6:25 二軒小屋 晴れ 気温10度
6:40 死人谷
9:40 登山道
9:50 旧羅漢山
10:25 恐羅漢山
11:10 夏焼峠
11:15 砥石郷山登山口
11:35 1166P
11:55 砥石川山
13:10 田代
14:00 横川出合
14:30 本横川
15:05 二軒小屋
気温10度、ウツギ、ノイバラの花が朝露で濡れている。林道のコアジサイが朝日に照らされ、ナガバモミジイチゴが黄金に輝く。15分ほどで死人谷。右岸のスギ林の石垣の上に入る。ヤグルマソウの伸びた茎から白い花が咲き、ヤマアジサイが咲く。
昨日、一昨日の雨で水量が多い。最初の小滝を越える。二つ目の小滝の右岸を進む。三つ目は左岸を進む。エゴノキの花がたくさん落ちている。谷の分岐の上に大きいトチノキがある。左側の水量の少ない谷を登る。上に出ると左岸に境界柱がある。
そこから水源の谷になる。ワサビの葉がたくさん出ているので、ワサビ田跡だったようだ。ハスノハイチゴが実を付けていた。水源にワサビの葉が続く。エンレイソウが実を付ける。水源の終点で一休みした所、薮蚊がまとわりついてきた。
コアジサイ |
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ナガバモミジイチゴ |
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広葉樹のササ薮を登る。スギ林のササ薮に変わる。大きいブナの先に株立ちした大スギがあった。水源の湿地にバイケイソウが生える。スギ林のゴーロを通る。枝薮になったところで西へ進む。途中、一本立ちの大スギがあった。
登山道に出る。ドウダンツツジの花がたくさん落ちている。見上げるとサラサドウダンが咲いていた。開地に出て振り返ると、くっきりした空に十方山が見える。サワフタギが咲き、オオカメノキが実を付ける。10分ほどで旧羅漢山、気温20度。裏の展望地に出ると、コバエの群れが襲ってきた。早々に引き返す。
鞍部へ下る。サワフタギが多い。平太小屋原へ下り、十方山への展望地へ進む。今日は雨後のためか、霞が無く見通しが良い。こちらもサラサドウダンが多い。旧羅漢山から30分ほどで恐羅漢山、気温21度。北へ下る。ハウチワカエデに赤い翼が付く。苅尾山、深入山、弥畝山の風車群が見える。エンレイソウ、ヤブデマリの花。
サラサドウダン |
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ヤグルマソウ |
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グループの長い登り列が続く。大きいトチノキの上の方に花が見える。ナナカマドが実を付ける。エゴノキの花が落ちていると思って見上げると、葉が大きいハクウンボクだった。トチバニンジンが花芽をを付ける。恐羅漢山から40分ほどで夏焼峠。登山道を下り、砥石郷山の登山口へ進む。
カラマツ林を登り、20分ほどで1166ピーク。アカモノが咲いていた。澄み切った空に恐羅漢山が見え、その右に広見山、中ノ川山が見える。南側に彦八の頭が見える。ピークにヤマボウシが咲いていた。平坦な尾根道を進む。魔の池にモリアオガエルの卵が見えなかった。ピークから30分ほどで砥石川山。
岩上の陰で一休み。見上げるとアオダモが実を付けていた。展望地に出るが、木々が伸びて展望は良くない。サバノ頭が見える。レンゲツツジが咲き、リョウブの花芽が伸び始めている。急坂が続き、ロープが張ってある。大岩の上に出ると、深入山、向山、サバノ頭が見える。長い急坂が続くヒノキ林を下る。
ハスノハイチゴ |
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ハウチワカエデ |
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大分下った所で、田代橋に向かって掘下げた跡があった。ジグザグに下り、石垣の横を通り田代橋に出る。田代川沿いにオオバアサガラ、エゴノキが咲く。キブシの実がたくさん下がる。ハンショウヅルの花があった。楓橋のアオダモに翼果が出ている。道路沿いにクサアジサイが咲き始め、ウリノキはツボミ。
田代川の川底に巨石が並んでいる。田代から40分ほどで横川出合。田代川に架かる橋の工事をしていた。入口は通行止めになっている。30分ほどで本横川、気温26度。魚切滝を見て二軒小屋に帰着。
アカモノ |
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ハクウンボク |
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エゴノキ |
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オオバアサガラ |
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ヤブデマリ |
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アカシデ |
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クマシデ |
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コミネカエデ |
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アオダモ |
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ナナカマド |
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トチバニンジン |
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ヤマボウシ |
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レンゲツツジ |
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キブシ |
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ハンショウヅル |
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サワギク |
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■地名考
恐羅漢山という山名
「恐羅漢山という山名は、広島県戸河内町の呼称である。『戸河内森原家手鑑帳』(1715年)の他村境覚書きにおそらかん山≠ニあるのが初見と思われる」(「西中国山地」桑原良敏)。
『戸河内森原家手鑑帳』には「おそらかん辻」とも書かれている(「西中国山地」)。
その後の古文書では、「おそらかん山」(1738年・『申定鈩山約之事』)、「オソラカン」(1819年『国郡志御用に付き下志らべ書出帳・戸河内村』)、「ヲソラカン」(『芸藩通志』戸河内村絵図)とあり、恐羅漢はいずれも仮名で書かれていた。
「おそらかん」に漢字が当てられたのは、今のところ、『山県地誌略』(1880年=明治13年・三宅彰編)の「尾曾良寒」が最初である。
「山県地誌略」によれば、十方山の西に「尾曾良寒」があり、北に那須の山々、東に立岩山、北に大箒山などを示しており、「尾曾良寒」は恐羅漢山であることが分かる。
「十方山ハ西南隅ニ聳ユル高山ニシテ其派延テ三方ニ分ル。西ニ赴ク者ハ尾曾良寒、赤川ノ二山ナリ。北ニ赴ク者ハ浦折、栂尾、津浪谷、代原、内黒、外黒、西平、東原、畳ケ鳴ノ連山ナリ。東ニ奔ル者ハ押ケ峠、立岩、奥ノ原、鷹巣及猪股、正木、天井ノ諸山ニシテ佐伯ノ境ヲ限レリ。深入、大箒、黒瀧ノ三山ハ北方ニ在リテ奥山ノ疆域ニ綿亘ス」(『山県地誌略』)。
その後、恐羅漢山の三角点が選点され(1895年=明治18年)、点名は「羅漢」となっている。陸軍局測量部の地形図(1888年)の大亀谷山が恐羅漢山に改められたのは1895年以降であると考えられる。
恐羅漢は最初、「おそらかん」と仮名で表されていたが、明治になって「尾曾良寒」の漢字を当て、その後、恐羅漢と表すようになった。
万葉集の「曽良」
万葉集(4116)に「故敷流曽良」(恋ふるそら・こふるそら)があり、「恋しがる気」の意で、「曽良」は「空」のことである。
空・虚の意味に、『多く「そらもない」の形で)心の状態。心持ち。心地。また、心の余裕。「生きた空もない」』とある。
「尾曾良寒」は「尾空寒」と表すと、「尾根の上の寒山」の意となる。「身空」は「身の上」、「領空」は「領土、領海の上空」で、「尾空」は尾根の上=頂上の意である。
タタラ製鉄と「空山」
「空山」地名の周辺にはタタラ製鉄がある。
空山(弥畝山東)
「この山塊の最高峯は、金城町側のトマリゴヤ谷と、匹見町側ヤゲンジ谷の水源にあたる1036.0m三角点の西南にある1060m峯である。
この山の呼称については、ウツオ谷入口に住んでいるI氏は十文字山と呼んでいたが、周布川の谷からは、この山を直接見ることができないので知らない人が多く、金城側ではこの山名は広範囲に使われている呼称ではないようだ。匹見芋原付近からは、この山の全貌を眺めることができる。この山が、この山塊の最高峯であることもよく知られており、現在も芋原に住んでいるM老人より空山と教えてもらった。
ソラは<上、高い所、岡、頂上>の方言なので空山は最も高い山という意味に解してよかろう。加計町史編纂委員会が作った『隅屋文書目録』(昭和38年)を見ていると『石州波佐山、空山鉄山紛攪一件』(1779年・安永八年)というのがあり、空山とあるのはこの山のことであろうか」(『西中国山地』)。
空山周辺のタタラ跡、鉄穴跡
矢玄地鈩跡、仏谷鈩跡、鍋滝V鈩跡、泊小屋鉄穴、跡鍋滝T鈩跡
雲月山(ウツツキヤマ)
「暦応三年(1340年)四月石州の凶徒退治のため代官景成八月初旬、奥原において功あり。同月宇津々木多和合戦に功あり之に依り河上の城主河上孫二郎入道の子五郎左衛門降参す」(『陰徳太平記』『西中国山地』)。
雲月山の初見は『陰徳太平記』(1712年・正徳2年)に「宇津々木多和」、『芸藩通志』では「右津々木多和(ウツツキタワ)」と表し、「ウツツキ」と読む。
空木岳はウツギダケで、雲月山は「空月山」と表すこともできる。
雲月山周辺のタタラ跡、鉄穴跡
雲月鉄穴跡、小松木鉄穴跡、雨山古たたら跡、雲月鈩跡
空山三角点(猪山)
鍛冶屋原かじや跡(空山の北)鉄滓散布、空山窯跡
空山たたら跡(北広島町)
作業場平坦面、中央に円形土盛、鉄滓
タタラ山としてのオソラカン
「中之甲の集落は現在、無人である。昭和二十年代までは、帝国製鉄の炭焼労務者の居住地で、小学校の分教場まであったが田畑の無い所を見ると定住地ではなく、出現したり消滅したりの歴史を繰り返していたようだ。
中之甲という地名の初見は、加計の鉄山経営者の佐々木家へ戸河内横川の住人、六右衛門らから出された『申定鈩約束之事・元文三年(1738年)四月四日』という『加計万乗』に集録してある文書である。この中の
『横川惣山之内、餅木、田代、中之甲、台所原、牛木屋、おそらかん、水越まで…』という箇所である。中之甲にはその後、寛保二年(1742年)より寛延三年(1750年)までの八年間、鈩が置かれていた。
向井義郎氏の鈩分布図によると、その場所はキツネ原とアマスギ谷の落ち口の五十本原のようである。筆者も中川と赤川との出合原に住み長い間帝国製鉄の森林監理人であった樽床の後藤氏よりこの場所であったことを確認した(「西中国山地」桑原良敏)。
『加計万乗』(1738年)に「横川惣山之内、餅木、田代、中之甲、台所原、牛木屋、おそらかん、水越まで…」とあるように、「おそらかん山」でなく、「おそらかん」と記されている。餅ノ木、田代、中之甲、牛木屋はいずれも鈩が置かれていた所である。オソラカンの山名の初見(1715年)と鈩操業の時期が重なる。「おそらかん」はタタラ山であったと思われる。
おそらかん周辺の鈩場
横川川 横川鑪跡、古屋敷鑪跡、二軒小屋鑪跡
牛小屋谷落口と田代川 田代山鑪跡
中ノ川川 中ノ甲山1号鑪跡、2号鑪跡、3号鑪跡、4号鑪跡、5号鑪跡
亀井谷 岩ヶ原鈩跡
広見川ハゲノ谷 禿ノ谷鈩跡
『たたら製鉄では、木炭を大量に使うので、たたら経営には広大な山林を必要とする。1回の操業に必要な木炭の量は約12トン、これを生産する森林面積は約1ヘクタールが必要とされた。
たたら炭に適した木の樹齢は30年以上とされ、一ヶ所でのたたら操業を継続するには約1800ヘクタールの森林面積を確保する必要があった。しかも木炭は輸送にかさばるので、その制約から、たたらの立地条件は「粉鉄七里に、炭三里」といわれ、砂鉄の採取範囲を七里(約21Km)としているのに対して、製炭範囲は三里(約12km)以内に限定したため、広大な山林を必要とした』(『和鋼博物館』HP)。
ハゲノ谷はタタラ製鉄の結果としての山の状態を現わしていると思われる。
カシミール3Dデータ
総沿面距離16.2km
標高差761m
区間沿面距離
二軒小屋
↓ 3.6km
旧羅漢山
↓ 4.5km
砥石川山
↓ 1.7km
田代
↓ 6.4km
二軒小屋
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