山歩き

三段峡…モリガ谷…内黒峠…柴木林道
2021/5/9

柴木…三段峡…横川出合…モリガ谷…旧道…内黒峠…内黒山…薮ヶ迫山…ヤシキ谷…柴木林道

■内黒山(ウチグロヤマ)1082m:広島縣山縣郡戸河内町字柴木(三角点なし) (安芸太田町)
■薮ヶ迫山(ヤブガサコヤマ)1050m:広島県山県郡安芸太田町大字柴木字宮里山(点の記)

発電所から薮ヶ迫山を望む
長淵橋
三段峡入口 大正14年の石柱
姉妹滝
龍ノ口
遊歩道からモノレールが入る
五立
赤滝
皆実高校遭難碑
石樋
石樋観音
関付の先の崩れた斜面
根付の蓬莱岩
天狗岩
黒淵荘
仏岩と向山の尾根
崩れた岩
蛇杉橋
大淵
耶源
水流のミズナシ川
葭ヶ原
楓林館(ふうりんかん)跡
ミズナラ
横川出合
幸橋
石垣が続く
横川川の釣り人
モリガ谷左岸の河内神社神殿
河内神社の鳥居と拝殿
谷のカツラ
右岸へ渡る橋跡の石垣
右岸の段々畑の石垣
崩れた廃屋
廃屋
石垣が続く
石垣の畑の間を古道が通っている
古道の電柱
トチノキ
左岸へ渡る橋跡
左岸にも段々畑の石垣が続く
最上部の石垣
トチノキ
古道の石垣
円座
古屋敷へ出る旧道
旧道の丸太橋
展望所から砥石川山と聖山を望む
新しい花が手向けられた加藤武三碑
内黒山
宮里山(薮ヶ迫山)分岐
薮ヶ迫山 内黒雨量観測中継局
薮ヶ迫山東の大岩
ヒノキ林を下る
尾根上のヌタ場
ヤシキ谷へ下る
クロヤマ谷左岸の薮の林道
柴木林道に出る
大平山
高鉢山
内黒山登山口
長淵橋
5:50 柴木駐車場 気温17度 晴れ

7:00 黒渕
8:10 葭ヶ原
8:55 横川出合
9:25 モリガ谷
10:55 旧道(内黒峠−古屋敷)
11:10 展望所
11:25 内黒峠
11:45 内黒山
11:55 薮ヶ迫山(宮里山)
13:05 720P北鞍部
13:10 ヤシキ谷
13:35 柴木林道
14:55 柴木駐車場

   
 川沿いにフジが咲き、アオダモはもう翼果を付けている。山際にワスレナグサ、コガクウツギ、ヤマブキ、ミツバウツギが咲き、マムシグサが鎌首をもたげる。柴木川左岸を進み、柴木川第一発電所の横に出る。三段峡の奥に薮ヶ迫山の峯が見える。

 スギ林に入るとホウチャクソウが咲いている。赤い長淵橋を過ぎると三段峡入口、特別名勝三段峡の古い石柱があり、史蹟名勝天然記念物保存法、大正14年10月指定の文字が見える。その横に文部省の境界石柱がある。

 遊歩道にシャガ、コケイランが咲く。長淵を過ぎると龍ノ口、その入口に姉妹滝が落ちる。白く泡立つ谷の岩盤を掘りながら、龍の胴体が続く。ヤブツバキの花が落ちている。左岸の上に工事用のモノレールが通っている。対岸にアオダモの白い花が見える。ラショウモンカズラが咲く。

イワカガミ
アオダモ 翼果
コバンノキ

 峡中に兜石を見る。チャルメルソウ、クルマムグラが咲き、ウリノキにツボミが出る。尾根下に五立の懸崖が見え、赤滝に進む。シライトソウ、ガマズミが咲き始め。ヤブツバキがまだ残っている。

 トンネルを抜けると皆実高校遭難碑。頭上にフジが咲く。女夫淵から石樋へ進む。両岸にアオダモの白い花。石樋の先に天狗岩が見える。石樋の岩裂に自然に出来た観音が見える。関付を下ると山側が崩れて遊歩道を土砂が覆う。塔岩は対岸に懸崖が二つ並ぶ。

 峡中の蓬莱岩は転石でなく、浸食により抉られた根付き岩という。谷奥にサバノ頭の出崎と向山の峯が見える。黒淵入口は本日渡舟休業の看板。坂を登り、黒淵の上に出る。石垣が高く積まれた遊歩道をさらに登り、黒淵荘の上に出る。懸崖下の黒淵荘は押しつぶされそうに見える。

ホウチャクソウ
シライトソウ
ハナイカダ

 アオダモが多い坂を下る。黒淵から特徴あるコの字地形に入る。山側の小谷の落ち口にヒメレンゲ、タニギキョウが咲く。仏岩を回る。ミツバウツギが咲く。ゴーロ帯にコンロンソウが群生。落石で遊歩道に岩が転がっている。ウワバミソウが咲く。ユズリハの大木が遊歩道の上に太い枝を伸ばしている。

 蛇杉橋の先に向山の出崎が見える。橋のアサガラに花芽が出て、ミズキが咲き始めている。三段峡は入口から中までアオダモが多い。ナンポウ橋を渡り、大淵で一休み。コケイランがところどころ咲いている。トンネルを通り坂を上がる。釣り人が入っている。

 向山から降りる出崎の先端にサイレン塔があり、蔵座林道終点へ上がる起点になっている。耶源の下に巨石が転がる。縦に節理がある岸壁が高く聳える。瀬に回ると向真入山の出崎の小山が見える。ミズナシ川に水流がある。

ミツバウツギ
ヒメレンゲ
ラショウモンカズラ

 ミズナシ川の駐車場から葭ヶ原へ進む。古い建物と新しいトイレ屋がある。柴木川を渡る橋にアオダモ、キシツツジが咲く。三段滝分岐を過ぎる。ナツトウダイが咲く。もう一つの三段滝分岐を過ぎると、楓林館跡、昭和初期に営業し、昭和33年に解体された。宮本常一は昭和14年11月、ここを通っている。

 「三段瀧をすぎて少時行くと横川との出會になる。このあたりは楓が多くて、地面は赤い絨毯をしいたやうに美しい。その美しさを踏んで行く。足がすべる。西に折れて横川の谷に入った所に楓林館といふ宿がある。その言葉通りだが、客もないらしくひっそりしてゐる。道はここから流に沿うて遡る」(『村里を行く』)。

 大きいナツツバキが立つ。葉が痛くないハイイヌガヤが群生する。三本立の大きいミズナラがある。五郎堰を過ぎる。山側に巨石が立つ谷を回る。猿飛渡舟場の坂を登る。大きいイタヤカエデの下を通り、猿飛に進む。眼下に舟が見える。出発から3時間ほどで横川出合、橋下の階段で休憩。

コケイラン
ミヤマガマズミ
アオダモ

 田代川の橋にアオダモが咲く。横川川左岸を進む。幸橋手前の山側に石垣が見える。コハウチワカエデに花が下がる。橋を渡ると両岸に石垣が続く。ヤグルマソウ、イヌザクラが咲く。横川川に釣り人。モリガ谷左岸の道に入ると河内神社。石垣の上に神殿があり、奥へ進むと標柱のあるホオノキの巨木がある、その奥に拝殿と鳥居がある。

 谷には大きいカツラが株立している。カツラには標柱が立てられている。石垣の横を谷の奥へ進むと、右岸のスギ林に石垣が見える。丸太橋か架かっていた辺りを右岸へ渡る。スギ林下に段々畑の石垣が続いている。潰れた家の横を通る。北奥にまだ民家が立っていた。

 地面のくぼみに鳥の羽が散らばっていた。段々畑の間の道を進む。ムラサキケマン、アケビが咲く。石垣の間の広い山道を進む。電柱が立ち、モリガ谷から延びている電線が山側に入っていた。電柱が山道の奥に見える。右に大きいトチノキがある。

 左岸にも石垣が見える。地図では荒地記号になっている。古道は橋跡を左岸に渡る。左岸の段々畑の石垣に出る。最後の石垣を過ぎた辺りから古道は南へ上がる。足元に石積みが続いている。コアジサイに花芽が出ている。大きいトチノキの所から西へ進む。ササが深くなる。

タニギキョウ
ナツトウダイ
クマシデ

 途中、古道の石垣がある。円座があった。深いササで道が消失するところもある。モリガ谷から1時間半ほどで内黒峠への旧道に出た。湿地にタチカメバソウが咲く。15分ほどで展望所に出る。日が差すが気温20度で気持ち良い。砥石川山、聖山が見える。内黒峠の加藤武三碑には新しい花が手向けられていた。

 ブナの山道を登る。15分ほどで植林地の内黒山、さらにヒノキ林を進み、10分ほどで薮ヶ迫山。内黒雨量観測中継局がある。ヒノキ林の尾根を下る。大岩が尾根を塞いでいる。ミヤマシキミの花が残っており、青い実を付けたものもある。ヒノキ林下にギンリョウソウが出る。途中、尾根を掘り返したヌタ場があった。

 急坂の720ピーク北の鞍部に降りる。鞍部からヒノキ林をヤシキ谷へ下る。5分ほどでヤシキ谷。一休みして顔を洗う。クロヤマ谷へ出ると右岸の車道までが高い。クロヤマ谷左岸に薮の古道が通っていた。途中、スギ林に入り柴木林道に出た。オオマキ峠を越え、車道を下る。北側に大平山が見える。サルトリイバラに花が出る、ミズキが咲く。

 旧内黒山登山口まで進むと、東側が開け高鉢山が見える。スギ林にシャガが群生する。眼下に長淵橋が見える。日陰にチゴユリ、ガマズミが咲いていた。柴木林道から1時間余りで駐車場に帰着。

チゴユリ
サルトリイバラ
ヒメハギ
ギンリョウソウ
コハウチワカエデ
ワスレナグサ
マムシグサ
カキドオシ
ヤグルマソウ
チャルメルソウ
イヌザクラ
ムラサキケマン
アケビ
タチカメバソウ
ミズキ
ミヤマハハソ
ヤマウルシ
コガクウツギ
クルマムグラ


地名考

 鞍部としてのキビレ・クビレ地名


 鞍部を意味するキビレ地名は、那須・横川・冠山周辺に特有の地名で、他の地域には見られない。特に那須に多く、那須から派生したのではないかと思われる。石見方言にクビル、キビルがあり、石見からやってきた那須の木地師石田富次の影響があったのではないか。
 また、1647年から1830年までの183年間に、匹見に逗留した450人以上の木地師の名前がみられることから、匹見と那須、横川の木地師との交流があったと考えられる。

 クビレは元、くくるの意で、万葉集にクビレは無く、鎌倉期の沙石集に、中ほどが細くなっていることをクビレというようになる。


 日本書紀のクビレ


 原文 自縊焉 
 読み みずからくびれぬ
 意味 みずから首をくくって死んだ

 日本書紀ではクビレは首をくくるの意。

 万葉集3791番の「スガル」(クビレ表現)
 原文 為軽如来 腰細丹
 読み すがるのごとき こしほそに
 意味 ジガバチのように細い腰に

 万葉集にクビレは無く、スガルがクビレ表現。

 沙石集のクビレ(鎌倉中期)
 何故シテ蟻ヲ名蟻耶
 ナニノユヘニアリヲ。アリトナヅクル。
 中ハクビレテ。前後ノカタチアルユヘニ。アリトイフ

 鎌倉中期に中ほどが細くなっていることをクビレという。万葉集では蜂だが、沙石集では蟻の例え。


 西中国山地のクビレ・キビレ

 クビレは広見、横川、徳地の3つだけ。

 キビレは那須、横川、広見に偏在している。キビレ地名は恐羅漢山と内黒峠の周辺にのみ見られる地名。全国にない。那須地域に多い

 木地師の製品にクビレ名が付いている。
 クビレこけし、クビレ椀

 杓子 お玉の丸い部分と取手の付け根の部分に「くびれ」をつける。


 『村里を行く』によれば、横川の木地師は那須から来ている。

 宮本常一『村里を行く』 横川・那須の木地師

 宮本常一は樽床から三段峡を通って横川の民家に泊まる(昭和14年11月29日)

 「扨(さて)主婦はあたたかいものがよからうと言って、それからわざわざ御飯をたいてくれた。ゐろりの隅に小さい瓦竃が据えてあってそこで炊くのである。それが丸膳にのせて出された。丸膳といふのもうれしい。附近に木地屋の村があるらしい。きいて見れば山を南へこえた一里ばかりの所に那須といふ在所があり、それが木地屋の村だといふ。この村の人たちは、ここを中心にして方々の山へ行って仕事をする。大朝の西の境といふ所に住む二軒の木地屋もここから行ってゐるのだといふ。ここから西の方の五里山に入って仕事をしてゐるのも、ついさっき横川に入る前に道ばたで見た粗末な小屋も皆木地をやってゐるもので、やはり那須の人たちだといふ。そして那須はどうやら西中国山地の木地屋の一つの中心聚落とも言ふものらしい。そしてその定住も決して新しいものではないやうである。このあたりの村人は、この木地師たちのおかげで、多くの木地膳や木椀を持ってゐる。それを買ひととのへるためにもとは膳椀の頼母子もしたといふことである。そしてこのやうな木地物は家々では晴の日に用ひたのである」

 那須の木地師

 『那須の古老達の談によれば、その起源は江戸時代の末期頃に佐伯郡の水内(みのち)の方から来たらしいとの事である。規模は不明であるが、文政二年(1819年)の 『国郡志御用に付下調べ書出帳』―山縣郡戸河内村―に
「重立(おもだち)候産業の一項に木地挽家数千七百九軒の内木地屋二軒惣人数四千六百八十一人の内木地屋二人、右掛り人七人」の記載があり、村内であるが作業地や その期間は不詳である…

 明治33年、 島根県から移住してきた故石田富次氏から木地及び漆塗りの技術を習い、漆器生産が盛んになった。石田師は島根県那賀郡都地村字尾浜(現江津市)の人で、明治33年 単身で那須に移住してきた。時に後述の碑文から推定すると53才と思われる。明治42、3年頃まで木地及び漆塗りの技術を指導した。その後吉和郷の遊井(あぞい)に 移り小屋住いで木地をしていたが、老令のため引退、上本郷に居住し死没した(『とごうち郷土誌考』)。


 匹見の木地師

 『「木地屋文書」を発給した近江国小椋郷の筒井正八幡宮の氏子駈帳には、正保4(1647)年から文政13(1830)年までの183年間に、匹見に逗留した450人以上の木地師の名前がみられます』(益田市HP)。

 「『石見八重葎』(1817)によると当町の生業として木地屋という文字が、広見村・道川村・三葛村・七村・道谷村・匹見本郷等に見えておる…

上道川村でも、ろくろ小屋田・木地屋原・木地屋敷などの文字がみえておる…

恐羅漢山・五里山・冠山の高山が南北に連亘し山中はブナ・トチなどの原始密林で昼なお暗く蔽われている。この山中に介在する七村・三葛・広見などの地には木地屋が昔から巣食っていたので名高い…

安芸木地屋の根拠地は山県郡の那須・横川・加計の三地である。これらの地からは西の大朝へも移住し、中国山地の五里山を越えて当町を訪ね、杓子木地と椀木地とを相当数移動交流させていた…

幕末のころ、特に石見に入った木地屋から技術を習得したという那須の木地屋が宮島木地の技術を、反対に石見へ導入して、地方新興の木地屋として栄え、製品を安芸の宮島へ輸出した点は特に注目すべきことである…

三葛の大立山には無縁になった小椋姓の墓が沢山谷奥にあるが、当町の過去帳によって、慶安四年(1651年)木地屋三右衛門の女中、妙林禅定尼が知られ…現存する墓石で銘あるものには、三葛から一里奥の大立山に『宝暦三年木地屋墓』(1753年)というのがある 

今日木地の中心地は隣境の那須である。ここは今も西中国山中の一の中心衆落をなしており、その定住の決して新しいものではない。ここを中心として方々の中国山中に入って仕事をしておる。大朝の木地屋も那須から行っておるのであり、横川のも匹見の五里山へ入って仕事をしておる」(『石見匹見町史』矢富熊一郎)。

 石見の方言

 浜田の方言(浜田市教育委員会)
 きびる 結ぶ、いわえる、くくる
 くびる きびるき、括る(重宝記)

 石見方言
 キビル 結ぶ・ゆわえる
 クビル 結び目をつける・縛る・結ぶ

 那須の木地師、石田富次は石見の人
  島根県那賀郡都地村字尾浜(現江津市)

 柳井方言
 キビル 結ぶ・くくる・束ねる

 キビレ・クビレ地名と木地師

キビレ・
クビレ地名
地域 木地師関連
ジョシノキビレ 広見・亀井谷 広見に木地師
カマノキビレ 広見・亀井谷 広見に木地師
七人小屋クビレ 広見 広見に木地師
ホンゾウノクビレ 広見 広見に木地師
ボーギノキビレ 県境
広見・吉和
木地師が越える
半四郎の遭難
ケンノジキビレ 県境
広見・吉和
 
青山キビレ 県境 木地師の墓
ボーギノキビレ 県境  
オオクビレ
(内黒峠)
横川 横川に木地師
アカゴウキビレ 聖山 横川に木地師
十文字キビレ 聖山 横川に木地師
42のキビレ 向真入山 横川に木地師
夏ヤケノキビレ 横川 横川に木地師
ヤハチノキビレ 横川 横川に木地師
オオキビレ 横川 横川に木地師
ワル谷キビレ 那須 那須に木地師
カザゴヤキビレ 那須 那須に木地師
オオキビレ 那須 那須に木地師
ジャノクラキビレ 那須 那須に木地師
鳥越キビレ 那須 那須に木地師
バーノキビレ 吉和 キジヤ原
三ノ谷クビレ 徳地 三ノ谷木地師

 

キビレ・クビレ地名

那須・横川にキビレ地名が集中


 奥多摩のクビレ地名

 奥多摩のクビレ地名は木地師関連の地名と思われる。

 オオクビレ・大京谷ノクビレ・梯子坂ノクビレ・鞘口ノクビレ・巳ノ戸ノ大クビレ・クタシノクビレ

 山形県 カミクビレ
 秋田県湯沢市 オオクビレ

奥多摩のクビレ地名


 匹見側の人の出入り
 
 亀井谷の長者間夫に二百名 明和年間

 「明和年間大阪の住友氏は、下道川の亀井谷川の上流亀井谷に銅山の採掘をした。亀井谷長者まぶの銅山の最盛期には間夫(鉱夫)の数が二百名にも達し、ために遊女が何十人もこの山奥に住みこんだという。この銅山には明和七年(1770)、阿弥陀如来を本尊とする仙床禅寺が建立された…
 掘り取った銅鉱は岩倉山西側の馬道を通って安芸国加計に運び、ここで熔鉱した上、製銅は大阪へ送ったのである」(『石見匹見町史』)。

 北海道釧路から二百名が亀井谷に移住 製炭

 「昭和十五年三月、北海道釧路から移住した製炭王館田与次は、総戸数四十戸二百名の従業員を連れて、下道川の亀井谷に留まった。時あたかも太平洋戦争がたけなわの折、製炭報国の精神から恐羅漢の山麓、二里にわたる亀井谷の峡谷に、三十基の大型製炭窯を敷き、広さ六百五十町歩の原生林から毎月平均五千俵の木炭を焼いて、市場へ送り出す計画をたてた。

 越えて翌昭和十六年からは、さらに隣村匹見上村、広見公有林、三百町歩の製炭経営に着手、これを二十二カ年間の継続事業とし、長期製炭報国の発足点とした。

 一行中には二十四才になる美貌のアイヌ婦人、石田ふみもいた。彼らの中には三十名の児童もいたが、一里もある下道川へ登校するのは不便を感じるので、亀井谷製炭村へ小学校を新設するとまで意気ごんだのである。節米の時代に二百名をまかなう毎月の米は五十俵を要する次第で、この兵站線を守る苦心も並大抵ではなかった。しかるに終戦とともに彼らは郷里の北海道へ引き上げた

 彼らが焼いた炭は東横浜電鉄会社の台所をくぐった後、都大路を走る国策社運行の原動力となって、時局に燃料資源節約の大きな役割を果たしたのである。

 その後亀井谷の森林六百町歩は、静岡県藤井木材工業の所属に帰し、二十九年国有保安林に指定された」(『石見匹見町史』)。

 亀井谷は明和年間から人の出入りが多かった。

 北海道釧路から二百名が亀井谷に移住し、亀井谷や広見で炭焼きをしているが、その中にはアイヌ婦人もいた。昭和15年から終戦までの数年間ではあるが、周辺の地名形成になんらかの影響を与えたか。


 クビリ・キヒレ・キビル地名

 峠データベースに久比里坂(クビリサカ)がある。横須賀三浦半島の端にある峠名である。クビリサカは古い地名のようだ。
 「◯小名 …△久比里村南の惣名なり、元祿の改には西浦賀村之内久比里村と載す、相傳ふ鎭守若宮社に納むる石より地名起れり」(「新編相模国風土記稿」1841年)。

 鹿児島市に喜入の地名がある。
 「喜入」(キイレ)の名は、1414年島津久豊がこの地で上げた戦勝を祝して給黎を「喜入」と改めたのが最初です(鹿児島市喜入町HP)。
 給黎郡は『和名抄』によると、「岐比礼」と読み「給黎郷」の一郡一郷だった。給黎郡創設は646年とあります。
 『きひれ 給黎(薩郡)岐比礼《キヒレ》 給《キフ》ヲ「キヒ」ニ用ヒタリ』(「地名字音転用例」本居宣長)とあり、喜入は元々、「キヒレ」と呼んだようだ。

 「クビリ」は沖縄では坂の意である。
 イシクビリ 石のある坂(首里・那覇方言)
 ミーマクビリ 嶺間・坂(首里台地北側の地名)

 沖永良部島の喜美留(キビル)は、薩摩藩統治時代には、「木枇留」(キビル)と表していた。キビルは島の東側の平地にある。


 アイヌ語のキピル(アイヌ語小辞典)

 kipir キピル
 kipiri キピリ

 @水際からそそり立っている崖
 A海岸の砂丘

 kipir → kip-ir (額・ひとつづきのもの)
 kipiri-ka キピリカ 海岸段丘の上の平地

 沖永良部島の喜美留(キビル)、鹿児島市の喜入(給黎、岐比礼=キイレ)は、海岸沿いの平地地形であり、アイヌ語 kipir (海岸の砂丘、丘)に近い地形と思われる。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離20.7km
標高差758m

区間沿面距離
柴木
↓ 9.0km
横川出合
↓ 4.3km
内黒峠
↓ 3.4km
柴木林道
↓ 4.0km
柴木
 

『芸藩通志』戸河内村絵図(1825年)

破線道が内黒峠からモリガ谷へ降りているように見える
 
明治32年測図昭和7年修正測図 大日本帝国陸地測量部 「三段峡」の部分

破線道が内黒峠からモリガ谷へ降りている。
 
1974年(昭和49年)の空中写真+カシミール3D モリガ谷右岸に段々畑と民家が見える。上流にも段々畑。
 
内黒峠 展望所から
砥石川山、聖山
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)