山歩き

488号線…大向長者原林道…青笹越…女鹿平山
2021/10/24

中津谷…八郎橋…大向長者原林道…青笹越…女鹿平山…大向…中津谷

■女鹿平山(メガヒラヤマ)1082.5m:広島県佐伯郡吉和村字田中原女鹿平 (廿日市市)

明け方の中津谷川
488号線入口は全面通行止
不栗付橋
橋を渡ると通行止のゲート
車道損壊地点
損壊地点
小谷から土砂が車道に流出
日が当たる尾根と小さい月
車道のヤマドリ
サカサデノ谷
小川、オモ川合流点
出合橋手前で通行止
長者原
八郎橋
大向長者原林道分岐 大型車の転回地点
千両山
丸太置場
オセキガ峠から
お関の墓
西側に作業道
角兵衛の墓
コナラのクマ棚
48番鉄塔への入口
女鹿平山を望む
青笹越入口
青笹越から女鹿平山南を通る林道
境界柱が立つ尾根を進む
アオザサ谷水源の境界柱
目安の岩
境界柱の尾根道
スギ林を進む
林の中の女鹿平山
リフト最上部に出る
小室井山を望む
青笹山を望む
箱罠
舗装路に出る
別荘の朽ちた門
落ち葉が覆う屋根
大向分岐
大槇山、鵜の子山を望む
美濃ノ木川
クリの木のクマ棚
筵の小豆
6:30 中津谷入口 気温4度 晴れ

7:30 出合橋
8:00 長浜
8:50 八郎橋
9:00 大向長者原林道
9:40 オセキガ峠(お関の墓)
10:00 角兵衛の墓
10:40 青笹越入口
10:50 青笹越
11:25 岩
11:55 女鹿平山
12:30 青笹越への林道分岐
12:55 舗装路(右大向長者原林道)
13:20 大向分岐
13:55 大向長者原林道
14:10 186号線
14:15 中津谷出発点

 気温4度で寒い。東の空は赤く輝く。488号線入口は車両通行止、全面通行止の看板があり、鉄のゲートで閉じられている。ひろしま道路情報では今年の8月20日から22年の3月31日まで、道路損壊により通行止めとなっている。

 眼下に中津谷川の静かな流れが見える。国道を進み、10分ほどで不栗付橋。橋を渡ると通行止の看板が立ち、ゲートで閉じられている。橋から200mほど進むと谷側の道路端が崩れていた。谷側のり面に岩盤や岩が露出していた。山側のヒノキ林にも崩れた跡があった。北側の送電線が通る尾根は伐採地になっている所である。

 損壊地点から100m進んだ小谷の入口で土砂が流出し道路に溢れ出ていた。そこは道路端に瓦が積まれている所で、谷の上部の尾根は伐採地点に当たる。谷の下に大きいカツラの木が見える。谷の西側に通行止のゲートが設置されている。
ベニバナボロギク
アオハダ

 ノブドウに青い実が成る。ベニバナボロギク、ノギクが咲く。日が差す赤い尾根にまるい小さい月が見える。トロン谷対岸の旧災害地点を過ぎる。谷には以前、トロン谷へ渡る木橋が掛けられていた。アオハダの枝が折れて道路に落ちていた。

 ヤマドリが道路上を行ったり来たりしている。こちらに気付いてりいるはずだが逃げようとしない。1、2分の後、ニ、三歩前に進むと、ようやく谷側へ降りて行った。小尾根を回るとサカサデノ谷。道路端にイノシシが枯れ葉をひっくり返した跡が続く。ヤマボクチ、アキチョウジが咲く。対岸にキシツツジの花が点々と見える。

 小川との合流点を回り込むと1時間ほどで出合橋、気温4度。橋の手前の488号線南側は通行止めの赤白コーンが立てられ、バーが渡してあった。橋のエゴノキにたくさんの実が下がる。下流側から水鳥が飛び立った。

キクバヤマボクチ
エゴノキ

 オモ川左岸の488号線を進む。シシウドが実を付ける。角兵衛三角点の西尾根端、長浜を回り込むと吉和村漁協の大きい看板がある。ウサギ谷を過ぎると道路右に大きいカツラがある。ミツバウツギにハートの実が残る。湿地にオタカラコウの茎が伸びる。フウリンウメモドキに赤い実がたくさん下がる。オトコヨウゾメの赤い実。

 上流側から来た軽トラの人に道を聞かれ、広見山はどこかと尋ねられる。匹見から三坂八郎林道を通ってきた、登山者ではない作業着の方だった。ここは吉和で広見は真反対です。御境から広見へ下れば登山口への林道へ出ます。

 長者原の広地に出る。日当たりにキケマンが咲く。広地は丸太置場になっていたようだ。セキヤ谷右岸に鉄塔道が入っている。オモ川のU字の底は緑色の藻で覆われている。出合橋から1時間20分で八郎橋、気温8度。三坂八郎林道から八郎橋を渡ると、目印が無いので、先ほどの匹見の人は吉和へ直進したようだ。

ミツバウツギ
オタカラコウ

 八郎橋から10分ほどで大向長者原林道、分岐付近は「大型車転回の為」駐車禁止になっている。アキノキリンソウ、ヤマボクチが咲く。送電線鉄塔上の開地に出ると、鉄塔右に千両山、三坂山が見える。送電線が南東から北西に通っている。その先に鉄塔が並ぶ。

 少し進むと山側の作業道の反対側が丸太置場になっている。重機の傍に10本ほどのスギが並んで置かれている。太い木の年輪を見ると40から50年ほどの樹木だった。セキヤ谷をU字に回り込むと、ノイバラが赤い実を付けていた。オセキガ峠から西に新しい作業道が入っていた。

 峠のお関の墓から南に延びる林道も整備されていた。センター造林地、吉和西事業地の標識がある。ヤマボクチが咲く。沼長トロ山へ入る道にツチアケビが実を付けていた。林道を進むと西側にいくつも作業道が入っている。林道入口にガンクビソウが咲く。銅山林道入口を過ぎると角兵衛の墓。「花芳林月信女」と刻まれた墓石がある。コケが除かれてはっきりと文字が見えるので、誰か手入れされている方がいるようだ。

角兵衛の墓 「花芳林月信女」
フウリンウメモドキ
ナガミノツルキケマン

 角兵衛の墓から少し進むと車道に枝が散乱していた。コナラにクマ棚があった。幹に新しい爪痕が残っていた。この付近は過去に通った時にもクマ棚があった。13番鉄塔の西はクマの痕跡が継続してある所だ。ヤマボクチ、イヌトウバナが咲く。

 南へ延びる送電線道の入口はきれいに刈られている。ノリツギが残っている。ヤマウルシに実が下がる。女鹿平山を望む広地に出る。送電線が南東に延びている。オオウラジロノキの実がたくさん落ちていた。

 青笹越へ上がる林道に入る。谷の水流が林道を抉っている。ハリギリの落ち葉が林道を覆う。10分ほどで青笹越、気温12度。青笹越に熊崎事業地の標識がある。熊崎は女鹿平スキー場入口付近の地名でもある。青笹越から女鹿平山の南を林道が通っている。この林道は別荘地に接続する。

コナラの爪痕
アキノキリンソウ
ノイバラ
伐採されたスギ

 青笹越からスギ林と広葉樹の境界尾根を登る。ミヤマシキミが赤い実を付ける。尾根上に黄色の境界柱が刺さっている。境界測量のため、尾根に沿って刈られたようだ。途中で林道近くを通る。アオザサ谷水源を渡る所に境界柱が立つ。

 尾根道は急坂になる。ブナの枝が散乱していた。幹に古い爪痕があった。眼下に林道が見える。境界尾根に明瞭な踏み跡が続く。所々、黄色の境界柱が立つ。目印の岩の所に吉和村の標柱が立つ。岩の所から尾根道は緩やかになる。境界柱が続く。

 疎林にツルリンドウが実を付けていた。境界柱が立つスギ林の端を進む。オトコヨウゾメが赤い実を付ける。境界柱が見当たらなくなると、ササ尾根に変わる。スギ林の中を進む。青笹越から1時間ほどで女鹿平山。山頂の三角点の横に黄色の境界柱が刺してあった。以前は展望の利く山であったが、現在、林に覆われ見通しが全く無い。

ブナの爪痕
ツチアケビ
ガンクビソウ

 尾根を東へ進みゲレンデ、リフト最上部に出る。尾根側頂上下にスキー施設が見える。東方向に展望があり、ゲレンデの先に小室井山から野田ヶ原へ続く尾根が見え、その下に吉和の里が広がる。南側の林道へ下ると、大槙山の峯が見える。林道を進み、分岐を南西へ降りると、箱罠が設置されていた。

 青笹越から通る林道の分岐を過ぎる。古い作業道が分岐する。オトコヨウゾメが赤い実を付け、ウツボグサの花が残る。舗装路に出る。西へ進むと大向長者原林道。舗装路の谷側が崩れていた。別荘地に入る。崩れた別荘がそのまま放置されている所もあった。オトコヨウゾメの赤い実。

オオウラジロノキの実
ツルリンドウ

 別荘の入口の木の門が朽ちていた。別荘上部は人気が感じられなかった。屋根には枯れ葉が積もっていた。ガマズミ、オトコヨウゾメの実。アセビに小さい花芽。大向への分岐に進む。こちらに入ると車道に枝が転がったまま。展望地に出ると鵜の子山の峯が見える。

 スギ林下の美濃ノ木川に出ると水量が多い。シラネセンキュウ、アキノキリンソウ、アキチョウジ、アキノタムラソウが咲く。大向長者原林道に出ると眼下に里が広がる。ツルリンドウが伸びる。林道から分岐を下ると里のクリの木にクマ棚があった。芸州吉和村植本わさび本舗の前を通る。箱罠が設置してある。棘の無いサンショウに黒い実が付いていた。湿地の畑にイノシシが掘り返した跡があった。庭にツツジが咲く。民家の横の筵に小豆が干してあった。女鹿平山から2時間余りで出発点に帰着。

イノシシが掘り返した畑
オトコヨウゾメ
ガマズミ
ウツボグサ
アセビ
ノリウツギ
イヌトウバナ
シシウド
アキチョウジ
アキノタムラソウ
シラネセンキュウ
アサクラザンショウ



地名考

 女鹿平山

 「半坂の三浦信男家所蔵『吉和村御建野山腰林帳』(1725年・享保10年)に女鹿平山とあるが、その後に書かれた『佐伯郡廿ケ村郷邑記』(1806年・文化3年)には米加比良山という字が使われている。

 柳田国男著『分類山村語彙』によると、メガは鹿または牝鹿を表わす方言で、ヒラは獣を取る装置、または山の側面や斜面を表わす地形方言とある。ヒラが前者の意だとすると、鹿を取る装置がしかけてある山の意となり、後者とすると、鹿が多く住んでいる場所という意となる。いずれにしろ村里のすぐ裏山ともいえるこの場所に鹿が多かったのは事実であろう…

 メガヒラ山の語源はそういった所であろうがメガを女鹿とするのはまだしも、ヒラという方言には適当な漢字が見あたらない。平は平坦地を意味し、西中国ではナル、ナルイという方言があてられ、鏡ヶ平、畳ヶ平という風に使われている。平をヒラと読ませる事例は四国に多いが中国では少なく、女鹿ヒラ山に平の字を当てているのは珍しい事例といえる」(「西中国山地」桑原良敏)。

 沼長トロ山

 「ヒノ谷の水源にあたる所に1014.4m峯があって、点称は『沼長』となっている。『吉和村絵図』(江戸末期)に御留山沼長トロ山と記されているので、これを用いることにした。これが1014.4m峯につけられた山名なのか、この峯より馬蹄形に続いている千m級の山々全体に付けられた名なのか定かでない。この峯の東側のヒノ谷水源帯の平坦地を現在沼長と呼んでおり、それより名づけられたものと思われる」(『西中国山地』)。


 『佐西郡』

 古代の安芸国にあった佐伯郡はもっと広く、現在の広島市安佐南区の大半と安佐北区の一部をも含んでいた。平安時代末期ごろに佐東郡(後の沼田郡)と佐西郡に分割され、江戸時代の1664年(寛文4年)に西側の佐西郡が再度佐伯郡に改称された。郡名の由来は厳島神社の神主家の名前とされている(Wikipedia)。

 『芸備国郡志』『佐西郡』

 『芸備国郡志』(黒川道祐・1663年)に「波牟佐宇原」「十方辻」「佐井之塔村」が記され、以下のように、伴蔵原の後に十方辻、その後に「佐井之塔村」の項に吉和の女鹿平山が記されている。

「〇波牟佐宇原 在佐西郡而隣周防大河流出…

〇十方辻 倭俗道路四通以日辻 十方辻在 佐西郡、南連 吉和、東北還 山縣郡筒賀村、西北接 石州境比喜美村、南西隣 周防境宇佐、其山突兀 四時常有雪、夏六月之中暫消、自 山頭 臨 見北海往来之船舶云々

〇佐井之塔村…自吉和村赴石州之道有大山日米加比良山往来…」(『芸備国郡志』国文学研究資料館HP)。

 「佐井之塔村」の項の全文は次のようになっている。

 「佐井之塔村 佐西郡塔村之山腹有沼地其大如湖廻其沼通テ石見州或施竹木於沼上而人馬往来自吉和村赴石州之路有大山日米加比良山往来自此山路通」

 上記について、『芸備文献』(熊見定次郎編・1896年)には次のように記されている。

 「佐井之塔村 佐西郡塔村之山腹ニ沼地有リ其大、湖ノ如シ其沼ヲ廻リテ石見州ニ通ス或ハ竹木ヲ沼上ニ施シ而シテ人馬往来ス吉和村自リ石州ニ之赴ク之路大山有リ米加比良山ト曰フ往来此山路自リ通ス」(案、所謂佐井之塔村ハ今其處ヲ知ラズ)」

 『芸備国郡志』によれば、吉和村から匹見へ通じる往還道は佐西郡塔村の山腹の沼地を通っていたようだ。

 1600年代には「佐井之塔村」と呼ばれた地名は、明治になると、「佐井之塔村ハ今其處ヲ知ラズ」(『芸備文献』)として、不明の村になっている。

 『芸備国郡志』の十方辻の行の前後の文脈にある『佐西郡』

 八木山 属佐東郡
 温井 在佐東郡
 夜須(ヤス) 在佐東郡 
 己斐山 
 草津 在佐西郡海濱
 大竹村 在佐西郡海濱
 波牟佐宇原(判蔵原) 在佐西郡
 十方辻 在佐西郡
 佐井之塔村 佐西郡塔村之山腹有沼地
 大野瀑 在佐西郡大野村
 能見島 属佐西郡
 狩龍山 在山縣郡
 龍頭瀑 在山縣郡筒賀村

 土産門
 黄連 出佐西郡吉和村

 祠廟門
 倶盧尊佛 佐西郡吉和村山中ノ岩壁


 往還道 女鹿平山の東西を通る

 下記の絵図では1835年と1825年で往還道の位置が違っている。1825年の『芸藩通志』では女鹿平山の西を通るが、1835年の絵図では東を通っている。

 『大日本帝國陸地測量部』発行の明治32年測図昭和2年修正測図(1:50000地形図 津田)では、ヒノ谷右岸に山道が通っており、沼の原、オオマチ谷水源に通じている。

 現在、ヒノ谷には左岸を通る山道があり。入口から沼の原、銅山林道へ通じている。

 いずれにしても往還道が沼の原を通っていたのは間違いないだろう。


 「佐井之塔村」が沼の原の周辺にあったとすれば、昔からこの地に人々が住んでいた痕跡として、角兵衛の墓、お関の墓、判城橋の近くの墓がある。


 角兵衛の墓、お関の墓、判城橋の墓

 オセキガ峠のおせきの墓の裏面を見ると「長者原林道開設工事の為 約三米後方に移転す」とあり、お関の墓については藩政時代の悲恋話が伝えられている。

 角兵衛の墓には墓石が幾つか建てられている。「淨玄童女」と刻まれた墓の側面を見ると「天明三卯天」と読める。天明三年卯の年に亡くなったようだ。

 「墓石には天明五年と刻まれたものが多く、幼女や女性が多い。天明の大飢饉に没した木地屋一族のものか、街道でたおれた旅人たちの墓なのかも知れない」(「西中国山地」)。天明の大飢饉は天明2年(1782)。

 別の墓石には「花芳林月信女」とある。山深い街道の墓にしては気品ある女性の墓のように思える。木地師の墓は山間の住居近くの道のほとりや川べりに残すのが普通だった。角兵衛の墓の近くに木地師の住居があったのかもしれない。


 判城橋から488号線を100mほど上がったところに墓所がある。墓は杉の大木の下に四基並んでいる。一番大きな墓石には「荘室妙巌信士」「寛政三亥年」(1791年)とある。他の墓にも寛政の字が読める。

 200年余り前の墓で、この辺りには、かなり古くから人々が暮らしていたと思われる。『大日本帝國陸地測量部』発行の地図には、判城橋付近に二軒の民家が見える。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離21.6km
標高差477m

区間沿面距離
中津谷
↓ 8.2km
大向長者原林道
↓ 6.1km
青笹越
↓ 1.0km
女鹿平山
↓ 3.5km
大向分岐
↓ 2.8km
中津谷
 

安藝国図 廣嶋管領之地(「聖心女子大学図書館デジタルギャラリー」)
 
吉和〜匹見の往還道が、めがひら山の東を通る
 
安芸国絵図(1835年) (国立公文書館デジタルアーカイブ)

吉和〜匹見の往還道が、めがひら山の東を通る
 
『芸藩通志』吉和村絵図(1825年・文政8年)
 
吉和〜匹見の往還道がめがひら山の西を通る(オオマチ谷)
 
大日本帝國陸地測量部 明治32年測図昭和2年修正測図 1:50000地形図 三段峡

ヒノ谷の右岸に山道が通り沼の原に入り、オオマチ谷水源に出る
 
大日本帝國陸地測量部 明治32年測図昭和2年修正測図 1:50000地形図 津田

オオマチ谷と中津谷川に山道が通る
 
大日本帝國陸地測量部 明治32年測図昭和2年修正測図 1:50000地形図 三段峡

御境の南の判城橋付近に2軒の民家が見える。この付近に4基の墓石が残っている
 
小室井山
大峯山 青笹山 板敷山を望む
大槇山 鵜の子山を望む
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)