山歩き

滝山川…高鉢山…鉄の道…瀧山峡大橋
2018/11/11

滝山川駐車地…滝山ダム下…高鉢山…サイの峠…馬道…A峯…大箒林道…瀧山峡大橋…温井ダム…駐車地

■高鉢山(タカハチヤマ)751m:広島県山県郡安芸太田町大字加計字高果(点の記=高果山=タカハチヤマ)
 (所有者 財団法人温井徳行会)

滝山川上流方向
滝山川発電所
つねよし橋(後平橋)
滝山の植林地へ入る階段
大滑ら橋と大平大橋
大平橋
ダム下の看板
駐車場から見た温井ダム
建設碑広場の甌穴巨石
展望広場から見たダム
展望広場から木の階段を上る
小鉄塔に出る
高果林道が上に延びる
尾根から見える温井の里
高鉢山三角点
高果林道から見る西尾根
サイの峠から作業道が山へ入る
尾根を横切る山道
ヒノキ林の馬道
ブナが立つ尾根に出る
B峯西の馬道
展望地から温井ダムを望む
A峯ノブナ
B峯を望む
A峯から北方向
ウシロヌクイ谷を見下ろす
大箒林道はここから400mほど奥へ延びる
16番鉄塔
折れた木橋
14番鉄塔
滝山川左岸に延びる鉄塔
14番鉄塔入口
大箒山トンネル北口のサイレン塔
瀧山峡大橋右岸
左岸の紅葉
榎平山トンネル
湖岸車道から瀧山峡大橋
ダムが見えてくる
閉鎖トンネル湖岸側
ダムから下流
ダム湖
右岸から下りる階段
温井ダム
猪落し橋
ゴーロの川原
滝山東の懸崖
墓所の積石
6:40 後平洞門東駐車地 気温6度 晴れ
 

6:45 滝山橋
7:20 大平橋
7:45 建設の碑広場
8:05 上のダム展望所
8:25 小鉄塔
8:40 高果林道 
9:30 高鉢山
9:50 高果林道
10:00 サイの峠
11:40 尾根・956P南
10:45 956P
12:15 馬道分岐
12:25 A峯・一本ブナ
12:50 大箒林道
13:00 16番鉄塔
13:40 14番鉄塔
13:50 林道
14:15 瀧山峡大橋 
15:15 温井ダム
15:45 大平橋
16:25 駐車地


 後平洞門東の駐車地を出発。186号線へ上がる車道は閉鎖されている。五輪山南尾根に鉄塔が並び、霧が掛かっている。滝山川発電所に山から導水管が落ちている。滝山川上流は霧が舞う。車道を進むと両側に墓所がある。

 「滝山川鮎友釣専用区」の看板がある。滝山橋を渡り左岸の車道を進む。トイレに「鬼復雪隠」と書いてある。川底の巨石の上を白く泡立つ流れが見える。山腹を後平橋の鉄橋が貫く。その下に車道が上がっている。

 滝山から下りる尾根の先端のコンクリートの壁の切れ目に階段が入り、植林地へ登る道のようだった。日当たりにヤクシソウの花が残っていた。川床に侵食された平たい岩が続く。ところどころ昇降路があり、川へ下りる階段がある。滝山から植林地の尾根が下りている。

ムラサキシキブ

 前方の山に猪落し橋、高果橋が見える。左岸から右岸へ電線が渡り、右岸の山腹に小さい鉄塔が見える。出発から40分ほどで温井ダム手前の大平橋。高鉢山東面の地籍が大平と言い、この付近の地籍も大平だろう。186号線には大平大橋が架かっている

 大平橋左岸上流はフェンスが張られ入れない。右岸の駐車場奥もフェンスが張られている。左岸の山腹は紅葉に染まっている。大平橋北付近から小尾根を登り、建設の碑の広場に出る。ダムの上流の山々は霧が掛かっている。甌穴の巨石がある広場の後の尾根端から登る。上の展望広場に出るとダム湖と周辺の山々を見渡すことができる。左手には伐採された尾根や瀧山峡大橋が見える。

 展望広場の南端に木の階段が入っていた。階段をジグザグに登り、平坦地で階段は終わる。尾根を登ると頭上に電線が見える。尾根端の小鉄塔まで登る。そこから雑木林の尾根を進む。西側へ山道が通っている。西側に林道が見えるとほどなく高果林道に出た。林道はまだ上へ延びていた。

ソヨゴ

 ヒノキ林の尾根を登る。朽ちたナラノキにキノコが生える。クロモジの黄葉が目立つ。林間から伐採された西尾根や眼下には温井の里が見える。薮尾根から植林地の尾根へ逃げる。ミズナラにサルノコシカケが見られる。山頂手前で再び薮になる。薮の中に三角点があり、ユニコードが取り付けてあった。

 三角点のササを刈って尾根を下る。ウシロヌクイ谷水源や瀧山峡大橋が見える。山頂から15分ほどで高果林道に出る。林道から西尾根を見渡せる。杉ノ泊温井線の車道に出て、サイの峠へ進む。葉が落ちたガマズミに真っ赤な実が残る。道縁にアキノキリンソウが咲く。サイの峠から山へ作業道が入っていた。作業道の水跡には大きい角礫が露出している。道が崩壊し大きな穴が開いていた。

 650m付近で道は消失し、北側に草薮の山道が上がっている。左側の薮道を避けて小尾根を登って行くと、薮道は尾根を横切って、掘り下げた山道となって上へ続いていた。その山道のヒノキ林を登って行く。小谷で道が消失するが、谷を少し登ると左岸の山に道が通っていた。

ヨメナ

 所々薮となって道を見失うが、探しながら登って行く。山道はようやく956ピークとC峯の中間点のブナが立つ所に出た。気温は12度。サイの峠付近から発し、尾根へ上がる掘下げ道は松原と加計を結んでいた鉄の道の一部と思われる。

 葉が落ちた尾根道は見通しが良くなっている。ハウチワカエデやコハウチワカエデの紅葉が残る。馬道はB峯の西を通る。林の先に大箒山が見える。B峯から北側は、尾根の東側が全面伐採地になっている。眼下に温井ダムを見下ろす。遠く靄が掛かって全面紅葉の山々は、ぼんやりした色になっていた。

 瀧山峡大橋をたくさんの車が行き交うのが見える。B峯からA峯の北側のピークまで伐採されている。大箒山東の鞍部へ下りる馬道分岐を過ぎ、ササ尾根を進む。ソヨゴが赤い実を付ける。A峯ピークのササ原にブナが一本立っていた。南側を見ると尾根が波打っていた。眼下にウシロヌクイ谷を見下ろす。

ハウチワカエデ
コハウチワカエデ
アセビ

 伐採尾根の北端に出て、そのまま北へ下る。下に鉄塔が見えてくる。15分ほどで林道に出た。ムラサキシキブに実がたくさん付いていた。林道を東へ進むと鉄塔へ下りる道がある。そこからすぐに16番鉄塔に出た。鉄塔道の木橋が折れていた。次の木橋も傾いていた。15番鉄塔は崩れそうな斜面に立っていた。

 15番から14番鉄塔の間は獣道のような細い道が長く続いていた。途中、目印の標柱が立っているが迷いやすい道である。谷を渡る所に小さい鉄橋が掛けてあったが、崩れた岩で流されそうになっていた。周辺を伐採された14番鉄塔に出た。滝山川を越えて延びる鉄塔が見える。

 潰れたトタン小屋跡を通り、林道に下りる階段に出た。入口の手摺に「火の用心」のプレートが付けてある。林道を進み大箒線の起点に出る。アンテナ塔に入り、サイレン塔手前から尾根を下り、瀧山峡大橋に出た。

イロハモミジ
イロハモミジ
イロハモミジ
スズメバチの巣
イイギリ

 ダム湖周辺は全面紅葉の山だった。今下りてきた鉄塔道の山も紅く染まっていた。湖面は鏡のように静かだった。榎平山トンネル入口から右手の遊歩道に入る。瀧山峡大橋が見える地点に進む。先ほど歩いた伐採尾根が見える。梅の里へ上がる道を過ぎる。日の光にカエデの赤が映える。車道下の法面にスズメバチの巣があった。

 504ピーク東の坂道を登りきるとダムが見えてくる。イイギリに赤い実が鈴生りだった。ダム湖に落ちるトンネルが見える。閉鎖トンネルの出口のようだ。大橋から1時間ほどで温井ダム。ダム下流も一面の紅葉。建設の碑で一休み。15分ほどで大平橋へ下りる。

 右岸の車道を進む。途中、山に入る入口を覗いてみると、上に石垣のある道があった。川にはたくさんの岩が集まり、岩浜のようになっていた。日が射す山腹に岩壁が白く照る。高鉢山の山腹の林道に重機が見える。墓所を覗いてみると四角い周囲を積石で囲んであった。

 

ヤブムラサキ
コシアブラ
ヨウシュヤマゴボウ
ノブドウ
ミヤマシキミ
ミヤマシキミ
ミヤマシキミ
ヤブコウジ
ガマズミ
アキノキリンソウ
サルトリイバラ
ヒヨドリジョウゴ
ヤクシソウ


■地名考

 鉄の道

 加計と戸河内松原を結ぶ鉄を運ぶ馬道があった。戸河内の松原はもっとも古い時期のタタラ操業で、寛文8年(1668)から加計村の佐々木家が操業開始し、松原は佐々木家にとって鉄山業の根拠地となった。チュウダア谷に中代屋、中台屋という鍛冶屋があった。

 「戸河内町の松原から大箒山への登り口となっている谷にチュウダアの谷≠ェある。これは中代屋(チュウダイヤ)という屋号の家があった谷という意であるが、

 チュウダイ→チュウダア

と転訛している」(「西中国山地」桑原良敏)。

 チュウダア谷には「仲代屋」の墓がある。

 松原から加計に抜ける鉄の道は、チュウダアの谷を通り、オオボウキ谷の鞍部に出て、大箒山東の鞍部を通り、尾根を南へ下り、加計へ下っていたが、サイの峠へ下りる馬道も鉄を運ぶ道の一つだったと思われる。

 これらの鉄山関係の諸物資の運送作業を農民たちが駄賃稼ぎとしておこなった。雪深い10月から3月頃を除いて4月から9月が運搬時期だった。

 黐小屋鑪(戸河内餅木)から松原経由で月ノ子鍛冶屋(加計)まで銑の駄賃銀額は0.85匁(10貫目につき)だった。

 鉄荷物は馬で運んだ。文政期(1804〜1830年には戸河内村で267匹の馬が飼育されていた。宝暦期(1751〜1764年)、松原だけで30匹の馬がいた。

 こうして作られた割鉄や釘地鉄は加計村の鉄蔵に納められ、川舟で広島まで、広島から廻船で大坂、下関に運ばれた。(「戸河内町史」)。


 加計の由来

 加計の由来は「崖」の意とするものと、川舟が往来していたことから、舟をつなぐ意味の「かける」に由来するという説がある。

 加計地名 記録にある加計

 1633年 かけ
 年貢歎願書控「かけ」(寛永十年)

 1638年 賀計
 安芸国山県郡賀計村地詰帳(寛永十五年)

 1707年 加計
 『加計村御建山御留山野山腰林御改帖』

 1819年
 国郡志御用ニ附下調書出帳 加計村
 国郡志書上帳 懸

 1825年 もとは懸の字
 芸藩通志(文政八年)「もとは懸の字を用ふ」

 1835年 賀計
 安芸国絵図(天保6年)

 1837年 加計
 国郡全図(天保8)

 安藝国図(聖心女子大学 時代不明)
  坪野・津加の地名があるが加計は無い。
 

 滝山川左岸右岸に「平」字名が多い

 滝山川右岸字名
 大平、後平、鄙平、陰地平、平城、山崎平

 滝山川左岸字名
 穴ヶ迫平、立野平、平床平、迫谷平、引ノ石平

 滝山の西、東に懸崖が見られる。滝山川沿いの両岸の山に懸崖が多い。滝山川の「滝」は「懸崖」を「タキ」と呼び、「滝」の字を当てたと思われる。

 「タキは岩壁、懸崖の意で、山頂の岩壁、山の中腹にある岩壁、渓谷の側壁、すべてタキと呼んでおり、水が落下している滝とは無関係な語意である」

 「タキは昔からこの地方で使われている。『防長地下上伸』宇佐村絵図(1750年)を見ると、寂地川水源にあたる土瀧山の中腹に岸壁の絵が書いてあり、『みやうぜんの横タキ』とある。この絵図は藩の絵図方役人が地下の庄屋の案内で実地検分して画いたものであるが、山の中腹の尾根上にあって水の流れていないこの岩壁に滝(タキ)や嶽の字を当てることができず困惑して片仮名書きにしたものと推察される。筆者も困って本書では懸崖(タキ)を用いている」

 「東條操編『全国方言辞典』によると、タキは四国でも用いられている…広中惇は険しい岩山(岸壁)の呼称について中国地方全域に渡って調べ呼称の分布図を発表した。タキの呼称は中国地方でも特異で本書で取り上げた西中国山地のごく限られた部分に分布しているようだ」

 「木野川の右岸山口県側に白滝山・459m峯がある。広瀬喜運著『玖珂郡誌』(1802年)にこの山の説明があり、『近郷の俗、石壁の険しきを滝と称せり嶽の通音なるにや』とある。この頃からタキに滝の字を当てていたことが判る。この山は白滝山としてあるがタキに岳の字を当てると白岳という風にも書ける」(『西中国山地』桑原良敏)。

 大箒山の南西に熊ノ滝山がある。熊ノ滝山の南面には大きい懸崖があり、熊ノ滝の「滝」は懸崖(タキ)のことと思われる。


 「平」地名の姿

 西中国山地の地形方言にヒラ・ヒラツコがある。
 ヒラ・ヒラツコは尾根の側面、山の傾斜面の意味がある(「西中国山地」)。

 「平」地名のうち、52.9%が崖・急傾斜地

 『「平」らな崖・傾斜地名について』(人権教育思想研究所教授 加藤 昌彦)

 1.調査から見えた「ひら」「平」地名の姿  

 調査地域を、平らな地形でない地域(崖や傾斜地と含む地域)と、平坦地 であるところを分類し、次頁(下表)の表にしました。計136地域のうち72地域、約52.9 % が崖や急傾斜地をふくんでいました。

 「ピラ(坂)という言葉は、古語では、ヒラという形で出てくる。<よもつヒラ坂>というように古事記に現れる。方言では、鹿児島でヒラという形で使われ、意味はアイヌ語と同じ、<崖>である。アイヌ語地名研究家の山田秀三氏によれば、東北地方ではフィラと唇を合わせた発音をし、意味は<坂・急斜面・崖>である。そこで沖縄のピラまで、北から順番にこれらの言葉を並べてみた。

     ピラ pira(崖)アイヌ語
     フィラ fira(坂・急斜面)東北方言
     ヒラ hira(坂) 日本語古語
     ヒラ hira(崖) 鹿児島方言
     ピラ pira(坂・急斜面) 宮古・八重山方言

 日本列島の南北端にP音が残り、東北がf音、古語や鹿児島でh音となって、まるで 古代からの音の歴史の流れが地理上に置かれたようになっている。言語地理学の典型 のような配置だ。

 柳田国男が「蝸牛考」の中でカタツムリに関する各地の方言を比較 して、古い言葉ほど日本列島の周辺に残ることを示しているが、まさにその形を成し ている。宮古・八重山のピラはアイヌ語のピラとまったく同じ音で、日本語最古の音 であろうといわれるp音をともに保っている」(65〜66頁)  

 アイヌ語の「ピラ」、それが「フィラ」、そして「ヒラ」になった。 pira→fira→hira という変化です。  

 「ピラ」が「フィラ」、そして「ヒラ」と発音されるようになり、それが平(ひら)と日本漢字で読まれ、それがまた“たいら”とも変化していくことになります。
 (以上『「平」らな崖・傾斜地名について』から)

 滝山川の両岸にある字名「平」は崖地形を表していると思われる。


 アイヌ語のpira ピラ地名
  (アイヌ語・カナ・意味・地名の順)

 tuy-pira トイ・ピラ 崩れ・崖 豊平

 pira-kes ピラ・ケシ 崖の・末端 平岸

 wakka-pira ワッカ・ピラ 水・崖 赤平

 wen-pira ウェン・ピラ 悪い・崖 上平

 pira-etu ピラ・エトゥ 崖・鼻 平糸

 pira-un-pet ピラン・ペツ 崖・ある・川 美蘭別

 aykap-pira アイカプ・ピラ 愛冠の・崖 愛冠

 noka-pira ノカ・ピラ 形象の・崖 糠平

 pira-or ピラ・オロ 崖・の所 広尾

 pira-utur ピラ・ウトウル 崖・の間 平取

 ar-pira アル・ピラ 片側・崖 安平

 hur-pira フル・ピラ 丘・崖 古平

 yam-wakka-pira ヤムワッカピラ 冷水崖 止若


 万葉集の掛・懸(かけ)

 ある場所、物、人などに事物や人の一部をつなげてぶら下げる、つり下げる、つなげる、
 万葉集16-3886「馬にこそ ふもだし可久(かく)もの」、 万葉集5-892「蜘蛛の巣可伎(かき)て」。

 ある場所、物、人などの範囲に事物を取り入れる、心や耳目にとめる、
 万葉集20-4480「天の御門を 可気(かけ)つれば」などの意。

 物の端を対象の一点に付けてそこに食い込ませてその重みをゆだねる意味という点では掻くと同義であり、起源は同一であったと考えられる。

  神や天皇を話題にする場合に特徴的な用法としては「かけまくも」がある、万葉集にも例が多く、
 2-199「挂文(かけまくも) ゆゆしきかも」、
 3-475「挂巻母(かけまくも) あやにかしこし」のように、「かしこし」「ゆゆし」などと合わせ用いられることが多く、心に考えること、思うことも畏れ多い、言葉に出して言うことも畏れ多いのような意を示し、祝詞などに常套的に用いられる。
 3-285「栲領布の 懸巻(かけまく)欲しき 妹が名を」のように言葉に出して言いたいという用いられ方もある。「まく」は推量の助動詞むのク語法。
 (『万葉神事語辞典』)


 太田川船運の歴史

 1650年代 加計付近までの舟運
 1651年の船改め 
  坪野・加計・筒賀・上殿などの太田部で42艘
 1654年〜91年 加計付近の川船免許 42艘
 1821年 上殿河内―加計間での中漕ぎ5艘が実現
 1830年 戸河内―広島間直送 3隻


 西中国山地「カケ」「ガケ」地名
 
 カケズ谷
 カケノエキ(谷)
 カケのエキ(谷)
 カケの原
 カケノ谷
 カケハシ谷
 カンカケ(谷)
 マスカケ(谷)
 ヒロイカケグロ
 
 ガケノ原
 サンショウガケ(谷)
 ドウチンガケ(谷)
 ナバオレガケ(谷)
 マルガケ谷


 筒賀・戸河内の「かけ」地名

 『御建山山野山腰林帳』(享保元年・1716年)
 中筒賀村

 「一、腰林六拾五ケ所 内…

 市間山 立壱里 横弐拾町

 南ハ水かゑき境限り喜弥三谷つゝら谷うす谷尾続キ限り、西北ハ戸河内村境大岑をゟ水走り境、東ハしかたか原谷尾ゟ続キゟしりハかけのしもハ尾限り」(『筒賀村史』 ゟはヨリ)

 この続きに、石とう山(石堂山)の境が示され、「しりは彦三郎瀧横堺」と記されており、「かけのしも」の「かけ」は崖と考えられる。

 『手鑑帳』(正徳5年・1715年) 戸河内町大歳神社蔵

 『中筒賀村境、土居分のき原、床地はひろいかけぐろ限り、それより権左衛門…分迄峯水走り限り』

 「のき原」「ひろいかけぐろ」は地名であるが、おそらく中筒賀村との境でもっとも東側で同村の正地と接する地点であろうか。それから百姓名が続くが、これは野原山・小渕の上山・向山など東から西へ連なる、その野山・腰林の所有者を書いているのである。「水走り」はおそらく山と山の下り尾根が出あう、いわゆる鞍部のことと思われる。ここでの境は山の尾根が基準となっている(『戸河内町史』)

 正地は「庄地」「セうち」と表されており、「床地」は正地のことだろう。

 中筒賀村国郡志御用につき下調べ書出帳(文政2年・1819年)
 筒賀村

 「一、隣境村名 中筒賀村
 
 西者上筒賀村境市谷限り、夫ゟ西ハ小岡限り大川へ見通し、夫ゟ北ハ上殿河内村境大川限り、夫ゟ東ハ加計村境しゝはなゟ小岡限り、夫ゟそらハがけの垰大みな尾限り、夫ゟ下筒賀村境扇子畠立さかへ、夫ゟしりハよこさかへたゝみ岩限り、夫ゟ上殿河内村境谷限り、夫ゟ大みな尾限り、夫ゟゑき中限り、夫ゟ田ノしり迄谷限り、夫ゟ坪野村さかへ大川限り」


 カリグロ(中国・四国地方)

 「クロは中国・四国地方で塚を意味し、土石その他の物の堆積をいうのが普通だが、徳島県美馬郡、愛媛県周桑郡などの土地では、ただイナムラだけをクロと呼んでいる例もある。香川県仲多度郡など、カリグロも現在は円く積上げた藁グロに対して、仮に歳の暮まで藁を横に積んで置くものの名になっているが、もとは或は稲積の形ではなかったかと思われる。静岡県でいうツミイナブラ以外に、稲をそういう形に積んであるものを、今も愛媛県の北部では時おり見かける(「民俗語彙データベース」HP)。

 正地は広い平坦地で、太田川沿いが崖になっている。「ひろいかけぐろ」は崖の川端のことと思われる。


 アイヌ語 「カケ」

 古いヤマト言葉では「崖」を清音で「カケ」と言っていたという語源辞書の説明は、「ka−ke」語源説を支援する一つの材料です。現在の「崖」は「ka−ke(縄文語)→カケ(古語)→ガケ(現代語)」の経過を辿って変化してきたと言えそうです(『昔の茨城弁集』)。

 アイヌ語 ke は、「削る」「掻く」の意がある。 

 ka-ke カケ 上面・削る 

 ci-ke-p チケプ 自分・削った・者 地球岬(断崖絶壁)
 (cikew チケウと訛る)

 repun-ke-p レプンケプ 沖の方へ・削る・者 礼文華(断崖)

 ho-ke-p ホケプ 川尻・削る・もの 

 wakka-ke-p ワッカケプ 水垢・掻く・もの(水垢取り)

 inaw-ke イナウケ 木幣・削る

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カシミール3Dデータ

総沿面距離20.6km
標高差748m

区間沿面距離
駐車地
↓ 4.9km
高鉢山
↓ 4.6km
A峯
↓ 3.4km
瀧山峡大橋
↓ 4.3km
温井ダム
↓ 3.4km
駐車地
  

 
 
大平橋
温井ダム
大滑ら橋
展望所から
展望所からダム上流
高鉢山東面から見る温井と瀧山峡大橋
ダムを望む
北方向
南方向 左は高鉢山
南方向 波打つ尾根
瀧山峡大橋から
瀧山峡大橋
瀧山峡大橋
閉鎖トンネル出口
ダム下流
温井ダム
滝山東の懸崖
  
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)