6:15 後温井駐車場 気温13度 晴れ
6:35 大箒林道起点・向イ山林道
7:00 14番鉄塔入口
7:05 オオホウキ谷
7:15 法面階段
7:25 ゲート
7:40 崖尾根通過
7:50 作業道入口
9:15 向山三角点
10:10 黒滝第2号たたら跡
11:20 右岸旧道端(左岸の廃屋付近)
11:30 黒滝かじや跡
11:45 メタセコイア林
12:35 黒滝第1号たたら跡
12:40 標柱18・19・作業道分岐
13:45 17番鉄塔
13:55 大箒林道
14:30 14番鉄塔
15:05 大箒林道起点
15:30 後温井駐車場
大箒山トンネル南の後温井駐車場を出発。186号線を渡ると大箒林道入口。滝山の峯の山腹に霧が漂っている。日当たりにヤクシソウが咲く。10分ほどで186号線を見下ろす地点に出る。国道は高鉢山へ真っすぐ延びる。瀧山大橋へ下りるアンテナ塔を過ぎると、大箒林道起点の標識がある。イイギリにたくさんの実。
滝山川右岸の向イ山林道は通行止のコーンが立っている。エゴノキの実が下がる。ウリカエデが林道端から伸びている。ヌルデが実を付ける。前方に見える894ピークは紅葉に染まる。林道は両側から枝が伸びて薮になり、クモの巣が多い。14番、13番鉄塔に山道が入っている。上空に送電線が通る。
イイギリの落葉が多い。オオホウキ谷は大岩が覆っている。ナギナタコウジュが咲く。セイタカアワダチソウ、ススキが伸びる。水たまりを通ったウサギの足跡が残る。東側が開けている所の林道下は大きく崩れていた。ヒヨドリバナが咲く。急な法面に手すりと階段が付いていた。クサギの実。鉄のゲート。トゲがあるサンショウ。白花のカワラナデシコが咲く。
イイギリ |
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カエル岩 |
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崖尾根を横切る手前から、西方向に伐採尾根の北側が見える。崖尾根を過ぎて谷を見ると、植林地の中に大岩が多い。作業道が入る谷に到着。「点の記」の向山三角点への登路をみると、右岸の旧186号線の登口の谷から作業道へ上がる山道があったようだ。ヒノキ林に入ると左岸に作業道が見える。
ヒノキ林の谷を上がる。谷を作業道が横切る、作業道が3度横切ったあと、左側の谷を進む。カエルが座っているような大岩があった。水源の植林地を登り、向山の北尾根に出る。そこから5分ほどで向山、気温15度。三角点が見当たらない。コンクリートの境界柱が2本たっている。周辺の落葉を踏んでいると、プラスチックの赤い境界柱が埋まっていた。
向山から北尾根を下り、途中、西の尾根へ下る。700m付近に古い林道が通っていた。林道は東側から下りて、尾根を回り、北側へ延びていた。林道を横切ってピークに上がり、北へ少し進んで、たたら跡がある谷へ下りた。谷の手前に大きいスギがあった。左谷は伐採木で埋まっていた。そこが上流から入る作業道の終点になっていた。
右岸に下りると、平坦地に石積が残っていた。この付近が黒滝第2号たたら跡のようだった。鉄を探しながら谷を下った。谷の分岐は伐採木で埋まっていた。炭焼跡の石積が残っていた。タタラ跡から200mほど下った所でノロ(鉄滓)を見つけた。こぶし大の大きさで焼けて錆びていた。山道が切れた所で、右岸のササ薮に入ると、切開きがあった。500mほど下った所にもノロがあった。さきほどのより少し大きかった。
右岸に広い道が続いていた。左岸に壊れた屋根が見えた。小屋のそばに石柱が見える。昭和51年11月15日と刻まれていた。半世紀が経過していた。表側を見ると「五大龍王黒瀧神社後」とある。周辺には大杉が3本立ち、昔は立派な社だったのかもしれない。社の後の谷の右岸には長い石垣が組まれていた。
右岸に続く道は旧道なのだろうかと思いながら進む。左岸の黒滝かじや跡を過ぎる。道は左岸の廃屋を過ぎた所で終わっていた。おそらくこの付近に左岸に渡る橋があったと思われる。廃屋の裏手の谷を渡り、向山黒滝林道に上がる。メタセコイア群生地を通るが、見上げる葉はまだ緑。林道の脇にメタセコイアの小木が伸びている。高い枝に雄花序が垂れ下がり、紅葉が近い。
神社跡の石柱 昭和51年11月15日 |
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崩れた神社と石柱 |
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ナギナタコウジュ |
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サンショウ |
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左作業道分岐の18、19標柱の方向 |
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40年を越えた切り株 |
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林道にイノシシが掘り返した跡が続く。黒滝第1号たたら跡から300mほど手前から谷へ下りる。タタラ跡の手前の橋まで歩いたが鉄は無かった。林道へ戻り、作業道の分岐に進む。分岐に18番、19番を示す標柱がある。この標柱は送電線東下の標柱18、19番の方向を示している。
伐採されたヒノキ林に入り、切株で一休み。年輪を見ると40年余りが経過していた。山腹を作業道が何本も通る。作業道を進んで南の尾根に上がる。30分ほどで上の尾根に出た。そこから20分ほどで鉄塔を結ぶ山道に出る。作業道分岐から1時間ほどで17番鉄塔。林で展望はない。急坂の木の階段を下り、谷の木橋まで階段が続く。
17番鉄塔から10分ほどで大箒林道に出た。大箒山登山口はササが刈られている。アキノキリンソウが咲く。砂利道から舗装路に変わり、ヒノキ林の手前から広葉樹の小尾根を下る。途中、石積があった。大箒林道から15分ほどで14番鉄塔。送電線が滝山川を越えて左岸の山へ続いている。鉄塔が五輪山の方向へ続いているのが見える。日当たりにアキノキリンソウが咲く。
尾根を横断する作業道 |
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雄花序が下がるメタセコイア |
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メタセコイア |
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エゴノキ |
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14番鉄塔からヒノキ林の急坂を下る。途中、トタン屋根の崩れた小屋があり、14、13番を表示する標柱がある。手すりを伝って向イ山林道に下りる。14番鉄塔から10分ほど。林道から13番鉄塔へ下りる道がある。ヌルデが実を付ける。ノイバラの実。15分ほどで大箒林道起点。アキチョウジ、イヌタデ、ヒヨドリバナ、ヤクシソウ。186号線の向こうに高鉢山を望む。小谷から勢い良く流れ出るホース水で顔を洗う。大箒林道入口から滝山が見える。
ナデシコ科マンテマ属 |
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ナデシコ科マンテマ属 |
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アキノキリンソウ |
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ノコンギク |
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シロヨメナ |
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クルマバナ |
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ウツギ |
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ミヤマシキミ |
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ミヤマシキミ |
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オトコヨウゾメ |
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ウリハダカエデ |
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ヌルデ |
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ノイバラ |
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イヌタデ |
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ヒヨドリバナ |
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アキチョウジ |
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ヤクシソウ |
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コマツナギ |
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■地名考
ハツトナエ越(黒滝峠)
「(大箒山登路)虫木峠からは林道をつめてオオボウキ谷へ入り、黒滝峠(ハツトナエ越)より古いヨコ道に入り、大箒山の東の鞍部に出るコースがよかろう」(『西中国山地』桑原良敏)。
広島藩の山奉行への令達書・山法度
山法度の一例(天和4年 1784年)
<1>一、御建山・御留山・御立薮之儀、毎日廻り、竹木一本ニても本伐り者不申及、枝木をもきらせ申間敷事。
<2>一、野山ニよらす松・栗・樅・栃・椴・梅・槻・杉・檜・榧・桑・桐・槐・楠・樫伐ぜ申間敷事。
<3>一、桐者百姓腰林・屋敷廻り二植させ可申侯。御用ニ被召上侯者相応ニ銀子可被遣侯。若自分入用之刻者御理り可申上侯事。
<4>一、かくひほり松節抜せ申間敷事。
<5>一、切畠御帳面之外壱歩も仕らせ間敷事。
<6>一、山焼候事無断焼せ申間敷候。草山焼申侯者御理り申進、御免之刻やかせ可申事。
<7>一、野山井野原ニても竹木立毛可然所御座候者、早々御注進可申上事。
<8>一、井手川除井百姓家材木伐り申刻、御切手之外一本ニても伐り添不申様ニ吟味可仕侯。尤御切手之写仕度々ニ其方へ渡シ相断候而伐らせ可申事。
右之条々手堅被仰渡致承知侯。期村中末々迄竪申付候。若相背者御座候者御公儀様へ被召上、如何様共越度ニ可被仰付侯。為後日一筆如件。
天和四年子三月十日
庄屋 勘兵衛
与頭 彦右衛門
同 彦四郎
原村惣山守
一郎左衛門殿
第3項では、民有林と屋敷廻りへの
桐の植え付けを奨励。
第5項では、従来から登録されている以外に山林を切畑として開墾することを禁じている。
第6項では、草山を焼く場合には許可申請が必要であること。
山奉行への通達蓄(部分 慶安三年 1663年)
<3>一、林又ハ薮ニ可成所見及木苗竹を植可申事。
第3項では、薮・山林の増大をめざして、山奉行に積極的な植林を命じている。
山目付に宛てられた令達書(部分 享保19年 1734年)
<6>一、御山々伐苅叉者諸木之実苗蒔植之義平生心を付、存寄之義も有之侯ハ、無用捨可申出事。
第6項では建山の植林に平生より気を配るべき点にも触れ(ている)。
広島藩の場合、植林政策が必ずしも積極的に推進されたとはいえず、むしろ、既成の山林の保全に重点が置かれていたことを指摘しておかねばならなし、もちろん、藩当局は植栽を繰り返し奨励し、山奉行・山目付へは令達を、村方へは山法度を通じて度々その旨の布告を行な
った。
しかし、農民に植栽を強制するような強力な政策が打ち出されるようなことはなく、常に村方の自発性に植林政策の実現を委ねたのである。
(以上 『広島藩における林野政策に
関する基礎的考察(1)』 勝矢倫生)
タタラと植生
たたらの立地条件は「粉鉄七里に、炭三里」といわれ、砂鉄の採取範囲を七里(約21Km)、製炭範囲は三里(約12km)必要としたため、広大な山林を必要とした。たたら炭に適した木の樹齢は30年以上とされ、一ヶ所でのたたら操業を継続するには約1800ヘクタールの森林面積を確保する必要があった。
黒滝峠周辺のタタラは、黒滝第1号たたら跡、黒滝第2号たたら跡、松原後山たたら跡、下松原たたら跡、猿谷たたら跡、青松たたら跡などがある。
鑪(たたら)
戸河内村猪山黒滝山 元文元年(1736)〜寛保2年(1742)
橋山村青松鑪 享保13年(1728)〜元文2年(1737)
享保期、文政期の植生によると、たたら操業の後、浅木、草山になっている。
享保期・文政期における
戸河内村の入会野山と植生(『戸河内町史』)
(黒滝峠周辺)
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享保12年(1727) |
文政2年(1819) |
向山黒滝 杉・浅木 |
松・浅木 |
松原後口山 栗・浅木 |
栗・浅木 |
松原東平 草山・浅木 |
草山・浅木 |
松原西平 草山・浅木 |
草山・浅木 |
浅木とは節の多い粗悪な雑木を指し、浅木を焼いた粗悪な炭を浅木炭と呼ぶ |
苗代山=床尾山
「床尾山を『芸藩通志』下殿河内村絵図には苗代山とあるが、この山名は、現在杉泊、月の子原では使われていない。この呼称は聞いたことがないという」(『西中国山地』)。
杉の泊の伝承
(稲のよくできる土地と見込んで種籾を播いた)
「地区内各集落に残る開発伝承であるが…
杉の泊に移ると、宮ヶ谷の田圃の中に『道照さんの碑』がある。この地が室町時代の応永27、8年ころ(1420、21)懸村香草の人道照によって開かれたと伝えており、一帯を『道照町』という。
ところが、道照の来住より先に愛宕山円福寺という禅宗があり、和尚と道照が鯉のことで争ったことから、後に生まれたのが『袈裟斬り地蔵』の伝説である。この話は斬られ地蔵、すなわち和尚が先に西谷の上側に住み、道照が後から来たために起こった水喧嘩と考えられ・・・
事件は戦国時代の大永2年(1522)のこととも伝えているが、現在も京畿に元の本山があるという円福寺は、天正2年(1574)には早くも真宗に改宗している。しかし江戸中期の享保元年(1716)に焼失し、跡に建てられたのが地蔵堂で、石像はたしかにけさがけに割れている。往昔は田圃が少なかったようで、一面麻畑だった『オーノシ原』の上にある。また、焼けた経文の灰は下杉の小山に埋められ、『経塚』の名で言伝えている…
雄鹿原村の林長右衛門という人が、利右衛門・作左衛門・長吉の三子を連れてきて開拓したのを最初とする伝承もある。大きな老杉があって、長右衛門一家はこの杉のうろ(洞穴)に入って雨露をしのいだとか。
また別の話では、やはり雄鹿原村の人が当地を通りかかって、稲のよくできる土地と見込んで種籾を播いて帰った。秋に来てみると見事に実っていたので開墾にかかり、夢中で働いているうちに夕暮れになった。取りあえず杉の大木の上に小屋を作って泊まり、それ以来ここを『杉の泊』と呼ぶ」(『加計町史』)。
『芸藩通志』下殿河内村絵図
苗代山(床尾山)、杉留、大元社、円福寺の名が見える |
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カシミール3Dデータ
総沿面距離16.2km
標高差442m
区間沿面距離
後温井駐車場
↓ 4.5km
作業道
↓ 1.5km
向山
↓ 2.6km
向山黒滝林道
↓ 3.8km
大箒林道
↓ 3.8km
後温井駐車場
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