6:35 道の駅来夢とごうち 気温11度 晴れ
6:40 電子基準点
7:00 大歳神社
7:15 京之本遺跡の碑
7:40 発坂トンネル
7:50 県道305号線
8:10 岩田バス停
8:40 復旧記念碑・与一墓と百々碑
9:00 与一野のシダレザクラ展望地
9:10 才中得
9:15 才中得積石塚
9:30 才中得地蔵堂
10:15 日露戦勝紀念碑
10:30 草尾線(月の子岩入口)
11:20 草尾殿畑線
12:30 正教山
16:00 大歳神社
16:15 道の駅
道の駅駐車場を出発。遊園地を回りバスのUターン路を通って、電子基準点に出る。円柱状のアンテナが立っている。「先端部にGPS(Global Positioning System)衛星が発信する電波信号を受信するアンテナが取り付けられ、内部にはGPS受信機と受信データを転送する通信機器などが格納され、24時間連続観測が行われている」という。アナテナ塔には「基本基準点No.071164 国土地理院」の標識がある。
車道に出て上殿小学校の前を通り西へ進む。法専寺、明国寺の前を通り大歳神社に出る。そこから引き返し山側の道に上がる。太田川右岸の山には霧が降りている。ヤマハギの花が咲き残る。法専寺の山側に京之本遺跡の碑があった。京之本遺跡は縄文早期、弥生中期、後期の遺物が出土しており、水稲耕作、狩猟・漁労等を行い生活していた(説明板)。
遺跡の西側に青ヶ迫川が通り、左岸に正教山の登山道が通っていた。眼下の上殿の街は霧に覆われ、刈り取りを終えた田んぼが続いている。山側には珍しく、ハゼに稲が干してあった。ハゼの後に墓所があり柿木の実が生っていた。稲の葉が伸びた田んぼにシロバナサクラタデが咲く。
キバナアキギリ |
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シロバナサクラタデ |
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八幡神社前を通り旧道に出る。箕角集会所前を通り三叉路にでると、石柱があり「筒賀村をへて吉和村に通ず」裏側には「戸河内町をへて三段峡に通ず」とあった。横には「上殿村青年團」と書いてあるようにみえる。三叉路を南へ進むと轟橋に出る。轟橋付近は轟渡があったところで筒賀に通じていた。
発坂トンネルの前の191号線を横切って305号線に入る。轟浜上流の太田川の川底は岩盤が多い。車道縁にオオイヌホオズキが咲く。取水堰が見えると305号線入口。山県郡観光案内図がある。杉ノ泊、寺領の標識がある。弁財天橋左岸から県道に入る。左岸山側に石垣が続き、古道のようだ。石垣はU字に曲がった所の車道に下りていた。
三段峡漁業協同組合の遊漁料の看板がある。寺領川は深い谷になっている。キバナアキギリ、アキチョウジ、シュウメイギクが咲く。土居から上がる道と交差する所の岩田バス停に出る。岩田の地名は「芸藩通志戸河内絵図」にもある古い地名である。交差地点の高台に墓所がある。バス停の下に民家があった。岩田の道路情報板に「凍結注意気温−19℃」と表示されていた。
ナガミノツルキケマン |
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シラネセンキュウ |
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シシウド、オオバショウマの花が残っている。「ぎおんぼうの里 寺領」の看板がある。祇園坊柿の柿団地の絵が寺領川と長原川合流点に描かれている。与一野の看板があり、民家が見え始める。下田橋の先は竹林になっている。与一野橋を渡る。左山上に大歳神社が見える。この辺りから与一野のシダレザクラ付近までは、字名を百々(ドド)と呼ぶ。
寺領川左岸に長い石垣が見える。道路横に復旧記念碑がある。昭和63年7月20日から21日未明の集中豪雨で町内各所で未曽有の被害をもたらした。寺領地域も被害が甚大であったと碑文に記されている。石碑のすぐ先に那須与一の墓がある。与一晩年は如意庵城に住み、この地で田畑の開拓を進めたので与一野と呼ぶようになったという。与一墓は鎌倉中期から造立された宝篋印塔(ほうきょういんとう)の形をして上段四面に梵字(空、風、水、火、地)が刻まれている。
与一墓の隣に「陸軍砲兵二等卒 百々初市之碑」がある。「大正十二年一月十日 父 百々勘市建立」と刻まれている。与一野のしだれ桜は百々さん宅の前にある。百々姓発祥の地の一つに、与一野の小字の百々が挙げられている。沖広橋から見る寺領川は上流も下流も岩盤の谷になって、ザーザーと白く泡立っていた。
キクタニギク |
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アキチョウジ |
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与一野集会所を過ぎると左手に与一野のしだれ桜→の標識があり、その方向を見ると丘の上にしだれる枝の桜が見える。NTT寺領基地局を過ぎると、右手の川原に祇園坊が植えられている。農家レストラン前を通り、上与一野バス停に進む。そこから先には才中得の標識があった。
樅の木橋で西から入るゲンロク谷が合流、車道の前方に大平山の峯が見える。戸河内消防団第十六部の櫓を過ぎると、右側の田んぼの中に積み石が見える。才中得積石塚で五輪塔が三基見える。室町後期から江戸時代初期にかけて、一つの石で五輪を表す、小形の五輪塔が造られるようになった。石佛橋を過ぎると川沿いにプールがある。祇園坊の木に柿の実が生っている。右手に才中得の地蔵堂が見える。
地蔵の左に木札があり「奉祈地蔵堂新築 諸難消除 部落繁栄守護 建立才中得部落 昭和39年」と書かれている。安永8(1779)年の造立で、尾道で造られたものであるという。毎年、八朔には地蔵法要が行われている。地蔵堂の傍に石柱があった。「命日 昭和二十年八月八日於ニューフリンテン島戦死 河野勘三」とあった。
樋口橋を渡り大歳神社前を通る、神田平橋を過ぎると祇園坊のカキノキが見える。ナガハラ川落ち口に進む。アマゴ禁漁区の看板がある。寺領古墳を探すが見つからない。円光寺の前でアオダイショウが道路に出ようとしていた。寺島橋右岸に「日露戦勝紀念碑」の大きい石碑があった。
そこから少し先に祇園坊団地の看板があった。東側の山にたくさんのカキノキが林立していた。ハナミズキに真っ赤な実が生る。猪山口バス停に安芸太田町下殿河内の標識がある。大歳神社前を通る、チャノキに花が咲いていた。土石流危険渓流 横岩谷川の標識がある。ヨコイワ谷は月の子岩から落ちる谷だった。
長源寺下に進むと「月の子岩へ」の道標があり、反対側に「草尾雲海の地へ」の道標がある。そこから草尾線を進む。南側に市間山の峯が見える。民家の間を通って行くと「林道草尾線」の標識があった。緩い上りの舗装道が長く続く。林道の東端に水源の森の看板があった。名称は草尾、杉の泊となっていた。
祇園坊柿 |
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ヤマハッカ |
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ヤクシソウ、アキノキリンソウが咲き、ツルウメモドキが黄色の実を付ける。NTTのアンテナ塔があり、少し進むと東側が伐採されている。さらに進むともう一つアンテナ塔があった。南の尾根に作業道が入っていた。そこから下り坂になり、ほどなく南へ入る草尾殿畑線に出る。入口に墓所があり、北側には民家があった。
林道を南へ進むとすぐに分岐、西側へ作業道が入っている。ミヤマガマズミがたくさんの赤い実を下げる。少し進んだ所で尾根に登った。アカマツが入る雑木林、ヒノキ林を進む。ヤブコウジが赤い実を付ける。殿畑線から1時間ほどで正教山。林で展望は無い、アカマツの間に三角点があった。
南へ下り分岐から東の破線道を進む。山道が残っているが、途中で道を間違え、深く掘り下げた山道を下ってしまった。破線道から離れて行く。途中から植林地を下ったが、倒木や崖に突き当たった。広いと思われた尾根上に進むと、尾根のまん中が崩壊し、下の谷へ達していた。林が抜け、そこから戸河内インター南のトンネルが見えた。
ハナミズキ |
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ヤクシソウ |
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崩壊地点から北側の谷を越えて、さらに北の尾根に登った。そこから尾根上の山道を下る。分岐に出ると北側へ入る山道に進んだが、谷へ入る所で倒木に覆わていた。谷に滝が見えた。引き返し南の山道を下る。堰堤から右岸の作業道に上がる。
作業道出口に電気柵があった。墓所を通り抜けると視界が開け、太田川の向こうの高下の集落が見えた。道沿いにチャノキが咲き実が付いていた。右手に朝立ち寄った大歳神社が見える。旧道を進み15分ほどで道の駅に帰着。
アキノキリンソウ |
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ヤブコウジ |
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ヤマハギ |
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ヒヨドリバナ |
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シュウメイギク |
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シシウド |
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オオバショウマ |
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マムシグサ |
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クサギ |
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ツルウメモドキ |
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ガマズミ |
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チャノキ |
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ムラサキツユクサ |
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■地名考
戸河内の「ほのぎ」(小字名 寛永地詰=1638年)に、「とうとう」がある。現在、与一野に小字名の百々があることから、「とうとう」は百々であると思われる。
ほのぎから「とうとう」(百々)の地名は、寺領、与一野、土居にあったことが分かる。
『下与一野は現在の与一野にあたり、のちの才中得は寺領にふくまれている。与一野は「往古奈須与市当村に落ち来たり、此の所に住居して終に此の里にて身まかりし由申し伝え候、是によりて与市野と申す由申し伝え候」という伝承があるが、その真偽はともかく、これ自体与一野が古くから開発されてきた郷であることを伝承するものであろう。
それらはいうまでもなく「実際寺領与一野年貢帳」という貞治五(1366)年の古文書からも明らかである……与一野は田畑がほぼ半々で、ほぼ平均的な戸河内村の郷の一つであるといえよう。また古い開発にもかかわらず岩田・叶木・とうとう(百々)・宮ノ前・新屋垣内・大畠・平林が耕地の字として現在も残されている』
『与一野の検地は最初は今若谷から始まり、横林→栃木田・叶木とすすみ、132筆めから新屋垣内→いわた→すへ谷→叶木→宮の脇→横林で終わっている。今若谷は寺領川の西岸で土居郷に近い谷であるから、検地は寺領川の西岸を登って大畠や平林などの与一野の中心分に達すると、今度は逆に東岸を土居の方に降りてくるという順番であったことがわかる』(『戸河内町史』)。
ほのぎ名 |
ほのぎ名 |
筆数 |
面積
(畝−歩) |
現在 |
とうとう
(寺領) |
15 |
94-12 |
|
とうとう
(とうとう溝上)
(下与一野) |
8 |
75-03 |
耕地 |
とうとう
(土居) |
9 |
37-15 |
|
名請人 |
名請人 |
筆
数 |
面積
(畝−歩) |
石
高 |
屋
敷
|
主なほのぎ |
彦左衛門
(寺領) |
18 |
128-12 |
8.1 |
○ |
とうとう(15)
こまか谷(3) |
次郎兵衛
(下与一野) |
24 |
239-27 |
16.3 |
○ |
とうとう(8)
大畠上(12) |
嘉右衛門
(土居) |
16 |
73-18 |
7.9 |
○ |
とうとう(9)
なかすり(4) |
与一野に字名百々(どど)があり、その範囲は与一野のしだれ桜付近から下流の大歳神社あたりまでと思われる。
那須与一墓の隣に「陸軍砲兵二等卒 百々初市之碑」があり、与一野のしだれ桜は百々さん宅の前にある。百々姓発祥の地の一つに、与一野の小字の百々が挙げられている。
寛永地詰の時代には、「とうとう」と呼んでいたものが、後の時代に百々の字を当て、どど(百々)と呼ぶようになった。百々姓の人々がこの地域にやってきて、その後、百々の字名が発生したのではないと思われる。
最初に「とうとう」と呼ぶ地名があり、その後、百々の字を当てて字名とした。
広辞苑「とうとう」に次の意がある。
○物を軽く打つ音。
○縁板などを足音たかく踏みならすさま。
○斧で木を伐る音
○水の盛んに流れるさま。
○水勢の強くはげしいさま。
○鼓の音。太鼓の音。波の音
○鐘や鼓などの音。
○はやく。すみやかに。
「水影涛々」
万葉集歌番号3835の左注に「水影涛々」(すいえんとうとう)がある。
[歌番号]16/3835
[原文]勝間田之 池者我知 蓮無 然言君之 鬚無如之
[訓読]勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし
[仮名]かつまたの いけはわれしる はちすなし
しかいふきみが ひげなきごとし
[左注]右、或有人聞之。曰新田部親王、出遊于堵裏、御見勝間田之池、感緒御心之中。還自彼池不任怜愛。於時語婦人曰今日遊行、見勝田池、水影涛々、蓮花灼々。可怜断腸、不可得言。尓乃婦人、作此戯謌、專輙吟詠也
「水影涛々」は「水面は輝き揺れ動き」「水面は煌きながら揺れ動き」などと訳されている。「とうとう」が万葉の時代からある古い言葉であることが分かる。
加計の百々山は「どうどうやま」と呼ぶことから、古い地名であると思われる。
滔滔(とうとう)・蕩蕩(とうとう)
『日本語オノマトペ辞典』では「滔滔」に「@水が盛んに流れるさま。多量の水を悠然とたたえているさま。A弁舌のよどみのないさま。次々とよどみなく話すさま。Bおしなべて一様であるさま」の説明を付し、「蕩蕩」の語義を「広大なさま。広々としているさま。強大なさま。」として区別している。
「滔滔」に和漢朗詠集や日本漢詩集の例はないが、十訓抄では文選の詩句を引用した箇所に2例使用されている。他は『太
平記』に「滔々たる大海」、謡曲『養老』および『采女』に「水滔々と
して」2例、『養老』に「谷の水音とうとうと」、『英草紙』に「水滔々」、『近世説美少年録』に「滔々たる水の音」、『浮世床』「弁舌滔々として」
と、計7例である。
謡曲の仮名書き例(擬音語)が目を引く。日葡にも「ToTo,例,ToToto
xite. 湖や池が、水で一杯になり,溢れているさま」
とあり、ここまでは『浮世床』1例がAの意、他はすべて「滔滔」@の意で解せる。また、万葉集3835番歌左注「水影濤々(たうたう)、蓮花灼々」も関連
があるかもしれない。
「蕩蕩」の例は5例である。(色葉字類抄にも「蕩々タウタウ
巍々― ―」 とある。)
日本書紀(720) :「洪恩蕩蕩ナル」→あまねく広い
菅家文草(900頃):「蕩蕩一生」→平穏な一生?
安藤東野(1683〜1719):「北風勁…庭除蕩蕩」→風が庭を吹き払うさま?
藪孤山(1735〜1803):「如洪水 蕩蕩不可抑」→水が勢いよくほとばしるさま
沙石集(1823):「蕩々瀑々として悪趣を招く」(出典有)→水が勢いよく流れるさま
和英語林集成の「TO-TO.」は「Onomato. In imitation of the
wind. Kaze ga - to todomekiwataru.」となっていて、風の音を写したものという説明である。
『日本語オノマトペ辞典』の説明に合う「蕩蕩」の用法は書紀の例のみで、2例は「滔滔」@に言う「水が盛んに流れるさま。」にあたるようだし、漢詩の2例は水でもなく広大でもなく解釈が難しいが、東野の方は和英語林集成の解釈と共通するところがある。「蕩蕩」は和文における例がなく、日本語には定着しなかった語かもしれないが、「滔滔」は水の勢いよく流れるさまから、近世以降比喩的に人がよどみなく話すさまの形容にも使われ出し、現代語ではオノマトペとして認識されている語と考えられる。
(以上『漢語オノマトペの日本語における受容と変化』宮武利江)
室町時代の楽器の音
こんなふうに、狂言には、歌謡のみならず、「唱歌」をふまえた楽器の音が頻出している。それに対して、狂言以外の作品では、「唱歌」とは関係のない擬音語が大半を占めている。
たとえば、鼓の音。狂言では、「たっぽぽ」などと「唱歌」の楽譜をふまえた擬音語であったが、謡曲では、「ていとう」である。
岸打つ波も松風も、颯々(さつさつ)の鈴の声、ていとうの鼓の音(「雨月」『謡曲集(下)』大系)
「ていとう」は、そう聞こえるところから来た鼓の音ではあろうが、一方、漢語「丁東(ていと
う)(=石や金属や玉の触れ合う音)」を意識してもいよう。というのは、例文からわかるように、鼓の音「ていとう」は、鈴の声「颯々」という漢語に並べてあるからである。「ていとう」という鼓の音は、『御伽草子』(大系)の「濱出草紙」にも見られる。
また、「とうとう」という鼓の音もある。
笛ひっとふきて、つづみをとうとうと打ち鳴らし、鬼こそかへり候へ。(『心敬僧都庭訓』)
「とうとう」は、「唱歌」の楽譜とは無関係な鼓の音。しかし、当時、一般に知られていた鼓の音であったらしく、室町時代の国語辞書『広本節用集』『塵芥』『易林本節用集』にも、「百百」(トウ
トウ)「鼕鼕」(トウ
トウ)と掲載されている。「とうとう」の縮まった「とと」も、『五音三曲集』では鼓の音になっている。「とうとうたらり」(『梅花無尽蔵』一)のように、「たらり」を付けた鼓の音もある。いずれも、「唱歌」とは関係のない擬音語である。
(以上『楽器音を写す擬音語』山口仲美)
アイヌ語の語根重複
『一般的に言って、語根重複reduplicationが多用されるという記述があった場合は、その言語は音の象徴性に対する依存度が高いと考えられるので、オノマ卜ペが多いという推測が可能であるがアイヌ語に関しては間接的であるがオノマトペが豊富であるという報告が別にある(『オノマトペに関する対照言語学的考察』岡本克人)。
karkarse カルカルセ ころころころがる
toktokse トクトクセ ドキドキ脈うつ
terterke テルテルケ ピョンピョン眺ぶ
purpurke プルプルケ プクプク涌き出る
paraparak パラパラク 大声で泣きわめく
suyesuye スイェスイェ ゆらゆらする
hepokipoki ヘポキポキ 頭を上げ下げする
tartarke タルタルケ 踊り踊りする(川のたぎつせ)
tuytuye トイトイェ 箕で糠をとばす、体のゴミを払う
wakka-tuytuy ワッカトイトイ 水が垂れ落ちる垂れ落ちる(アマツバメ)penekuma-ka-pe-tuytuy
kirpo-tuytuy
tawkitawki タウキタウキ 何回も叩いて割る、切る、ブツブツに切る
cirircirir チリリチリリ 流れるように逃げ去る
tata タタ トントン切り刻む
tatatata タタタタ とんとん切り刻む
oreporep オレプオレプ 叩いて拍子をとる
caricari チャリチャリ まき散らす
mommom モムモム 流れ流れる
カシミール3Dデータ
総沿面距離23.4km
標高差591m
区間沿面距離
道の駅
↓ 5.1km
弁財天加計線(県道305)
↓ 7.8km
月の子原入口
↓ 3.1km
草尾殿畑線
↓ 2.0km
正教山
↓ 5.4km
道の駅
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