山歩き

牛首…内黒峠…彦八の頭…三ツ滝
2021/4/3

戸河内駅跡…横川古道…明治の道標…牛首三角点…内黒峠…彦八の頭…中三ツ倉…藤十郎…三ツ滝…那須古道

■牛首(ウシクビ)715.7m:広島県山県郡安芸太田町大字吉和郷字吉和郷川西平(点の記)
■彦八の頭(ヒコハチノカシラ)1151m:広島県山県郡戸河内町(点の記) (安芸太田町)
■丸子頭(マルコカシラ)1236m:広島県山県郡戸河内町字横川(点の記) (安芸太田町)

戸河内駅跡のエドヒガン
おっぱい山
明神社
古道入口
古道から上本郷を望む
古道の石垣
石畳み跡
おっぱい山分岐
市間山
中電の吉和郷無線中継局
那須横川分岐の道標
作業道を進む
牛首三角点
アカマツの爪痕
県道に降りる
横川峠から藤十郎と彦八の頭を望む
昭和38年 遭難碑
加藤武三碑
クリの木のクマ棚
内黒山を望む
4.2mミズナラ
彦八 1166ピーク
恐羅漢山
彦八の頭
市間山、立岩山
恐羅漢山と砥石川山
藤十郎
藤本新道分岐
丸子頭
前でなく中三ツ倉
中三ツ倉東に雪が残る
藤十郎
4mスギ 三ツ滝上流
三ツ滝上の木橋 左岸へ渡る
三ツ滝上部
北側の小谷を渡る
木の梯子を下る
三ツ滝中の釜
三ツ滝中の釜の木橋 右岸へ
三ツ滝中の釜から右岸の崖を進む
三ツ滝下の釜
三ツ滝下の釜に落ちるカラ谷
木の階段を登り山道に出る
岩崖の丸太橋
岩崖に丸太橋が続く
ダーガハラの石垣
三ツ滝へのコース図 風小屋林道終点
風小屋林道入口
那須古道の朽ちた鉄橋を渡る
那須集落とダーガハラ
那須古道の石垣
那須古道流田口
6:15 戸河内駅跡 気温13度 晴れ

6:30 横川那須古道入口
7:10 おっぱい山分岐
7:40 明治の道標(右横川左那須)
8:00 作業道
8:20 牛首三角点
9:25 恐羅漢公園線
9:35 横川峠
10:30 内黒峠
11:45 彦八の頭
12:10 藤本新道分岐
12:45 丸子頭
13:15 中三ツ倉
13:40 藤十郎
13:45 三ツ滝分岐
14:25 三ツ滝
15:20 風小屋林道終点
15:45 那須古道入口
17:30 那須古道流田口 
18:20 戸河内駅跡 


 戸河内駅跡のエドヒガンが満開、気温13度。昭和44年7月に加計−三段峡間が開業(国鉄)したが、平成15年11月廃線(JR)となった。おっぱい山を見ながら国道に出る。旧道を通り明神橋に進む。柴木川と太田川の合流点にサクラが咲く明神社が見える。

 太田川左岸に大きい岩礁が見える。石碑の横に参議院選挙の掲示板が設置されている。ヤブツバキが咲く。県道を進むと民家の間が古道への入口になっている。以前はおっぱい山の道標があったが、注意しないと通りすぎてしまう。古道の坂を上がると上本郷の街並みを見渡せる。

 暗い林をジグザグに進む。厚い落葉の上にヤブツバキの花がたくさん落ちている。石垣と石畳があるが、石畳は落葉に隠されている。イカリソウ、ミツバツツジが咲く。ヒノキとスギの植林地を進む。ミヤマカタバミはツボミのまま。植林地に青竹が伸び出ている。石畳の跡だろうか、石がごろごろした道が続く。

エドヒガン
イカリソウ
明治の道標 右横川左那須

 1時間ほどでおっぱい山分岐。南側に市間山が見える。中電の吉和郷無線中継局を過ぎる。ミツバツツジはまだツボミ。車のエンジン音とクロヤマ谷の水音が大きく聞こえる。1時間半ほどで那須・横川分岐。右横川左那須と書かれた明治の石の道標がある。明治32年測図昭和7年修正測図の大日本帝国陸地測量部の地図を見ると、古道入口から那須・横川分岐まで実線道で、分岐から那須、横川峠まで破線道、横川峠から本横川まで実線道になっている。

 分岐のミヤマシキミはツボミ。左の那須道を進む。おっぱい山が見える。アセビが咲く。尾根の横を古道が通り、北側に作業道が見える。西に上がる作業道は棘の薮になっている。北側の作業道は新しかった。北へ回る。フナガ谷の東の小谷で分岐し、山側への道を進む。次の分岐を東に進んでほどなく終点。

 アカマツの尾根を進む。ミヤマシキミが咲く。タムシバの花がたくさん落ちている。那須・横川分岐から40分ほどで牛首三角点。ミヤマシキミの花が群生する。ミツバツツジが咲き始めている。途中、アカマツにクマの爪痕が見られた。クマはマツヤニを食べる習性がある。細見谷のクロダキ谷の尾根斜面にもアカマツの食痕がある。

コバノミツバツツジ
アセビ
タヌキの溜糞

 古い糞の塊に新しい糞があった。県道へ降りる手前にコンクリートの基礎があった。何か施設があったのか。牛首三角点から1時間ほどで県道へ出る。薮の作業道が南へ入っている。県道沿いにキブシが咲く。横川峠へ進むが、那須のダーガハラは林が邪魔で見えない。尾根側のコンクリートの階段を上がる。展望は良くなるが、ダーガハラは林で見えない。

 鉄塔まで上がって見たが展望は無い。ダンコウバイが咲く。のり面にイカリソウが見える。イヌブナ、ナガバモミジイチゴが咲く。チェーン売り場を過ぎるとアンテナ塔が見えてくる。日当たりは暑い。遭難碑の裏の木陰で一休み。峠手前で下を見ると、那須側に新しい作業道が通っていた。

 南側が開け、市間山の山並みが見える。出発から4時間ほどで内黒峠。加藤武三碑の前で一休み。気温20度。日当たりのミヤマカタバミは花が開いている。クリの枝が散乱しクマ棚がある。峠から30分ほどで展望地に出る。本郷の里が見える。県道、内黒山、サバノ頭、奥に向山が見える。

キブシ
イヌブナ

 イヨキリ谷水源の4.2mミズナラは枯れているが、長く立ち続けている。彦八の手前で東側が開ける。恐羅漢公園線のアンテナ塔の間に本郷が見え、その奥に天上山が見える。1166ピークの彦八は中ヶ谷頭とも呼ぶ。ササの子が地面から突き出ている。

 北側の展望が開け、ササ原に先に恐羅漢山スキー場が見える。カンスゲ類が花を付ける。峠から1時間余りで彦八の頭。西風が強い。南側へ市間山が見える。リョウブ林を進む。林が切れると北側が開け、恐羅漢山、砥石川山への展望がある。

 カザゴヤキビレへ下る。南側が開け、ササ原の先に藤十郎の峯が見える。タムシバが咲く。キビレのブナ林を通る。内黒峠から1時間半ほどで藤本新道分岐。ユキザサに緑のツボミが出ている。ブナ林の1152ピークを通過。鞍部に大きいスギた立つ。丸子頭北面に雪が残っていた。峠から2時間余りで丸子頭。三角点は登山道から100mほど西に入っている。

ナガバモミジイチゴ
ミヤマカタバミ

 林の奥に点々とタムシバの白い花が見える。リョウブ林を進む。中三ツ倉北面にも雪が残っていた。東側へ展望が開ける。十方山北のピーク側に雪が残っているのが見える。丸子頭から30分ほどで中三ツ倉。大岩を抜けて西側に出ると、あちこちに雪が残っている。

 登山道は濡れて滑り易い。3mブナ、3.7mブナを過ぎる。中三ツ倉から30分弱で藤十郎。そこから5分ほど進むと三ツ滝分岐に出る。恐羅漢トレイルで新しく開かれた道だ。道は左岸へ渡り、周囲4mの大スギに出る。2005年にここを通っているが、雰囲気がまるで違う。少し下って右岸へ渡る。

 ヒノキ林の山道を下る。スギ林に変わる。分岐道標があり、そこから三ツ滝上部に出る。滝上部に丸太橋が架かる。ここから上流にもゴギが居る。回り込んで左岸の木梯子を降りる。北側の小谷の下の丸太橋を渡る。左岸をさらに木梯子を下り、三ツ滝下の滝つぼに出る。滝つぼの丸太橋を右岸に渡る。ロープを掴みながら崖を渡る。一番下の滝つぼの上に出る。下の釜にカラ谷が北側から落ちている。木の階段を上がり、山道の分岐に出る。

オクノカンスゲ?
ササの子

 スギ林の山道を進む。途中、大岩を回り込む。岸壁を縫うように山道が通っている。岩崖の側面にタムシバが多く咲く。ところどころ木橋が渡してある。突然、チェンソーの音が響いた。一人で山道を修復されている所に出た。積雪の後は山道が崩れたり、倒木が塞いだりしている。有難く歩かせていただく。

 登山道の分岐を過ぎて、ダーガハラの石垣を下る。ショウジョウバカマが咲く。三ツ滝から1時間ほどで風小屋林道終点。ヤマナシはまだ咲いてなかった。林道終点の手前に谷を通るアドベンチャーコースの入口がある。登山コースとは別のコースである。林道のサクラ、クロモジが咲く。ウラオレ橋で顔を洗った。

 那須川沿いのサクラが満開。柴木谷落ち口の錆びた橋を渡り、流田への古道を進む。ミヤマカタバミが咲いている。古道から那須集落とダーガハラを望む。石垣のある植林地の山道を進む。ミツバツツジが咲いている。炭焼き跡を通り、古道入口から2時間弱で流田の県道に出る。40分ほどで戸河内駅跡に帰着。

那須集落のサクラ
ショウジョウバカマ
ユキザサ
クロモジ
タムシバ
ヤブツバキ
ミヤマシキミ
ミヤマシキミ
フキノトウ
コバノミツバツツジ
ダンコウバイ
アオキ
ヤマブキ


地名考


 『文化財をたずねて』から
 (戸河内町教育委員会 戸河内町郷土歴史研究会)

 「恐羅漢山は典型的な高台性の広い山稜をもつ山で、標高1346mの中国地方では大山につぐ巨峰である。霊峰のような山名は正徳5年(1715年)に”おそらかん山” として古文書に出てくるが、別に”ウラ十方山”とも呼ばれていたらしい。石見方面からは大亀谷山ともよばれていた。西稜と北面の台所原にかけてブナの原生林が残っている」

 おそらかん山は「ウラ十方山」とも呼ばれていたようだ。「ウラ十方山」は「裏十方山」であり、「背向十方山」と表すことができる。

 恐羅漢山は古文書では「ソカヒ山」と呼ばれているが、「ソカヒ十方山」と表せば、恐羅漢山は十方山の裏にある山の意に解することができる。

『国郡全図』安芸国
(1837年 神戸大HPから)

底見(匹見)と八幡原の上にソカヒ山


 『日本地名箋』(1874年)、安藝、山縣の項に「背向山」があり、「ソガヒ」と仮名書きしてある。

『日本地名箋』

背向山(ソガヒ)


 万葉集の「背向」

 「背向」を「そがひ」と訓むことは、次の類歌二首較べることによって確かめられる。以下二首の原文。

 吾背子乎 何處行目跡 辟竹之 背向尓宿之久 今思悔裳(1412番歌)   

 可奈思伊毛乎 伊都知由可米等 夜麻須氣乃 曽我比尓宿思久 伊麻之久夜思母(3577番歌)

 この二首の「背向尓宿之久」「曽我比尓宿思久」は、どちらも「そがひにねしく」と読み、同句であり、3577番歌の方は仮名書きであるので、1412番歌の「背向」に相当する所に「曽我比」とあることによって、「背向」は「そがひ」と訓むことが明瞭に認められる。

 「背向(そがひ)」は「うしろの方。背後。また、うしろむきであること」の意であるが、『日本国語大辞典』の補注は次のように記している。  

 (1)ソはセ(背)の母音交替形。「万葉集」には「背」「背向」などとも表記され、ソムカヒの縮約とみられる。多くの場合、「に」を伴って「見る」「寝る」といった動詞を修飾する。  
 (2)「前後」または「向かったり背にしたりする」意の漢語「背向」の翻訳語とみる説もある(河童老「万葉集を訓む」HPから)。

 方言「ウラ」を「後ろ」の意とする地域

 山形・茨城・山梨・栃木・群馬・埼玉・三河弁(愛知県東部)・丹波(兵庫県東部)・丹後 

 埼玉方言(裏と背)

 うらが痒いから掻いて(背中を掻いて)

 出雲弁(裏と向)

 「うらむかい」「おらんこ」「おらみこー」
 意味 向かい合った家

 用例 まーず、あすこは、け、おらんこでよ けんくゎしてござー がの。

 用例訳  まあ、あそこ(の家)は、もう、向かい同士でよく 喧嘩しておられる よね。

 採取者 KEN[八雲]/【おらみこー】奥野[平田]/【うらむかい】児玉[横田]

 ウラムカイ ウラムカ オラムカ オラミコー オランコ

 背甲(せごう) 背。背中。手の甲、甲羅

 背甲板背甲辺(セゴッペタ)
 丸太を角材にする時に出る縁板

 「名語記」(鎌倉時代の辞書)建治元年(1275)成立。
 「いやしき物をせことなづく」とある。

 向平と裏向
 
 戸河内の那須地域に下地図のような地名がある。

 向平(ムカイビラ) 那須地域の東端
 裏向(ハブセゴウ) 那須地域の西 

 ムカイビラとハブセゴウは、集落を隔てた東西の、山の斜面の地名であり、対になっている。ハブセゴウは断面図から草刈り場である。

 「裏向」は「セゴウ」と読むが、後ろの意と思われる。「背向」は万葉集では「ソカヒ」と読む。恐羅漢山の「ソカヒ」に共通する地名ではないか。「裏向」は「背向」ではないか。

 ウラオレ谷は浦折谷と表す。裏と浦は同じ意と思われる。


 アイヌ語の「後ろ」

 si-oka-un
 シ・オカ・ウン
 自分・の後・の方へ(萱野茂 アイヌ語辞書)

 si-y-oka
 シヨカ
 自分・挿入音・の後(田村すず子 アイヌ語辞書)

 si-okay-ne
 シ・オカイ・ネ
 自分の後の方(アイヌ語旭川方言)

 知里幸恵アイヌ神謡集にある例。
 sioka un inkaras awa 
 (後ふりかえって見ると)
 taporowa sioka un aynu mosir cikohosari inkaras awa
 (そこで後ふりかえって人間の世界の方を見ると)

 この例から次の言葉が考えられる。
 si-oka-hi
 シ・オカ・ヒ(ソカヒ)
 自分・の後・の所

 アイヌ語では母音は二つ続くと、どちらかが省略される。



 『那須の台ヶ原』

 (「とごうち郷土誌考」から・戸河内町教育委員会・戸河内町郷土歴史研究会)

 「先祖の遺(のこ)した業績を称え昔を偲んで、長い月日に思い出は沢山ある中に、二・三ひろってみると次のようなことがあった。

 その1

 最も印象深いのは終戦当時の食糧不足である。今では「金、金、金さえあれば」の世の中である。がその当時は金より物より食料が一番欲しかった。人間は生きるためには まず食料、食料なくしては1日も生きられないことを身に沁(し)みて味わった。考えてみれば我が集落、那須には終戦当時田が7町6反、因みに延享3年(1746年) 今より約240年前、田が5町3反2畝18歩あったことが「萬手鑑(よろずてかがみ)」(本田屋蔵文書)で明らかである。そのうち、家ナル(人家のまわりの田の俗称) に約2町歩、代ヶ原(だーがはら)に山田が5町歩余りある。それを昔の人が開墾したのであるが、中に「ジョウボー田」と「ハゴ田」というのがある。ジョウボー (リョウブとも云い、濶葉樹の一種でその葉を米などに混ぜて食べる)の葉を食べて開墾したのが「ジョウボー田」、ハゴ(蕎麦の葉を粉にしたもの)を食べて開墾したの が「ハゴ田」という伝承がある。その当時は他に収入の途がなかったことも手伝ったのであろうが、ただ食料の窮之に迫られてこの大開墾がなされたものと想い、誠に尊い ことであり感謝するところである。

 その2

 我が集落は昭和24、5年頃までは戸数40戸ほどあったが、経済成長に伴って米作りをするより、他の金儲けをするのが得なので、次第に米作りを止めて、他産業へ移り つつある矢先、国策として減反を強いられ遂に台ヶ原の山田は1枚も耕作する者もなく自然に荒れて、今では杉・桧を植えて森林地と化した。従って住民は次第に広島市周辺に 流出。今では20戸を割る始末となった。

 その3

 戦前は何にも勝って平和な邑(むら)であった。それは5月頃ともなれば台ヶ原山田に家から駄屋肥(だえごえ)(牛馬に踏ませた堆肥)を主として女が背負って通う。 何れも坂道であり遠い所(1km)で、1日7、8荷(か)、近い所(六百m)で12荷くらい、行き交う度に大話。やがて6月にかかると田植が始まり台ヶ原の彼方此方で 田植唄が聞こえる。山々で蝉が鳴き、早乙女は手間替えで7、8人が1枚の田を植える。男は牛を使って「代かき」をする者、苗持ちをする者、何処へ行っても唄声や話声 がする。時にはお婆ちゃん連中が変装して尻からげに鉢巻、頬かむり、若い早乙女さんが笑いこけて植田の中を這うようなことも珍しくなかった。あの頃のことを思えば 懐かしい。もう一度あんな時節が欲しい。それにしても昔の人は粘り強く頑張り屋であったことを思う時、今昔の感一入(ひとおし)である」(中村 亀麗)
 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

カシミール3Dデータ

総沿面距離28.4km
標高差1032m

区間沿面距離
戸河内駅跡
↓ 8.6km
内黒峠
↓ 3.0km
藤本新道分岐
↓ 3.1km
藤十郎
↓ 5.0km
那須古道入口
↓ 8.7km
戸河内駅跡
 

「那須の木地師」
那須周辺の略地図
(『とごうち郷土誌考』戸河内町教育委員会・戸河内町郷土歴史研究会)

横川峠への旧道の破線道
木地師石田富次碑の旧道の位置(流田古道)
「横川峠から見下ろした台ヶ原」(『とごうち郷土誌考』戸河内町教育委員会・戸河内町郷土歴史研究会)

台ヶ原代ヶ原(ダーガハラ) 山田の段々畑が見える
 
『芸藩通志』戸河内村絵図(1825年)

流田から那須への破線道が見える。
 
明治32年測図昭和7年修正測図 大日本帝国陸地測量部 「三段峡」の部分

古道は本郷から那須横川分岐まで実線
分岐から横川峠まで破線
横川峠から本横川まで実線
分岐から那須まで破線
1974年の那須
横川峠から見たダーガハラ

1974年空中写真+カシミール3D
 
那須集落の地名

ハブセゴウ(裏向) 向平 表平

那須における地名群と土地利用
(『西中国山地における山村の土地利用と環境認識』古田充宏)

那須集落 断面図

ハブセゴウ(裏向) 向平

那須集落 断面図
 
 
藤十郎と彦八の頭 横川峠から
市間山と立岩山
恐羅漢山
恐羅漢山と砥石郷山
三ツ滝北の小谷の木橋
三ツ滝と中の釜
三ツ滝下の釜
那須集落
三ツ滝ルート
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)