山歩き

滝山…瀧山峡大橋…大箒林道…深山川
2018/10/28

太田川交流館…滝山川…滝山…鉄塔道…湖岸車道…瀧山峡大橋…大箒林道…杉ノ泊…深山川…交流館

■滝山(タキヤマ)652.5m:広島県山県郡加計町大字温井字滝山(点の記=滝山峡) 安芸太田町
■上温井(カミヌクイ)668.6m:広島県山県郡加計町大字加計字大坊木(点の記) 安芸太田町

旭橋から見る百々山
旭橋から滝山、五輪山方向
川北橋と土居
取水堰堤
滝山と加計発電所
滝本ダム
滝山と滝山川発電所
堰堤に上がる道は猛烈な薮
谷の土留堰堤
ここの手前から右岸に上がると山道がある
植林地の山道
中電所有地の標識
石垣に出る
一番上の石積 ここから山頂まで150m
三角点と境界石
反射板
反射板の展望地から見える加計の街
正教山と高鉢山 手前滝山
伐採地に出る
6番鉄塔
7番鉄塔
右岸の取水堰と水路
手前の水路は導水トンネルに落ちる
湖面と馬道の尾根
閉鎖トンネル 工事用トンネル
瀧山峡大橋
瀧山峡大橋が迫る
車道から遊歩道に入る
椿平山トンネルの陶板画
瀧山峡大橋と大坊木の峯
左右に滝山と高鉢山
大橋の北方向
大箒林道に入る
ウシロヌクイ谷の全面伐採
ウシロヌクイ谷の滝
伐採された山腹
林道から見たウシロヌクイ谷水源
林道から見た温井ダム
コヌクイ谷に下りる
サイの神峠から見た馬道の尾根
杉の泊の経塚
穴袋
加計の街
深山ノ滝
滝山川と五輪山
6:20 太田川交流館 気温11度 晴れ
 

6:55 加計発電所
7:15 滝山橋
9:30 滝山 
10:25 マイクロウェーブ反射板
10:35 5番鉄塔 
11:10 6番鉄塔
11:25 7番鉄塔 
11:55 湖岸車道 
12:50 瀧山峡大橋 
13:10 大箒林道起点 
13:40 ウシロヌクイ谷入口 
14:20 大箒林道 
15:10 コヌクイ谷 
15:55 サイの峠
16:10 杉の泊の経塚
16:30 穴袋河内神社
16:55 深山ノ滝
17:20 太田川交流館

 交流館から旭橋に出る。曇り空の今日は周辺の山々に霧が降りていない。434号線を西へ進み、五輪山道標の所から北の道へ入る。崖下の「道の口」地区に急傾斜地崩壊危険区域の標識がある。道脇に「健康への道100選 出発点から1km」のプレートが立っている。

 滝山川から太田川に流れる支流の川原にマメガキがあり、たくさんの実が生っていた。滝山川に出ると五輪山の左の山の上に鉄塔が並んでいるのが見える。川北橋の右岸は土居の集落。少し進むと取水堰堤があり、丁川の取水堰堤に繋がっている。「健康への道9km」となっていたので、健康道は右岸を回って上流で左岸から戻る周回路のようだ。

 右岸滝本の対岸辺りから滝山が見えてくる。加計発電所から高度差200mの導水管が通る。送電線鉄塔へ上がる山道が入っている。この山道の途中から五輪山登山道へ上がることができるようだ。地蔵さんが祀ってある。そこからすぐに滝本ダム。ダムの通路を右岸からウォーキングする地元の人が通る。

健康への道100選
滝本ダム手前
ツルアリドウシ
アキチョウジ

 ダムを過ぎると紅葉の始まる滝山が眼前に見える。ウォーキングの人とすれ違う。東側の谷の左岸に山道が入っていた。鹿ヶ谷か石柱へ上がる道か。滝山が目前にある。対岸は186号線から右岸に車道が下りている。滝山川発電所に導水管が通る。滝山橋を過ぎると滝山の東の谷に道が入っているが、入口は猛烈な薮だった。

 道を覆う蔓をナタで切りながら進む。堰堤まで薮の連続。道の終点に土止堰堤と岩止堰堤が並んで谷を塞ぐ。「H15年渓間工事」の表示が見える。堰堤に上がり右岸のスギ林に入るが倒木だらけ。堰堤の上流へ下りる。谷を進んで小滝手前の右岸に登ると炭焼跡の石積があった。その上のヒノキ林に山道が通っていた。

 山道を進むと「中電所有土地」の標識があり、さらに進むと石垣があった。さらに上にも石垣があり、そこは20uほどの平地になっていた。そこから少し上に石積があり、さらに登って行くと450m付近に石垣があった。そこから山頂へ取付そうに見えるが、さらに谷を進む。

イヌホオズキ
ウシハコベ

 550m付近に最後の炭焼跡の石積。そこから山頂へ登る。ツルアリドウシが赤い実を付ける。石積から15分ほどでヒノキ林の山頂。赤い境界柱の横に三角点があった。林で展望は無い。山頂から北へ明瞭な植林道が通っている。赤い境界柱から右へ折れる。白いタマゴのようなキノコがある。岩が集まる尾根を通る。分岐道があり西側の尾根へ繋がっている。

 尾根道から北へ6番鉄塔への標柱がある。マイクロウェーブ反射板があり、展望地になっている。加計の街と加計大橋が見える。滝山の後に正教山、右に高鉢(高果)山が見える。5番鉄塔へ進み引き返す。6番鉄塔へ入る道のことを忘れ、北へ延びる送電線に向かって尾根を北へ入る。谷を西へ進んで鉄塔道へ合流、ここで6番鉄塔への道のことを思い出した。

 伐採地に出ると東側が開けている。ソヨゴにたくさんの赤い実が付いている。6番鉄塔で休憩。西側の谷の木橋を渡り、西側の尾根を下る。ホオノキの葉の山道を進む。ミヤマガマズミが真っ赤な実を付ける。アカマツの幹に瘤ができていた。6番鉄塔から10分ほどで7番鉄塔。そこから山道は急に下る。「火の用心」のプレートが続く。山道は送電線の東寄りに下りていた。

ホオノキ
ミヤマガマズミ
取水堰堤に下りる

 山道は谷の取水堰堤に出る。堰堤の上を通り右岸へ渡る。堰堤から水路が右岸を通る。水路は地図上破線の導水トンネルに注ぎ込まれていた。湖岸の車道に出る。ここまで5時間半ほど掛かった。日当たりにイヌホオズキ、ウシハコベの花が咲く。北方向に見える大箒山南の尾根は紅葉が始まっている。梅の里へ上がる分岐を左へ進むと、閉鎖されたトンネルがある。工事用のトンネルだったようだ。

 湖岸沿いの道を進む。車道の西端に進むと、瀧山峡大橋とその後に向山黒滝山の西の峯が見える。ヒヨドリジョウゴが赤と緑の実を付ける。湖の左右に滝山と高鉢山が見える。瀧山峡大橋がさらに近づく。車道から遊歩道に入る。車道に出てから1時間ほどで瀧山峡大橋。榎平山トンネルの入り口に、陶板による巨大なヤマタノオロチが描かれている。

 橋を渡る。湖岸沿いの山々の紅葉が始まる。北側の山は紅葉が進んでいる。大箒山トンネルの西側を覗いてみると、深い谷が切れていた。コマユミにカメムシがたくさん集まっていた。マツヘリカメムシとキバラヘリカメムシらしい。東側からトンネル上の尾根に登るとサイレン塔がある。車道手前にはアンテナ塔があった。そこから少し先に「林道大箒線起点」の標識がある。

大橋右岸のプレート
大箒山トンネル
マツヘリカメムシ
キバラヘリカメムシ
コマユミ

 林道を進む。法面に風化したマサ土が露出している。開地から滝山と尾根上の鉄塔が見える。ウシロヌクイ谷へ下って行くと、谷の奥は尾根上まで伐採されているのが見える。谷の左岸に山道が入っている。山道は大堰堤の横を通る。堰堤上に出ると、山腹を縫う大箒林道が見える。頭の上は大坊木三角点だが、薮になっている。

 岩を滑り落ちる滝が見える。谷側には温井ダムが見える。山の斜面は丸裸になっている。谷入口から40分ほどで上の林道に出た。眼下にダムを見ながら南へ下る。ウリハダカエデの葉が赤く染まる。林道が北向きに変わる所で山道に入る。ヒノキ林を下りコヌクイ谷の車道に下りる。車道から温井の里が見える。

 左岸の林道を進み一本松林道に入る。林道が左岸に渡る手前で山を越え、東側の車道に下りる。ススキの穂が傾いた日の光に輝く。高果林道が高鉢山北面に入っている。サイの峠を過ぎて、杉ノ泊を南へ下る。シュウメイギクが田んぼの法面に咲いている。刈り取りを終えた田んぼは葉が青く伸びていた。

高鉢山へ上がる高果林道
ノハナショウブ
ナンテン

 静かな里山を通り、弁財天加計線に出ると「杉の泊経塚」の説明板があった。「地蔵堂は中世応永(1394年)のころの開基で享保元(1716)年に焼失した際、本尊などを丘に埋め経塚とした」とある。隣には墓所があった。

 305号線を下る。大きいケヤキが黄色に輝く。河内神社下を通り穴袋を通る。北側の丘に数軒の民家がある。穴袋を過ぎると深山川は急流になり渓谷を下る。キバナアキギリが残る。水源の森の標識がある谷の山=陰地平に向かって山道が入っている。曲り道から加計の街が見える。下って行くと、眼下に深山ノ滝の遊歩道と滝が見える。深山峡入口へ下る。そこから20分ほどで交流館へ帰着。

河内神社
ススキ
シュウメイギク
ヒヨドリジョウゴ
マメガキ
シラネセンキュウ
マムシグサ
アキノキリンソウ
ヤクシソウ
フユイチゴ
リュウノウギク
ウメモドキ
キバナアキギリ
ヨウシュヤマゴボウ


■地名考

 自然界で生じる種々の音や声を言語音で模写した語を擬声語といい、自然界に生起するさまざまの状態を言語音で模写した語を擬態語とよぶ。擬声語は、ゴーン、ドタン、ガタガタなどの語で、擬音語ともいわれる。擬態語は、ベットリ、キラキラ、ツルンなどの語で、擬容語ともいわれる。擬声語・擬態語を総称して、象徴詞、象徴辞、声喩(せいゆ)、オノマトペなどという(『小学館 日本大百科全書』)。

 さやさや( 副 )
 〔「さや」は擬声語〕 物が軽く触れ合って鳴る音を表す語(『大辞林』)。

 日本書記、古事記の「さやさや」

 枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 振れ立つ 漬の木の さやさや(『古事記』下巻、仁徳天皇)

 『古事記』の説明によると、この歌が作られたのは、次のような事情による。河内の国(現在の大阪)にとても高い木があった。その木で船をつくったが、すばらしく早く進む。船の名は「枯野」(からの)。やがて船は役目を終えたので、薪にして塩を焼いた。その焼け残った木材で琴を作ったが、その音色は七里に響き渡った。それで、右に示したよう な歌謡が歌われたというのである。

 『日本書紀』での歌謡由来の説明は、『古事記』と若干異なり、応神天皇にまつわる説明になっているが、歌謡そのものは、全く同じ。

 「さやさや」という擬音語は、『古事記』に、次ような例が見られる。

 冬木のすからが下木のさやさや(『古事記』中巻、応神天皇)

 まっすぐな冬木の幹の下に生えている低木が風に揺れてたてる音が、「さやさや」。

 (以上『楽器音を写す擬音語』山口仲美)

 「水影涛々」

 万葉集歌番号3835の左注に「水影涛々」(すいえんとうとう)がある。

 [歌番号]16/3835 

 [原文]勝間田之 池者我知 蓮無 然言君之 鬚無如之

 [訓読]勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし

 [仮名]かつまたの いけはわれしる はちすなし しかいふきみが ひげなきごとし

 [左注]右、或有人聞之。曰新田部親王、出遊于堵裏、御見勝間田之池、感緒御心之中。還自彼池不任怜愛。於時語婦人曰今日遊行、見勝田池、水影涛々、蓮花灼々。可怜断腸、不可得言。尓乃婦人、作此戯謌、專輙吟詠也

 「水影涛々」は「水面は輝き揺れ動き」「水面は煌きながら揺れ動き」などと訳されている。「とうとう」が万葉の時代からある古い言葉であることが分かる。

 戸河内の「ほのぎ」 とうとう

 戸河内の「ほのぎ」(小字名 寛永地詰=1638年)に、「とうとう」がある。現在、与一野に小字名の百々があることから、「とうとう」は百々であると思われる。

 「ほのぎ」から「とうとう」(百々)の地名は、寺領、与一野、土居にあったことが分かる。

 『下与一野は現在の与一野にあたり、のちの才中得は寺領にふくまれている。与一野は「往古奈須与市当村に落ち来たり、此の所に住居して終に此の里にて身まかりし由申し伝え候、是によりて与市野と申す由申し伝え候」という伝承があるが、その真偽はともかく、これ自体与一野が古くから開発されてきた郷であることを伝承するものであろう。

 それらはいうまでもなく「実際寺領与一野年貢帳」という貞治五(1366)年の古文書からも明らかである……与一野は田畑がほぼ半々で、ほぼ平均的な戸河内村の郷の一つであるといえよう。また古い開発にもかかわらず岩田・叶木・とうとう(百々)・宮ノ前・新屋垣内・大畠・平林が耕地の字として現在も残されている』

 『与一野の検地は最初は今若谷から始まり、横林→栃木田・叶木とすすみ、132筆めから新屋垣内→いわた→すへ谷→叶木→宮の脇→横林で終わっている。今若谷は寺領川の西岸で土居郷に近い谷であるから、検地は寺領川の西岸を登って大畠や平林などの与一野の中心分に達すると、今度は逆に東岸を土居の方に降りてくるという順番であったことがわかる』(『戸河内町史』)。

ほのぎ名
ほのぎ名 筆数 面積
(畝−歩)
現在
とうとう
(寺領)
15 94-12
とうとう
(とうとう溝上)
(下与一野)
8 75-03 耕地
とうとう
(土居)
9 37-15
 
名請人
名請人
面積
(畝−歩)



主なほのぎ
彦左衛門
(寺領)
18 128-12 8.1 とうとう(15)
こまか谷(3)
次郎兵衛
(下与一野)
24 239-27 16.3 とうとう(8)
大畠上(12)
嘉右衛門
(土居)
16 73-18 7.9 とうとう(9)
なかすり(4)

 与一野に字名百々(どど)があり、その範囲は与一野のしだれ桜付近から下流の大歳神社あたりまでと思われる。

 那須与一墓の隣に「陸軍砲兵二等卒 百々初市之碑」があり、与一野のしだれ桜は百々さん宅の前にある。百々姓発祥の地の一つに、与一野の小字の百々が挙げられている。

 寛永地詰の時代には、「とうとう」と呼んでいたものが、後の時代に百々の字を当て、どど(百々)と呼ぶようになった。百々姓の人々がこの地域にやってきて、その後、百々の字名が発生したのではないと思われる。

 もともと「とうとう」と呼ぶ地名があり、その後、百々の字を当てて字名とした。

 広辞苑「とうとう」に次の意がある。

 ○物を軽く打つ音。
 ○縁板などを足音たかく踏みならすさま。
 ○斧で木を伐る音
 ○水の盛んに流れるさま。
 ○水勢の強くはげしいさま。
 ○鼓の音。太鼓の音。波の音
 ○鐘や鼓などの音。
 ○はやく。すみやかに。

 加計の百々山は「どうどうやま」と呼ぶことから、古い地名であると思われる。

 とうとう → どうどう → どど(百々)のように変化したと思われる。

 アイヌ語の語根重複

 『一般的に言って、語根重複reduplicationが多用されるという記述があった場合は、その言語は音の象徴性に対する依存度が高いと考えられるので、オノマ卜ペが多いという推測が可能であるがアイヌ語に関しては間接的であるがオノマトペが豊富であるという報告が別にある(『オノマトペに関する対照言語学的考察』岡本克人)。

 suyesuye スイェスイェ ゆらゆらする

 suyesuye 何回も揺らす、振る、揺さぶる
 niko-suyesuye ニコスイェスイェ 立木に登っている者を木のまま揺すぶる
 muy-suyesuye ムイスイェスイェ 箕を揺らす
 si-suyesuye シスイェスイェ 揺れ動く
 (『アイヌ語電子辞書』)

 suyesuye スイェスイェ ゆらす(重複)、ゆらゆらゆらす
 (『アイヌ民族博物館』)

 nitay suyesuye p ニタイスイェスイェプ 嵐の時森を揺らすもの
 (『アイヌ文化財団』)

 tomtom トムトム ぴかぴか光る
 tomtom-kikir トムトムキキリ 光り光りする虫=ホタル

 toktok トクトク トントンという音
 (tok トンという音)
 sampe-toktokse サムペトクトクセ 心臓がドキドキする
 ram-toktokse ラムトクトクセ 心臓がドキドキする

 tuytuy トイトイ 垂れ落ちる垂れ落ちる
 wakka-tuytuy ワッカトイトイ 水が垂れ落ちる垂れ落ちる

 karkarse カルカルセ ころころころがる
 terterke テルテルケ ピョンピョン眺ぶ
 purpurke プルプルケ プクプク涌き出る
 paraparak パラパラク 大声で泣きわめく
 hepokipoki ヘポキポキ 頭を上げ下げする
 tartarke タルタルケ 踊り踊りする(川のたぎつせ)
 (tattarke タッタルケ)
 tuytuye トイトイェ 箕で糠をとばす、体のゴミを払う
 kirpo-tuytuy キリポトイトイ ちんぼふるふる(赤ん坊の)
 tawkitawki タウキタウキ 何回も叩いて割る、切る、ブツブツに切る
 cirircirir チリリチリリ 流れるように逃げ去る
 tata タタ トントン切り刻む
 tatatata タタタタ とんとん切り刻む
 oreporep オレプオレプ 叩いて拍子をとる
 caricari チャリチャリ まき散らす
 mommom モムモム 流れ流れる

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

カシミール3Dデータ

総沿面距離24.0km
標高差585m

区間沿面距離
太田川交流館
↓ 5.2km
滝山
↓ 6.3km
瀧山峡大橋
↓ 2.2km
ウシロヌクイ谷
↓ 4.2km
サイの峠
↓ 6.1km
交流館
  

 
 
反射板の展望地から加計の街を望む
反射板の展望地から 右から高鉢山 正教山 手前が滝山
瀧山峡大橋
西尾根と大坊木山
瀧山峡大橋
大橋から 左滝山 右高鉢山
瀧山峡大橋から北側
ウシロヌクイ谷左岸
ウシロヌクイ谷から温井ダムを望む
大箒林道から見たウシロヌクイ谷水源
大箒林道から温井ダムを望む
  
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)