6:55 戸河内駅跡 気温6度 晴れ
7:05 明神橋
7:30 流田橋
7:50 那須古道入口
10:15 那須集落
10:30 ウラオレ橋
10:45 岩止堰堤
11:40 内黒峠
12:00 作業道終点
12:45 札場(遭難碑)
13:35 横川古道入口
13:40 那須・横川分岐(石の道標)
14:00 おっぱい山分岐
14:25 横川古道入口
14:35 戸河内駅跡
戸河内駅跡から191号線を横切り商店街に入る。常慶寺の梵鐘が7時を告げる。明神橋を渡り明神社の横を通り県道吉和戸河内線に入る。民家の間に横川古道への入口があるが標識は無い。太田川上流の山腹にガスがたなびく。
太田川左岸の車道を進む。魚供養塔がある。右岸に民家が見える。吉和郷の花壇がある。Uカーブを回ると左岸に取水口がある。須床橋右岸に民家が集まる。鱒溜ダム下流警報装置がある。法面のナンテンが赤い実をたくさん付けていた。
須床橋手前に流量観測第一見通杭の標柱が立ち、対岸の堤防に計測表示の目盛が設置されている。右岸の民家の裏山に竹が帯のように生えている。ヤマコウバシが茶色の葉を残す。太田川の奥の牛首の尾根に日が照る。
吉和郷の横畠工芸の前を通る。二百年の伝承、中国山地木の伝統文化、安芸の木杓子と看板に書かれている。すぐ先に小堰堤があり魚道が付いている。ナンテンが実を付ける。流田橋に進む。対岸に民家は無いが小屋が見え、電柱が立っている。フユイチゴが実を付け、シマカンギクが咲く。
左岸の川床に大きい岩盤が表れている。流田に入ると道路沿いに電気柵が通っている。流田の真ん中を通る谷の右岸にたくさんのみかんが生っていた。株立ちした大きいケヤキがある。チャノキの花が咲いていた。
太田川右岸に祠が見え、その右に小屋があった。ヒヨドリジョウゴが実を付ける。アショウ谷の奥に堰堤が見える。アショウ谷右岸に石垣がある。スギの木の下に那須古道流田口と書かれた小さい道標が立っている。14年前にここを通った時は猛烈な薮だったが、11月に恐羅漢トレイルのコースになり、綺麗に整備された。
ヒヨドリジョウゴ |
|
タンキリマメ |
|
丸太を渡す |
|
崩落地点 |
|
炭焼跡 |
|
スギ林の中の古道を登る。木の階段が続く。山道の折り返し点に堰堤がある。山腹へ横道が入っている。崩れた所は丸太で補強してある。眼下に古道の入口が見える。古道は高い石垣の上を通る。フユイチゴ、ヒヨドリジョウゴが実を付ける。
所々、古い石垣の上を通る。植林地の中に大きいケヤキがある。山側にも石垣がある。石垣が崩落し、注意の標識がある。長い石垣がありそこから折り返す。炭焼跡で折り返し、古道は大古屋走り根の南側を通る。石垣が続く。
尾根の南側の植林地の古道を進む。太田川左岸の尾根に送電線鉄塔が見える。路肩注意の標識。市間山の峯が見える。641ピークの南付近の古道は、以前猛烈なササ薮だったが、綺麗に刈られていた。641Pの尾根を北へ上がると上本郷へ出る古道が通る。
ヒサカキにツボミが出ている。ジョウダンの右谷、左谷の水源に丸太橋が架かる。恐羅漢トレイルで設置されたものだろう。道を塞ぐ倒木を伐採した跡が続く。藤十郎の頭が見える。大きいアカマツの倒木が道を塞ぐ。太田川の奥に女鹿平山が見える。
那須集落に近づくに連れ石垣が続くようになる。石垣が崩れた所は通行注意の標識。藤十郎の峯が近く見える。クリの空のイガがたくさん落ちていた。見上げるとクマ棚だった。周辺にイガの付いた枝が散乱していた。
林の間から集落が見えてくる。クマ糞があった。藤十郎と彦八の頭の下に日が入る那須集落が見える。那須小学校跡の裏手を通り鉄橋に出る。アオキにまだ青い実が付いている。鉄橋を渡ると那須古道那須口の道標がある。ウラオレ谷の隠れ滝の看板がある。
那須川右岸の車道を進む。実を付けたシシウドが川原に生える。石垣にフユイチゴの実。ウラオレ橋に隠れ滝の看板があり、高低差128mの4段滝とある。アマゴ禁漁区の標識がある。那須川右岸の林道を進む。ナカノ橋の上流側の手摺が無くなっている。
次の津波橋は渡らず、那須川右岸の道を進む。右岸に水田跡の石垣が続く。砂防堰堤に井出ヶ谷川支川の標識がある。堰堤の回りに植林地の幹が林立する。山道を進む。サルトリイバラの赤い実、スギ林下にダンコウバイの落ち葉。
砂防堰堤の上部にも水田跡の石垣が続く。石垣を回り道の上部にも石垣が続いていた。石垣が無くなるとゴーロのスギ林になる。日当たりにムラサキシキブが実が光っていた。イタホシ谷の木橋を渡る。急坂にロープが渡してある。
ヒノキ林を登る。ツルアリドウシが群生していた。「打梨幹横川支線110」のプレートが落ちていた。車道に上がる手前で西側に新しい分岐道が出来ていた。恐羅漢トレイルで作られたものだろう。新道を進むとススキ原を抜け、内黒峠の標識の所に出た。
加藤武三碑に寄り、内黒山登山道の右側の作業道に入る。作業道の日当たりにある伐採された木株で一休み。道にキノコが生える。林の間から市間山、立岩山が見える。作業道終点からササ薮を進み南尾根を下る。ブナの枝が散乱している。
30分ほどで戸河内防災無線中継所に出る。展望地に出ると市間山から十方山への視界が開ける。彦八の頭も見える。アンテナの横を通り、車道へ出ると遭難碑と作業道の入口。昭和38年、雪の峠道で三名が遭難した。遭難碑の横に内黒山事業区の標識がある。
アンテナ塔を過ぎて下って行く。アキノキリンソウが咲く。チェーン販売中の軽トラが置いてある。山下を見ると作業道に間伐材が置いてあった。車道に下りてきたセキレイがこちらと距離を保ちながら下って行く。リョウブに実が下がる。彦八の頭の南面の中腹が伐採されたのか、ススキ原のように見える。
那須集落の上の尾根に進むとトリゴエ谷の頭(桧尾山)が目立つ。サルトリイバラの実。南へ入る作業道は薮になっていた。開けた広地に出る。北に大平山が大きく見える。パワーショベルがオオカメ谷水源の広地の山側で整地していた。
カラスウリの実が下がる。タキガ谷へ折れる地点まで進むと山の間に正教山が見えた。急坂を小型ダンプが数台登って行く。広地までピストンしているようだ。日当たりにコウゾリナが咲く。内黒山事業区の標識。右岸に渡る橋に野為川(ノダメ)の表示。
柴木林道分岐の下流に古い橋が残っている。そこからすぐ先が横川古道の入口、中電の標柱がある。入口からすぐ分岐するが、左の道路側に入る。山道が落石防止ネットの内側を通る。10分ほどで那須・横川分岐に出る。
古い石の道標があり、「右 横川 左 那須 道 戸河内村本郷 吉本厘太郎 明治4年10月」と書かれている。左に行くと那須集落に出る。流田口から入る古道のさらに上を通る旧道である。
植林地の掘り下げ道を進む。ヤブコウジが群生する。分岐から15分ほどで中電無線中継局。日に照らされた紅葉のカエデが残る。フユイチゴの赤い実。おっぱい山分岐を過ぎる。石垣が表れると上本郷の集落裏に出る。分岐から50分ほどで古道入口。古道は民家の間を通っているが、標識は無い。
ナンテン |
|
ミヤマシキミ |
|
ミヤマシキミ |
|
ハイイヌツゲ 虫えい |
|
リョウブ |
|
キカラスウリ |
|
ダンコウバイ |
|
ヤマコウバシ |
|
キヅタ |
|
キヅタ |
|
ヤマゼリ |
|
|
|
|
■地名考
木地師石田富次の碑
那須小学校跡に木地師石田富次の碑がある。「石田富次 当年六十一歳 師者石州那賀郡都地村字尾浜人企於明治三十三年八月那須木地塗業以来進隆盛発達境受弟等此恩有年慈集彰其偉徳 菅尾来筆」とある。菅尾来は、当時打梨小学校那須分校の教師だった。
明治33年、島根県から移住してきた石田富次から木地及び漆塗りの技術を習い、那須で漆器生産が盛んになった。明治41年4月、弟子達が石田師に対する敬慕の念から顕彰碑を建てた(「戸河内郷土誌考」)。
碑は那須から吉和郷へ通じる旧道沿いにあった。その後、現在地の那須小学校跡に移設された。
石田富次の碑 |
|
万葉集の「背向」
「背向」を「そがひ」と訓むことは、次の類歌二首較べることによって確かめられる。以下二首の原文。
吾背子乎 何處行目跡 辟竹之 背向尓宿之久
今思悔裳(1412番歌)
可奈思伊毛乎 伊都知由可米等 夜麻須氣乃
曽我比尓宿思久 伊麻之久夜思母(3577番歌)
この二首の「背向尓宿之久」「曽我比尓宿思久」は、どちらも「そがひにねしく」と読み、同句であり、3577番歌の方は仮名書きであるので、1412番歌の「背向」に相当する所に「曽我比」とあることによって、「背向」は「そがひ」と訓むことが明瞭に認められる。
「背向(そがひ)」は「うしろの方。背後。また、うしろむきであること」の意であるが、『日本国語大辞典』の補注は次のように記している。
(1)ソはセ(背)の母音交替形。「万葉集」には「背」「背向」などとも表記され、ソムカヒの縮約とみられる。多くの場合、「に」を伴って「見る」「寝る」といった動詞を修飾する。
(2)「前後」または「向かったり背にしたりする」意の漢語「背向」の翻訳語とみる説もある(河童老「万葉集を訓む」HPから)。
方言「ウラ」を「後ろ」の意とする地域
山形・茨城・山梨・栃木・群馬・埼玉・三河弁(愛知県東部)・丹波(兵庫県東部)・丹後
埼玉方言(裏と背)
うらが痒いから掻いて(背中を掻いて)
出雲弁(裏と向)
「うらむかい」「おらんこ」「おらみこー」
意味 向かい合った家
用例 まーず、あすこは、け、おらんこでよ けんくゎしてござー がの。
用例訳 まあ、あそこ(の家)は、もう、向かい同士でよく 喧嘩しておられる よね。
採取者 KEN[八雲]/【おらみこー】奥野[平田]/【うらむかい】児玉[横田]
ウラムカイ ウラムカ オラムカ オラミコー オランコ
背甲(せごう) 背。背中。手の甲、甲羅
背甲板背甲辺(セゴッペタ)
丸太を角材にする時に出る縁板
「名語記」(鎌倉時代の辞書)建治元年(1275)成立。
「いやしき物をせことなづく」とある。
向平と裏向
戸河内の那須地域に下地図のような地名がある。
向平(ムカイビラ) 那須地域の東端
裏向(ハブセゴウ) 那須地域の西
ムカイビラとハブセゴウは、集落を隔てた東西の、山の斜面の地名であり、対になっている。ハブセゴウは断面図から草刈り場である。
「裏向」は「セゴウ」と読むが、後ろの意と思われる。「背向」は万葉集では「ソカヒ」と読む。恐羅漢山の「ソカヒ」に共通する地名ではないか。「裏向」は「背向」ではないか。
ウラオレ谷は浦折谷と表す。裏と浦は同じ意と思われる。
恐羅漢山は「ソカヒ山」とも呼ぶ。
『日本地名箋』(1874年)、安藝、山縣の項に「背向山」があり、「ソガヒ」と仮名書きしてある。
『日本地名箋』 |
|
ソカヒ=背向であれば、「後ろ」の意である。
旧羅漢山と恐羅漢山が並ぶ
出雲弁
オッソ 後ろ(出雲・大田)
(用例 おっそから ぼいちゃげてくー)
(用例訳 後ろから 追いかけてくる)
ソカヒ+羅漢
後ろ+羅漢
オソ+羅漢
恐羅漢山は「後ろの羅漢山」の意。
オダラギ=ジャノクラキビレ付近の呼び名
オダラギ 伊方地方の方言に「タラノキ」の意
広島 タラオダラ=ハリギリ
和歌山・宮崎 オダラ=ハリギリ
三重・岡山 アオダラ=ハリギリ
静岡・三重 オダラ=タラノキ
山口・鹿児島 ダラギ=タラノキ
沖縄 ダラギ=ハリギリ
アイヌ語の「後ろ」
si-oka-un
シ・オカ・ウン
自分・の後・の方へ(萱野茂 アイヌ語辞書)
si-y-oka
シヨカ
自分・挿入音・の後(田村すず子 アイヌ語辞書)
si-okay-ne
シ・オカイ・ネ
自分の後の方(アイヌ語旭川方言)
知里幸恵アイヌ神謡集にある例。
sioka un inkaras awa
(後ふりかえって見ると)
taporowa sioka un aynu mosir cikohosari inkaras awa
(そこで後ふりかえって人間の世界の方を見ると)
この例から次の言葉が考えられる。
si-oka-hi
シ・オカ・ヒ(ソカヒ)
自分・の後・の所
アイヌ語では母音は二つ続くと、どちらかが省略される。
カシミール3Dデータ
総沿面距離23.6km
標高差771m
区間沿面距離
戸河内駅跡
↓ 3.6km
那須古道入口
↓ 7.2km
那須集落
↓ 3.4km
内黒峠
↓ 5.6km
横川古道
↓ 3.8km
戸河内駅跡
|