6:05 亀井谷入口 気温12度 晴れ 6:40 コウラ谷
6:55 林道分岐
7:50 テンジョウマワシ
8:15 ゴロゴロノエキ
8:35 タタラ跡
9:40 長い滝
12:05 広見山
13:00 広見山・ジョシノキビレ分岐
13:30 ジョシノキビレ
14:10 ジョシ谷
14:50 カメイ谷
15:10 カメイ谷奥橋
15:55 カメイ谷入口
倉渡瀬橋近くの駐車地を出発、気温12度。広見山から下りる長い尾根の端を回り込んで、匹見川左岸の車道を進む。頭上にアンテナ塔が見える。ウツギの白い花が見える。左岸に広がる水田は田植えを終えたばかり。水田と車道の間に電気柵が続く。畑にゼニアオイ、法面にスイカズラが咲く。
ドウドウの谷の落口は岩礁と急流になっている。ドウドウの左岸の山側の枝にモリアオガエルの白い卵塊が見られ、真下は水たまりになっている。山際にトリアシショウマ、ドクダミ、マタタビ、畔にムラサキツユクサ、マンネングサが咲く。水田の際のクマノミズキの大きい木に花が咲いている。
道川城跡の標柱が立つ。コウラ谷入口を過ぎて、谷の落口へ進む。JA西いわみの「ヘルシー元気米」の看板がある。栽培必須条件として、牛糞堆肥1t/10a+稲藁、肥料使用限定、農薬使用限定が示され、休耕田にハス栽培や花の栽培を行っている。アカメガシワの花芽が延びている。
コウラ谷左岸に道川神楽の看板がある。明治40年ごろに始まり、「塩祓」「四神」「切目」「道反」などの演目がある。その後ろのスギの大木の横に大元神社が祀られている。大元神社の東側の広場に竹が二本、地面に刺され、注連縄が渡されていたようだ。山の神への祈りの場だろうか。
ミズキに緑の実が付いている。引き返し、コウラ谷の林道に入る。保安林内作業許可標識があり、2025年3月まで大和森林株式会社が工事に入っているようだ。雨で林道を越える谷の水量が増している。水に浸かりながら左岸へ渡る。
草が生える林道に轍が続く。ヘビイチゴが赤い実を付ける。地図では右岸に破線道があるが、林道は左岸を通っている。山側に炭焼き跡の石積みがある。山側に入る林道の分岐に大和森の看板がある。ここからコウラ谷左岸の林道はササが覆うようになる。滝の横を通る。道はササの山道に変わる。
ワサビが伸びる |
|
ヘビイチゴ |
|
道は右岸へ渡る。右岸から落ちる小谷にワサビ田跡があった。野生化したワサビの葉が出ている。小谷に石積みが残っている。道は右岸に続いていたが、テンジョウマワシの対岸辺りで消失していた。ワサビ田の小谷に引き返し左岸に渡る。
左岸に崖から落ちるテンジョウマワシの谷が見える。テンジョウマワシの谷の落口を過ぎた所で右岸に渡る。トチノキの花びらがたくさん落ちている。ハイイヌガヤが実を付ける。滝の横を通る。スギ林の道を通る。スギ林下のゴロゴロノエキに石積みが残っていて、ユリワサビの葉が出ている。
ゴロゴロノエキを渡ると一升瓶がたくさん転がっていた。途中、タタラ跡の手前で左岸へ渡る。ワサビ田跡を越えた所の斜面に鉄滓がたくさん転がっていた。この辺りは匹見のタタラ跡として登録されていないようだ。ヤマアジサイが咲く。モミジガサの穂が伸びている。ウリノキの特徴ある花が咲く。
ヤマアジサイ |
|
モミジガサ |
|
実が付いたエンレイソウの葉を食べた痕がある。長い滝を越える。ウリノキが多い。ニシノヤマタイミンガサがある。ウワバミソウの食痕が続く。クマが谷に入っていたようだ。水源を登る。ナルコユリが花を下げる。谷が急になった所で右側の尾根を登る。ササ薮を抜けて登山道に出る。
視界が開け、恐羅漢山、旧羅漢山、十方山、手前に焼杉山が見える。そこからほどなく山頂、気温25度で日が照り付けて暑い。ヤマボウシ、ノリウツギが咲く。展望地に進むと冠山が見える。早々に登山道を引き返す。ササユリ、タンナサワフタギが咲く。
1000m付近からコアジサイが見られる。そこから少し下った小尾根上のスギの木に、「ここはジョンノキビレ 林道→」と札が取り付けてあった。なにか思い違いされているようだ。ジョシではなく「ジョン」となっていた。スギ林を下り、山頂から1時間ほどで広見山・ジョシノキビレ分岐。
ウリノキ |
|
ニシノヤマタイミンガサ |
|
ジョシノキビレへ入る道は分かりにくくなっている。分岐で谷は四つに分かれており、北東側の谷に向かって進む。スギ林に点々とテープが続いている。コアジサイ、タンナサワフタギが咲く。キビレ手前でマムシがとぐろを巻いて待ち構えている。迂回してキビレに出る。一休みして山道を下る。
ササが伸びている。倒れた大木が山道を塞ぐ。コナスビが咲く。キビレから50分ほどでジョシ谷に出る。ウリノキが咲く。40分ほどでカメイ谷。カメイ谷左岸の山道の広見入口道標に進む。ジロタの谷の堰堤から水が溢れている。雨後のカメイ谷は水量が多い。膝下まで浸かりながら右岸へ渡る。少し進んで、浸かりながら左岸へ渡る。最後が一番深く、膝ほど浸かりながら右岸へ渡る。
カメイ谷へ下りてから20分ほどで亀井谷奥橋に出る。入口に天杉山登山口の道標がある。マタタビ、ヤマアジサイが咲き、ヘビイチゴが実を付ける。仙床寺跡を過ぎて、しばらく進んだ所で、前方が開け、春日山へ続く峯が見える。30年ほどのスギ林が伐採されていた。ノリウツギが咲き、ミツバウツギがハートの実を付ける。ジョシノキビレから2時間半ほどで帰着。
タンナサワフタギ
|
|
ヤマボウシ
|
|
ニガナ
|
|
ゼニアオイ
|
|
トリアシショウマ
|
|
ドクダミ
|
|
ムラサキツユクサ |
|
クマノミズキ |
|
ハイイヌガヤ |
|
ナルコユリ |
|
ササユリ |
|
ミズタビラコ |
|
クサアジサイ |
|
コアジサイ |
|
コナスビ |
|
ノリウツギ |
|
ミツバウツギ |
|
|
|
■地名考
「広見の遭難事件」
木地の先山師 半四郎・武若の遭難
大正三年三月九日
藤田半四郎 横川二軒小屋の住人
その子 武若(18才)
前助五郎 横川の住人
その弟子 中野一若
住健一 打梨の住人
5人は何れも木地の先山師であった
大正3年3月9日、5人は半四郎の弟百左衛門の持山である、1km足らずの白わらび谷に出かけた。思いもかけずその夜から大雪になり、山小屋が崩れかけたのを見て、広見に避難することにした。
先頭の半四郎は方向を誤ってツゴウ谷へ下りた。間違いに気付いた半四郎は引き返すが、武若に最初の疲労が来た。山小屋まで300mの地点で半四郎がへたばってしまった。
残った助五郎等三人が山小屋へ戻り着いたのは夜の引き明けであった。ここから広見まで1km足らず、昼のことだし三人は勇を奮って広見に向かって雪をこいで進んだが、あと2,3百mで山田屋へ着くという地点で助五郎がくたばってしまった。
残る健一と一若は助五郎を捨てたまま正午ごろやっと山田屋へ辿りついた。早速広見部落の若者たちが中心となって救出に出かけ、先ず助五郎を背負って山田屋へ連れ帰った。
他の者はツゴウ谷へ下ったが、ものすごい吹雪と日没のため止むなく引き上げた。翌十一日早朝雪も止み、好天恵まれた救援隊は再び探索に出かけ、辛うじて雪の中から二人の死体を発見した。半四郎の死体は100mばかり離れた武若の方に向かってうずくまっていた。
一同は二人の死体を山田屋まで運び、二十人の若者はその日の暮五時ごろ、横川の半四郎宅へ向かって出発した。三里の山越えで五里山の頂きは積雪が十二尺もある荒道で、道の捗りも用意でなく夜通し歩き続けて、翌十二日の七時ごろ横川に到着した(『石見匹見町史』矢富熊一郎・昭和40年)。
「雪山哀歌」 広見の遭難事件
『ひきみ川』(春日野満・昭和52年)
「助五郎一家は女子を除いて、中国山地の尾根を越えて、この奥山に木地師として仕事に来ていたのである。彼らはこの里から山また山の中国山地を越えた山陽側の人達であった…山奥に掘立小屋を作って、其処に寝泊りして仕事をしなければならないのである。
親爺と息子が二人、助五郎は、その弟息子なのであった…一夜のうちとしては、如何に山嶺近い奥山だとは云え、案外の積雪量だった。小屋の周囲は、すっぽりと雪に埋もれ、入口の菰(こも)をおして、サラサラ小雪が小屋の中へ流れ込んで来るのである」
現在、横川に藤田姓・前姓は残っているようだ。
打梨には川住姓が存在している。
匹見の昔話にある木地小屋
『島根県美濃郡匹見町昔話集』(島根大学昔話研究会・昭和51年)
「七人小屋」 山根下 甲佐イセ(明治28年生)
「そりゃあ七人おって歳(とし)の時に皆帰るのに、誰かあとに残りゃなぁ小屋番がいるけえ。それから後のしはみな年をとりに帰っちゃって。その人がそれでも危いけえと思うておれた。
そしておれたら夕方に四十余りぐらいの女の人がきてから、昔、小屋はなんですけえなあ、戸がないこうにむしろをしとって、それをこう、はぐって入って、それであの、ぼたもちをこさえてきて、食べえ 言うて」
「五人小屋」 内谷 中島広市(大正2年生)
「木曳きさあが、五人連ろうて、その山へ行ったちゅうて。大分遠かったけえ、小屋を掛けて、そうして、今夜から泊まろうちゅうて、その日にゃ仕事せんこうに小屋掛けて、山へ寝る…木曳きじゃけえ、そまちゅうものを持っとるけえねえ」
匹見昔話集の言葉と方言
ひやこる ひゃこる 木曳
てねる かたねもち (万葉集4116)
ひやこる 叫ぶ
『紙漉重宝記』のヒヤコル、クビル
クビルはキビルに変化
『紙漉重宝記』(寛政10年・1798年)
石見国遠田村(島根県益田市)の国東治兵衛(くにさきじへい)が著した製紙の解説書。農家に副業として紙漉きを勧めるため、原料の刈取りから製品の出荷に至るまでを詳細に図解した啓蒙(けいもう)書で、当時の画家靖中庵丹羽桃渓の漫画風挿絵が多数入っている。
『紙漉重宝記』によると慶雲・和銅の頃(704年〜715年)石見の国の守護、柿本人麻呂が民に紙漉きを教えたと記されており、1300余年の間、石見国で手漉きの紙が、漉き続けられ、技術の伝承が行われ、現在に至る歴史的根拠となっている。
「動詞の方言としては、ヒヤコルとテネルの二語が出ておる。結ぶ意味のテネルに関しては、全然今日と同様に使用しておるが、、叫ぶの意味を持つヒヤコルは、表記法の上から、ヒヤコルであるか、ヒャコルであるか分明しない。
現今浜田以東の、那賀郡・浜田市ではヒヤコルといい、浜田以西の那賀郡・美濃郡・益田市では、拗音化してヒャコルといっておる。そして東石見の邇摩郡・大田市の辺では、全然別語のオラブ(号ぶ)を使用しておる。寛政年間美濃・益田地方で、ヒヤコルが拗音であったか否かは、本書の表記では判明しないが、オケヤアレ・落チヤアルナが、オキャーレの音に取られる点を見ると、ヒャコルとすでに、いっていたようにも見られる。して見ると、美濃・益田・浜田以西の地方では、すでに拗音化して、いっていたことが理解される。
その他本書のクビルはキビルに変化し、ムスはウムスと変化しておる。また書いた、乾いたの場合に、今日では書アた・乾アたというが、本書に乾イたとあるのを見ると、寛政ころにはまだai音が、a音に化していなかったように思われる」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎・昭和41年)。
マタギ言葉にクビレ
那須野(マタギことば・やまことばHP 栃木県)
クビレ ダル 尾根がすっと下がっているところ
サマ 岩場・崖
『山と人と生活』(高橋文太郎・昭和18年)
クビレ
東北朝日岳地方では尾根の鞍部をクビレともいふ。奥会津の飯根村彌平四郎あたりでも、この呼名がある。例、牛ヶ首のクビレなど。
マド
山稜が切れ込んで窩の形に低下した地形
『秋田マタギ資料』(高橋文太郎・昭和12年)
サマ イシクラ
木地師 石見からの山口へのルート
(『防長人丸社新考』から)
吉賀町柿木村からは、仏峠を経て山口市徳地へ、
小峰峠を経て周南市鹿野へ
吉賀町六日市からは傍示ヶ峠を越えて錦町広瀬へ
匹見町三葛から河津越えで錦町宇佐への4ルートである
広
見・道川・三葛・七村・道谷・匹見本郷の各村に木地師
「木地屋については、化政期(1804-1829)に著わされた石田春律『石見八重葎』に、広見・道川・三葛・七村・道谷・匹見本郷の各村にいたことが記してある。匹見の木地屋は、安芸から移住してきたもので、宮島杓子の原材料の荒木を生産していた。
また長浜(現浜田市)に送って長浜塗として出荷されていたことが、中川顕允『石見外記』に、『美濃郡匹見山中二木地引アリテ、山溪ノ間二借宅ヲシツラヒ住テ木ヲ伐リ椀盆ナドノ家具ヲ素製シテ生計トシ』『木具ヲ製シ出スヲ、長浜村ノ塗数エソレヲ塗りテ出ス膳椀類ヲ、長浜細エト名ヅケテ国産トス』とある。
『美濃郡案内』は明治40年の刊行であるから、明治末までは,匹見に轆轤細工の木工業者がいたのである」(過疎地域における地域産業の展開過程田 内藤正中)。
クビル方言
『昔の茨城弁集・茨城方言大辞典』HPから
くびる @握る、くくる、縛る A首をしめて殺す
『括る』『縊る』。古い標準語。
@きびる 鹿児島。
くびる 山梨・静岡・鹿児島。
くぶる 鹿児島。
くびれ 藁などの束 長野。『括る』の名詞形。
こびる 鹿児島。
木地師 氏子狩
「氏子駈帳・氏子狩帳」は、木地師が住んでいる地名や人名などが列記された冊子で、江戸時代の木地師の様子や全国の木地師の分布と移動の様子などを示す(東近江市HP)。
『山陰地方東部の木地屋の活動領域』『氏子狩帳』の分析をとおして(田畑久夫)から、蛭谷、君ヶ畑の中国地方、中部地方、四国・九州へ氏子狩巡回が行われていた。
蛭谷の「氏子狩」巡回国(一部)
蛭谷を起点として、丹波・因幡・石見・安芸の諸国を巡回、主として中国山地を氏子巡回する。
蛭谷を起点として、美濃・越前など4ヶ国を経由、中部地方を中心に巡回する。
蛭谷を起点として四国、九州を巡回する。
君ヶ畑「氏子狩」の氏子巡回(一部)
但馬・播磨・因幡・伯耆の各国など中国地方を氏子巡回する経路。
三河・美濃・信濃をはじめとする中部地方の氏子巡回する経路。
『昔の茨城弁集』によると、方言「くびる」は山梨、静岡、鹿児島、長野などにある。
「クビレ」を鞍部とする地名は、奥多摩、山形県、秋田県と中国山地に限られる。いずれも奥深い山中に地名である。
カシミール3Dデータ
総沿面距離13.7km
標高差769m
区間沿面距離
亀井谷入口
↓ 7.0km
広見山
↓ 1.6km
ジョシノキビレ
↓ 1.8km
カメイ谷
↓ 3.3km
亀井谷入口
|