山歩き

立岩ダム…坂根…藤十郎…十方山
2020/4/5

立岩ダム…押ヶ垰…坂根集落…藤十郎…中三ツ倉…奥三ツ倉…コノタギシ…大谷川…立岩ダム

■十方山(ジッポウザン)1319m:広島県佐伯郡吉和村吉和西(点の記) (廿日市市)

立岩ダム
押ヶ垰集落
押ヶ垰の河内神社
打梨付近の太田川
打梨小学校跡の手前から打梨林道に入る
打梨小学校跡を見下ろす
墓所の基礎
坂根谷
林道終点から薮に入る
スギ林下の石垣
ヒノキ林を登る
イノシシの糞
瘤のツガ
ツガの大木
大岩の間を通る
藤十郎のミズナラ
中三ツ倉
戸河内の里を望む
奥三ツ倉
十方山を望む
掘割
十方山
女鹿平山
積石
恐羅漢山
コノタギシ分岐
キリイシのタキ
アカマツ林
市間山と立岩貯水池
大谷川
女鹿平山
6:55 立岩ダム 気温4度 晴れ
 

7:40 坂根
8:00 打梨林道終点
10:25 1067P
11:15 藤十郎
11:40 中三ツ倉
11:50 奥三ツ倉
12:10 十方山
12:45 コノタのギシ分岐
13:00 1085P
14:45 712P
15:15 大谷川
15:35 立岩ダム

 立岩ダム駐車場を出発。押ヶ垰集落の上の山に日が射している。キブシに黄色の花が垂れ下がる。スギ林下のミヤマカタバミは、早朝で気温が低いためか皆ツボミ。フキノトウが伸び始めている。

 車道を下って行くとハイイヌガヤに雄花が出ていた。眼下の林に間に押ヶ垰の河内神社が見える。日当たりの石垣にミヤマキケマンが咲く。菜の花が咲く押ヶ垰集落を通る。集落のクリの木にクマ棚があった。日が射す上流に立岩ダムの建物が見える。赤い花のヤブツバキが点々とある。

 ウリカエデに黄色のツボミが出ていた。ミツバツツジがあちこちに咲いている。眼下の打梨の谷に岩礁が見える。アセビに花が咲く。打梨橋を過ぎて打梨小学校跡手前から坂根谷に入る車道を進む。スギ林を抜けると、眼下に打梨小学校跡が見える。

キブシ
コバノミツバツツジ
ウリカエデ

 廃屋の向かい側に新しい墓所の基礎がつくられて、手前に石碑が立てられていた。橋を渡り坂根谷左岸を進む。林道打梨線の標識がある。キケマンが咲く。最奥の民家の所で打梨林道終点、そこから薮を進み、東側のスギ林に入る。スギ林下に石垣が残っている。

 石垣の上のスギ林を進み尾根に取り付く。スギ林からヒノキ林を登る。ツリンボウノ谷右岸のヒノキ林の尾根と合流。ミヤマシキミにたくさんの小さい花が咲く。700mを過ぎたところで広葉樹に変わる。イノシシの糞が塊ってあった。幹の回りが瘤になったツガがあった。

 林間から市間山が見える。尾根を岩が塞ぐ。岩が点々と続く。エゾユズリハが多い。960m付近の尾根端に大きいツガがあった。ブナ林、スギ林を通る。立岩山が見える。1067ピークを過ぎた所に巨石があった。尾根上に巨石が点在する。

ミヤマカタバミ
ミヤマキケマン
ヤブツバキ
藤十郎の雪

 スギ林を進む。巨石の間を通る。藤十郎の尾根に出ると昨晩の雪が残っていた。ササを分けて立岩ダムから4時間余りで藤十郎のミズナラ。少し休んで登山道を進む。20分ほどで中三ツ倉。奥三ツ倉への登りに入ると戸河内の里が見える。10分ほどで奥三ツ倉。女鹿平山、冠山が見える。

 奥三ツ倉から下って行くと、十方山の道標が見えてくる。掘割を渡り、木の梯子を登る。スギの根本に雪が残っていた。奥三ツ倉から20分ほどで十方山。向かいの立岩山、女鹿平山と冠山を見渡す。登山道を南へ進む。アセビにツボミが出ている。

 登山道の途中にある積石に上がって見ると、恐羅漢山、焼杉山、広見山、半四郎山、五里山の峯、黒ダキ山が見える。そこから少し進むと遭難碑がある。昭和59年遭難の碑は60年に立てられたが、35年が経過し、裏側の碑文は読みづらくなっている。

昭和59遭難の碑
ミヤマシキミ
ツガの実
ミズナラのクマ棚

 立岩山を見ながら登山道を進む。林の上に冠山が見える。山頂から30分ほどでコノタのギシ分岐、ここで登山道と分かれ東の尾根に入る。ササ尾根を少し進んだ所で、曲がった幹に腰掛けて休憩。1085ピークを通過。キリイシのタキの岩壁が見える。

 990m付近のピークは灌木の薮が長く続く。白い花のタムシバが咲く。900m付近から少し進んだところのミズナラにクマ棚があった。尾根に枝が散乱していた。尾根では珍しくアセビの花が咲いていた。

 800m付近は痩せ尾根になり、両側が崖になっている。そこは急坂になり、林で前方が見えないが、北側に下るルートがある。急坂を下るとアカマツが多くなる。712ピークから北へ下る。スギ林と広葉樹の境界になっている。広葉樹林を東へ下って行くと、630m付近からスギ林の急坂になる。

 車道手前まで下りると林の向こうに立岩貯水池と市間山が見える。スギ林下にミヤマカタバミが咲く。十方山から3時間ほどで大谷川右岸の車道へ出る。石垣にレンギョウが咲く。大谷川右岸に下りて顔を洗った。川土手にキブシが咲く。静かな貯水池の向こうに女鹿平山が見える。

タムシバ
十方山のアセビ
900m付近のアセビ
ハイイヌガヤ
フキ
ヤブヘビイチゴ
ニシキゴロモ
レンギョウ
エゾユズリハ
ダンコウバイ

 

地名考

 十方山山名の変遷


 『匹見八幡宮祭神帳』(1651年)の十方山

 広見川の奥に十方山がある。

 『石見八重葎』(1816年)の十方山

 『石見八重葎』東本郷(疋見)の項に以下の山名がある。
 三葛山 太神ヶ嶽 阿増地山 広見山 十方山 春日山 岩倉山 日晩山 平家嶽…

 広見村の項に
 「高山 十方山 魔所と言テ登ル人ナシ 広見山トモ云」とあり、広見川の奥に十方山がある。

 『石州古図』(1820年)の十方山

 『石州古図』に広見山があり、その奥の石見側に十方山と春日山が並んであり、続いてツゴウ山が見える。

 『芸備国郡志』(1663年)の十方山

 『芸備国郡志』は十方山について、「其山突兀…見北海往来之船舶」とある。「突兀」は「山や岩などの険しくそびえているさま」の意で、旧羅漢山は、西面は巨石群で、その頂きが岩峯になっている。山頂からは日本海が見える。『芸備国郡志』の十方山は旧羅漢山そのものである。

 著者の黒川道祐は広島藩医でもあり、安芸国の地誌に詳しかったと思われる。

 『日本書紀通証』(1762年)の十方山

 『日本書紀通証』には十方山を、「石窟」「多竒石」「恠巌」とあり、「岩穴」「多くの普通でない岩」「不思議な巌窟」などと形容しており、旧羅漢山の山頂直下の巨石帯と石窟を表現していると思われる。

 『石見八重葎』の「魔所」、『芸備国郡志』の「其山突兀」、『日本書紀通証』の「石窟」「多竒石」「恠巌」、『石州古図』の十方山の位置から、十方山は石見側では旧羅漢山を指していたと思われる。


 『西中国山地』の十方山

 1715年の『戸河内森原家手鑑帳』にも十方山は見られ、横川より登られていたようだ。隣村境覚書の項を見ると、今日の地図上の位置に十方山の山名が付けられていたことがわかる。

 佐伯郡吉和村側の資料としては、『吉和村御建野山腰林帖』(1725年・享保10年)が重要で、十方山、西十方山の山名が見られる。ついで『佐伯郡廿ヶ村郷邑記』(1806年・文化3年)が刊行されている。この頃より吉和村では、十方山の裏(西)に更に大きな山のあることが知られており、東十方(十方山)と西十方(現在の旧羅漢山)を区別していた。
 
 また『佐伯郡廿ヶ村・郷邑記』には『芸備国郡志』の十方山に関する記述の、「西十方、東十方と二峯あるにもかかわらず一つの峯として記されている」ことが誤りであることを指摘している(『西中国山地』)。


 『芸藩通志』(1825年)のおそらかん山の位置

 『芸藩通志』戸河内村絵図に十方山とヲソラカン山が並んであり、その間を横川川が通っており、古ヤシキ、ヨコ川の地名が見える。旧羅漢山をヲソラカン山と呼んでいたと思われる。


 『芸藩通志』(1825年)のそかひ山

 『芸藩通志』(山縣郡23、58、59)山林の項の十方山に「一に西十方をおそらかん山とよぶ、日本興地図に、石見界に高山そかひ山としるすは、おそらかんのことなるべし」とある。

 このことからソカヒ山も旧羅漢山であることがわかる。
 
 『日本地名箋』(1874年)、安藝、山縣の項に「背向山」があり、「ソガヒ」と仮名書きしてある。


 今の所、石見国の十方山(旧羅漢山)の山名が最も古く、その後、西十方、東十方の二つの山名が見られ、現在の山名に落ち着いたと思われる。

 旧羅漢山が本来の十方山とすれば、「十方」の意味は四方八方見渡すことのできる山の意ではなく、別の意味があったと思われる。

『石州古図』
(石見国絵図) 1818年

道川村・下道川村に広見山・十方山・春日山がある
(島根大HP)

 

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カシミール3Dデータ

総沿面距離13.1km
標高差905m

区間沿面距離

立岩ダム
↓ 6.0km
藤十郎
↓ 2.3km
十方山
↓ 1.4km
コノタのギシ分岐
↓ 3.4km
立岩ダム
 

 
 
 
 
冠山
恐羅漢山
焼杉山から五里山の峯
立岩山
 
五万分一地形図 三段峡(明治32年測図昭和7年修正の十方山周辺)
  
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)