谷にある切株は周囲158cmで65年。これに当てはめると、黒瀧神社のスギは160年ほど。黒瀧神社の創建は1800年代のはじめか。
黒滝山での鑪操業は1736年に始まっているので、創建はまだ遡るかもしれない。
金屋子神祠(猪山大歳神社裏山)
江戸時代末期までこの中国山地一帯は日本一の製鉄地帯で、猪山、平見谷地域にも、鑪やそれに不随する鍛冶場の跡が多く見られる。猪山大歳神社裏山の中腹にも鍛冶場の跡がある。これは石造りの祠であるが、この中に製鉄の守護神(金屋子神)が祀られていて、通称「金屋子さん」と呼ばれている。
猪山地蔵堂
猪山大歳神社参道入口に建ち、正龍山東光寺の流れをくむ地蔵堂である。この中に地蔵菩薩・不動明王・道祖神・鉄山の守り神などが安置してある。
猪山のたたら・かじや跡(広島県HP)
(名称・種別・時代・概要)
●黒滝第1号たたら跡 製鉄遺跡 近世 炉跡、金池、作業小屋跡、勘定場跡
●黒滝第2号たたら跡 製鉄遺跡 不明
●黒滝かじや跡 製鉄遺跡 近世 作業小屋跡
●鍛冶屋原かじや跡 製鉄遺跡 近世 鉄滓散布
●すべりたたら跡 製鉄遺跡 不明 金屋子社跡
●猪山かじや跡 製鉄遺跡 近世
香川家の黒滝山での鑪操業
戸河内村猪山黒滝山 元文元年(1736)〜寛保2年(1742) (『戸河内町史』)
昭和30年代、黒滝に3軒の郵便配達
「加計郵便局の配達の範囲は旧加計と猪山とです。猪山は戸河内町いうても戸河内から配達できんですはね。配達はずーと私らがやりよった。もっと遠い所では猪山の奥に追付郷とか平見谷いうやっぱり戸河内の地区があります…
まあそれでも配達に行ける所はええですが85条適用いうような、配達に入らんでも何処かに置かせてもらういう所もありました。黒滝に3軒、これは下山から松原へ入る途中です。それから観音いうて安中の東側に家があった。今は廃村になっとりますが・・・まだ豪雪までは寺尾7軒、水谷9軒、都賀尾はもとは23軒もあったのが私が入った頃は7軒ですがまだありました。安中は加計と豊平の両方あって加計分だけで7軒あった。それらが豪雪以後どんどん出て行って廃村になったんです」
『太田川の文化』
(郵便配達の見た町と人の暮らし 栗栖昌好)
『山県地誌略』に尾曾良寒と黒瀧
「おそらかん」に漢字が当てられたのは、今のところ、『山県地誌略』(1880年=明治13年・三宅彰編)の「尾曾良寒」が最初である。
「山県地誌略」によれば、十方山の西に「尾曾良寒」があり、北に那須の山々、東に立岩山、北に大箒山、黒瀧などを示しており、「尾曾良寒」は恐羅漢山であることが分かる。
「十方山ハ西南隅ニ聳ユル高山ニシテ其派延テ三方ニ分ル。西ニ赴ク者ハ尾曾良寒、赤川ノ二山ナリ。北ニ赴ク者ハ浦折、栂尾、津浪谷、代原、内黒、外黒、西平、東原、畳ケ鳴ノ連山ナリ。東ニ奔ル者ハ押ケ峠、立岩、奥ノ原、鷹巣及猪股、正木、天井ノ諸山ニシテ佐伯ノ境ヲ限レリ。深入、大箒、黒瀧ノ三山ハ北方ニ在リテ奥山ノ疆域ニ綿亘ス」(『山県地誌略』)。
巻末の図には黒瀧の位置が示してある。
松原と吐虹垰(床尾垰)をむすぶ「鉄の道」
杉の泊には近世以前の「産業形跡が残って製鉄業で田の底から黄色い鉄漿の出るのが見受けられる。その底には鉄滓を埋蔵している」…また、杉の泊や猪山などにみられる「半円形の緩傾斜地」は、鉄穴流しによる人為的な地形と見なされており、北部は中古において、たたら製鉄産業のただ中にあったようだ。西谷から戸河内の松原へ、「吐虹垰」(とこうだお=床尾垰)を越していく道は「トコオ(床尾)道」と呼ばれ、奥地の鉄山から、たたら鉄を運び出し、米・塩を運びこむ、いわゆる「鉄の道」であった。なお吐虹山とあるのは、岩倉山のことで、いつか峠の名で呼ぶようになったものであろう(『加計町史』)。
とごうちの民話(戸河内町教育委員会発行)
第23話:黒滝の権大重王神の話 (くろだきのごんだいじゅうおうじん)(猪山) |
黒滝の、宮ヶ谷入口にお宮があります。このお宮の神様は、権大重王神と申す、山をお守り下さる神様です。宮ヶ谷(みやがたに)入口にお一人。王泊の上、向山(むかいやま)という所にお一人。
王泊ダムの下、八神栃(はちかみとち)の木の根、これにお一人。王泊ダムの下、島岩(しまいわ)という所にお一人。向山日落滝(ひうちだき)の下、高さ5メートルぐらいの大岩にお一人。計5名の兄弟の神様
がおられるのです。それぞれ、各山の神様です。
日落に安置してある神様は、「猪山の岡田に祭ってある神様と、真向かいの所に安置してくれ」とのことで、日落滝の下の大岩に安置したと聞いております。現在、
岡田の宮は、猪山郷社になっております。
昔、松原境の所を、八斗苗(はっとなえ)といいました。宮ヶ谷より少し奥に入った所に、たたら鍛冶屋があったそうで、この所を多多良床(たたらどこ)といいます。
そして、鍛冶の盛んなとき、食料にする粟を、広く焼畑して作っていたころに、付けたのが、八斗苗という山の名だそうです。
ある年に、山に登って、猪山の岡田の庭を見ると、破魔矢を射ているのが見えました。「今日は正月の1日らしい」と思い、黒滝の家に帰って話すと、「はあ、そうか」
「わしらも正月気分に破魔矢を射てみよう」ということになりました。的は無いので、粟餅を的のかわりにして、破魔矢を射たそうです。ところが、それからは、八斗苗
には、粟を播いても一粒もできなかったということで、それは文政11年(1828)のこと、ともいわれています。
たたら鍛冶屋が、この場所から移る時に、宮ヶ谷の神様もいっしょに、自分らの行く所へお移ししようと考えました。このことを、加計の長尾神社の太夫(たゆう)弟子
がまいられたときに聞いてみてもらうと、神様は、「後、20年したら、また黒滝が盛んになる時が来るから、この所におる」と言われるので、神様をここに残して、
たたら鍛冶屋の人たちは、他のところへ行ったそうです。
それから15年たったのち、八十次(やそじ)というじいさんが、子どもを3人を連れて、加計の上調子(うえじょうし)から杉ノ泊(すぎのとまり)を登って、床尾という
所を越してやって来ました。そして黒滝に小屋を建て、一生懸命に開墾し、黒滝に一町歩(約1ヘクタール)という、広い田畑ができたそうです。兄は利平、二男は
丈太郎、三男は音吉といい、4人で働いたということです。
八十次が、黒滝に来た時には、田の中に、すうめの木や、ほかの木が生い茂り、1枚耕すにも、たいそう手間がかかったと、私が子どものころに、時々聞いたもんです。
昭和4年の春まで、黒滝から猪山小学校に、毎日ではありませんが、生徒が通っていたことを、懐かしく思い出し、今でも忘れることはできません。今日では植林
してあります。また、道も良くなっております。川にも良い橋がかかっております。風景には、昔の面影を見ることはできません。
(猪山 佐藤滝仁) |
カシミール3Dデータ
総沿面距離17.4km
標高差359m
区間沿面距離
後温井駐車場
↓ 6.0km
新盆徳橋
↓ 2.4km
黒滝橋
↓ 5.0km
大箒林道
↓ 4.0km
後温井駐車場
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