山歩き

水谷…大丸峯…神ヶ尾…寺尾郷
2018/10/14

太田川交流館…水谷林道…神ヶ尾林道…千貫石…加計峠…大丸峯…水谷山…寺尾郷…百々山登山口…交流館

■大丸峯(オオマルミネ)778m:広島県山県郡豊平町大字長笹字猪越(点の記) 北広島町
■水谷(ミズタニ)662m:広島県山県郡加計町大字加計字神ヶ尾(点の記) 安芸太田町

旭橋から見た百々山
交流館駐車場から暖かい水が出ていた
鉄橋の歩道と百々山
丁川
百々山隧道
永代橋
トンネルを右折するとすぐに標識
大田川徳治郎の碑
災害之碑
災害碑の裏面
墓所
墓所から見える加計の街
丁川稲荷の由来
丁川稲荷神社
涸れた丁川浄水場
左 神ヶ尾林道入口
神ヶ尾線
神ヶ尾林道と水谷
右岸に高く続く石垣
林道をツルヨシが覆う
神ヶ尾林道中付近の廃屋
右岸山腹の石垣道
水谷集落の五右衛門風呂の釜
細川製靴店の石垣 左側に千貫石がある
千貫石
千貫石
千貫石
細川製靴店の看板
右岸の土蔵
神ヶ尾線の標識
三谷塩明線 塩明(しおあけ)は丁川左岸にある
三谷は191号線沿いの澄合にあるが?
水谷雨量観測局
林道入口
加計峠か 旧道の境界峠 加計側
大丸峯西の大岩
山頂三角点と小屋
龍頭山
車道に下りると伐採地
大丸峯
横山谷川が開ける
14番鉄塔 水谷三角点
トンネル手前のプレハブ事務所
寺尾トンネルと貫通石
トンネルのレリーフ
寺尾トンネル西側のレリーフ
寺尾トンネル
寺尾トンネル西の道標
五輪山を望む 右
寺尾郷の碑の手前の民家
寺尾郷の碑
鞍部の石垣
百々山登山口に下りる
6:20 太田川交流館 気温9度 晴れ
 

7:15 神ヶ尾林道
7:50 水谷
8:35 千貫石
8:55 林道神ヶ尾線
9:50 加計峠 
10:00 古道
11:40 大丸峯 
12:35 車道 
13:20 上ヶ尾(水谷三角点) 
14:00 寺尾トンネル 
14:20 573ピーク(伐採地)
14:30 寺尾郷記念碑 
15:15 百々山登山口
15:45 交流館 

 百々山に薄い霧が掛かる。交流館の駐車場で汲み上げている水に触れると暖かかった。交流館から丁川の鉄橋を渡ると、線路跡にマルバルコウソウが群生している。433号線に出て、百々山隧道を通ってすぐ右折すると、林道水谷横山線の標識がある。横山は大丸峯南の集落である。

 標識の横に百々山登山道の古い標識がある。その近くに加計村出身の力士、大田川徳治郎の碑がある。水谷林道を進むと、百々山から落ちる谷の右岸に災害之碑があった。碑の裏面に「百々山鞍部崩壊 全壊二戸 死者四名 半壊三戸 負傷者六名 土砂流入十三戸」とあった。谷を見上げると、大きな堰堤が作られていた。

 林道を進むと墓所に出る。そこから加計の里を一望できる。オトコヨウゾメが真っ赤な実を付ける。少し進むと「丁川稲荷神社の由来」と書かれた看板があった。稲荷神社は文化五年(1808年)大朝の新庄村から勧請したもので、加計隅屋が創設したという。すぐ先の山道を上がると木造の社があった。

オトコヨウゾメ
車道のヤマナシ

 丁川上水場は涸れていた。皿山上水場を回ると、ヤマナシの実がたくさん車道に落ちている。割って見るとしっかり実がついている。先週と比べるとアキノキリンソウが目立つ。水谷の橋を渡ると百々山登山口。向かいに倉庫のような建物があり、薪が積み上げてあった。

 水谷左岸に石垣があり、橋を渡ると、林道神ヶ尾線起点の標識がある。林道入口にヨウシュヤマゴボウが実を付けていた。石垣がある草の林道に入る。林道はスギの倒木と草薮が連続する。キバナアキギリが咲いている。山側に高く石垣が築かれたところがある。ツルヨシが覆う所もあった。

 ツルヨシを切って廃屋の前に出た。屋根にスギが倒れていた。堰堤を過ぎると、右岸のスギ林上部に何段もの石垣が見える。地形図に水谷と書かれた辺りに登ってみると、山腹に石垣道が通っており、地図上の破線道と一致する。石垣道の左右を確認しながら千貫石を探す。西側の石垣の上には五右衛門風呂の風呂釜が残っていた。

ヤマハッカ
ヨウシュヤマゴボウ

 水谷集落の石垣道の西端の竹林から東へ道を進む。途中、上の石垣に登りながら確認したが、千貫石らしきものは見えない。東へ進むと、山道は神ヶ尾林道に出る。林道を進むと、丸石の高い石垣があり、金樋の左手の石垣の上に、写真で見た岩が見えた。これが千貫石だろうか。

 岡岷山の絵図とまるで違う風景である。石垣の上にあがって見ると、どこにでもあるようなただの岩だった。計測してみると、高さ90cm、横1.5m、幅30cmだった。「高さ三尺ばかり、横五尺ばかり」に合致する。

 金樋を越えて東側の丸石の石垣の上に移った。靴型が散乱していた。古い看板には「細川製靴店」とあった。この店は現在、加計の街で店を構えているという。そこから少し進むと、高い石垣の上に土蔵があった。左岸にも石垣が続いている。棘の無いサンショウに実が付いていた。

散乱する靴型
キバナアキギリ
アサクラザンショウ

 車道に出ると、林道神ヶ尾線の標識があった。車道を西へ進み分岐に出ると、広域基幹林道 三谷塩明(しおあけ)線の標識があった。その左に木造の道標があり、寺尾と書いてあるように見える。車道を東へ進むと、水谷雨量観測局がある。途中から林道に入る。アケボノソウが咲く。法面が崩れ、岩が塞いでいた。

 境界線手前から尾根に上がる。境界の峠地点へ進み、境界尾根を下ると、古道に出た。加計側は植林地で明瞭な山道だが、長笹側はササ薮になっていた。岡岷山が加計村から長笹村へ越えた加計峠はここかもしれない。上空をヘリが飛び続けている。10時15分頃、尾根上から子熊が驚いて左側の斜面を下って行った。

 水谷から上がる破線道を過ぎ、大丸峯への急坂を登る。途中、大岩で一休み。加計峠から1時間ほどで大丸峯。山頂に雨宿りできるトタン小屋がある。東側が開けている。龍頭山、海見山、堂床山、牛頭山などが見える。

山頂の登山ノート
大丸峯山頂
ノブドウ

 西側に踏み跡があり、それを下ったが伐採枝で不明になり、西尾根を下る。30分ほどで車道に出た。周辺は伐採地になっていた。ノコンギクが咲く。実が割れたミツバアケビがぶら下がり、クサギが青い実を付ける。大丸峯が見える。7番鉄塔への標柱がある。南側の横山谷川への展望が開ける。

 西尾根の南側に作業道が入り、北側に林道が通っている。林道を進むと、15番鉄塔が左に見え、さらに進むと14番鉄塔へ出る。水谷三角点は鉄塔下の草薮に隠れていた。五輪山方向へ送電線が延びる。鉄塔下の草場はノウサギのトイレと化していた。あちこちに糞の塊が散乱していた。

 植林地を下り車道に出ると、塩ビ波板の小屋があった。アケボノソウ、ヤクシソウが咲く。進んで行くと事故車両が放置されていた。さらに進むと物置小屋と使われていないプレハブの事務所があった。その先が寺尾トンネルだった。

ノウサギの糞だらけの鉄塔下
ノコンギク

 トンネル入り口に寺尾銀山のレリーフが取り付けてある。手前には寺尾トンネル貫通石が置かれ、中生界の泥質岩類と白亜系の広島花崗岩類の接触部にあり、この貫通石は黒色千枚岩と称する記念の石との説明が書かれている。

 貫通石の前で一休みして、トンネルを通る。反対側の入口には「ふるさとの林道」と書かれたレリーフが取り付けてあった。トンネルを出ると、木の古い道標があり、「寺尾ハイキング ←銀山 →加計町」と書かれている。左の銀山方向に歩いてみた。

 車道の西面が伐採されていた。百々山が見え、その後に大箒山、床尾山の峯が続いている。右に五輪山が見える。573ピーク付近に重機が置かれ、作業道が西へ下りていた。ノリウツギが咲き、ウリカエデに果実が下がる。引き返して、寺尾郷へ下る。

ミツバアケビ
ミヤマガマズミ

 民家を回り、寺尾郷記念碑に出る。シュウメイギクが咲いていた。記念碑の裏面に寺尾郷の由来が書かれている。800年前の堂屋敷真言宗寺院に発し、500年前の銀山開発により、寺尾千軒と言われる大発展をした。昭和38年の大豪雪後、戸数が急減し、昭和53年、全戸離郷した。

 記念碑横の建物を通って、石垣のある鞍部に出る。下って行くと、百々山登山口の道標があった。さらに下ると、古寺尾のウラジロガシへの分岐に出る。40分ほどで水谷の登山口、手前の墓所で一休みした。登山口から30分ほどで交流館に帰着。

ノリウツギ
シュウメイギク
アラカシ
マルバルコウソウ
リョウブ
シラネセンキュウ
アセビ
ヒヨドリバナ
アケボノソウ
ヤクシソウ
ツリフネソウ
クサギ
ウリカエデ
ツリガネニンジン
ムラサキシキブ
アキノキリンソウ


■地名考

 「芸藩通志」長笹村絵図の加計村境に大丸峯、保土原山、八田管ヶ峠山がある。大丸峯は古い山名のようだ。岡岷山の戸谷村獅子舞岩の絵図では「大丸目」としている(下絵図)。

 寛政9年(1797)、広島藩のお抱え絵師だった岡岷山(おかびんざん)は、広島城下から都志見まで約2週間の旅をする。そして『都志見往来日記・同諸勝図』という絵日記を書き残した。

 8月27日、 岡岷山は、加計から豊平へ越す。水谷道を通り千貫石を訪ね、加計峠を下って長笹村に入っている。

 『吉水亭より庭の全景を俯して遠く大田川の流を眺み、遙に佐伯の諸峯を平視し、煙樹梢を重ねて景園中に接す…東に向い山に登る、去年水損の跡ありて、砂石谷川に満つる所あり、此峯を加計峠と云、峯近き所左の方に千貫石あり、高さ三尺ばかり、横五尺ばかりもあるべし、青石にして盆石の如し、下に石を疊て是を乗す、嶺を下りて長笹村に至る、里に近き谷口につくはね多し、庄屋藤左衛門に昼休みし、是より東北に向いて下れば、都志見の山、庄原、鈴張、阿坂諸峰を望む…』(『都志見往来日記』)。

 「去年水損の跡あり」とあり、水谷で1796年、水害があったようだ。同年には江河内谷で大規模な土石流災害がり、記録が残されている。

 「つくばね」というのは、杉や檜に半寄生する植物で、薬草として珍重された。庄屋藤左衛門の家は、現在その当時の建物がほぼそのままに残っている(北広島町HP)。

水谷の千貫石 岡岷山(おか びんざん)

 百々と轟地名

 加計に百々山(ドウドウヤマ)、百々山隧道(ドドヤマ)の地名があるが、戸河内、与一野の字名に百々(ドド)がある。与一野の百々は寺領川沿いの字名である。

 『与一 野では寺領川沿いに西之原があり、その西側に東原がある。百々は水勢が烈しく水音の高い様相を示 すときに用いられ, 百々さんの家もある』(『中世における開発と環境』東晧傳)。

 百々姓発祥の地の一つに、与一野の小字の百々が挙げられている。

 1988年に与一野の百々の下流で、甚大な災害が記録され、平成4年に災害復旧記念碑が建てられた。

 碑文表面 
 昭和63年7月災害 復旧記念碑

 裏面 碑文
 昭和六十三年七月二十日から二十一日未明にかけて戸河内町を襲った集中豪雨は短時間に降雨量二六一ミリに達し特に二十一日一時から四時までの間は一時間に四十ミリを超える記録的な豪雨で町内各所において大規模な土石流が発生するとともに河川の氾濫や道路の決壊、農地の流失、冠水、農林業施設の崩壊及び死者三名、家屋の損壊二七棟等未曾有の被害をもたらした。

 この寺領地域は町内でも特に被害が甚大であったが国及び県の温かい援助と地元住民の熱意により復旧工事は完成した。
 ここに寺領地域の災害復旧を記念して碑を建立する。
  平成四年十二月 
  戸河内町

 (石碑の位置 緯度34°35’18.24 経度132°14’51.86)
  (大歳神社より上流)

1988年7月の水害
一般県道弁財天加計線(戸河内町寺領)
寺領川の増水により流失した県道
(広島県土木建築部)

 正教山の東の江河内谷では、寛政8年(1796)に大規模な土石流災害があった記録がある。「四間四方の岩が流されて座った江河内などはいまだ復旧していない」と記されている(『栗栖家文書』)。


 下記のような百々を含む地名があるが、百々は、ドド、ドウドウ、ドウド、ドウトなどと読む。

 ドドメキ地名がある。
 百々目木、百々目貫、百々女鬼などと表す。

 広辞苑に「とどめき」がある。「轟き」と表す。
 @とどろくこと。〈字鏡集〉
 A溝などが合流して音を立てて流れ落ちる所。
 B濯漑用水をとるために川に築いた横堰(よこぜき)。どめき。

 同じく「とどめく」「轟く」
 (ドドメクとも)
 @とどろく。<名義抄>
 Aがやがやと騒ぎ立てる。

 同じく「とどろ」「轟」
 とどろくさま。音のひびきわたるさま。

 同じく「とどろき」「轟き」
 とどろくこと。また、その音。

 同じく「とどろく」「轟く」
 @鳴りひびく。ひびきわたる。
 Aあまねく名を知られる。有名になる。
 B鼓動がはげしくなる。

 同じく「とど」
 @ものの響く音。また叩く音。どんどん。

 同じく「どうどう」
 @足音高くふみならす音。
 A水の流れ落ちる音。
 B波の打ちよせる音。
 C風のはげしくあたる音。


 「轟」は「水勢が烈しく水音の高い様相」を示しており、「百々目木」なども同様の有様を表現していると思われる。道目木(ドウメキ)、泥目木(ドロメキ)、百目木(ドメキ)などと呼ぶ地名もある。等々力(トドロキ)、驚(オドロキ)、動々(ドウドウ)などとも表す。


 万葉集の「とどろ」

 万葉集に「とどろ」がある。

 [歌番号]14/3392

 [原文]筑波祢乃 伊波毛等杼呂尓 於都流美豆 代尓毛多由良尓 和我於毛波奈久尓

 [訓読]筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに

 [仮名]つくはねの いはもとどろに おつるみづ よにもたゆらに わがおもはなくに

 書紀・古事記の「とどろき」「とどろ」

 日本書紀の鼓(とどろき)
 溟渤以之鼓盪
 溟渤(おおきうみ)以ちて鼓(とどろ)き盪(ただよ)い

 古事記の杼呂(とどろ)
 蹈登杼呂許志
 ふみとどろこし

 とどろ・とどろきは、古くからある言葉のようだ。

太田川 轟浜
太田川 懸附近

 古事類苑(1896年―1914年に刊行)に、安芸国山県郡の里程が記されている。

 『加計(カケ)村加計市 三里六町{至加計村太田川岸四丁三間、從川岸至轟渡、二里九丁五十七間、} 筒賀村』(『古事類苑』)。

 加計村加計市から筒賀村まで三里六町

 加計村太田川岸 四丁三間(441m)

 加計市から轟渡まで二里九丁五十七間

 戸谷村小戸谷から丁川を下って加計村の太田川筋の市に出る。太田川の丁川と滝山川の間の距離が450mほどである。
 轟の渡しは、戸河内インターの上流の轟橋付近のことと思われる。

 1915年(大正4年)に、轟橋が鉄線つり橋として完成している。轟橋の上流左岸は太田川筏流しの始発地で、轟の浜と呼んでいた。

 轟渡は、太田川の箕角附近の地名で、両岸が轟岩に挟まれた激流で、そのとどろきが、轟渡、轟浜と呼ばれるようになったと思われる。

 太田川の百々山隧道付近は懸(カケ)と呼ばれた。

 『加計(カケ)の由来は、懸すなわち崖のことで、西から来た太田川が加計の市(いち)付近で急に進路を南に曲げる。そこは急峻な崖で水勢が激しく衝突するところであった。通志は「もとは懸の字を用ふ」としている(『中世における開発と環境』東晧傳)。

 懸附近の太田川左岸は懸崖になっている。懸附近の水勢を百々と表現したものではないか。百々も轟渡も同じ水勢の別の言い方であったと思われる。

 西中国山地に次のような地名がある。

 ドウドウ滝 大谷川 安蔵寺山南

 ドウドウ(谷) 匹見川 下道川

 ドードーの滝 深谷川 小五郎山西


 百々地名

 宮城県角田市笠島 百々貫(どどぬき)
 宮城県大崎市田尻大沢 百々一(どうどういち)
 宮城県大崎市田尻北小牛田 百々谷地(どうどうやち)
 宮城県柴田郡村田町小泉 百々目木(どどめき)
 山形県鶴岡市羽黒町手向 百々目木(どどめき)
 山形県飽海郡遊佐町白井新田 百々沢南(どどさわみなみ)
 福島県伊達郡川俣町山木屋 百々目木山(どどめきやま)
 福島県安達郡大玉村玉井 百々目木(どどめき)
 福島県南会津郡南会津町糸沢 百々目貫(どどめき)
 群馬県伊勢崎市 境百々(さかいどうどう)
 長野県須坂市  百々川(どどがわ)
 長野県駒ケ根市 百々目木川(どどめきがわ)
 岐阜県岐阜市  百々ヶ峰(どどがみね)
 岐阜県関市   百々目木(どどめき)
 愛知県豊橋市浜道町 百々池(どどいけ)
 愛知県安城市福釜町 百々目(どどめ)
 愛知県日進市米野木町 百々川(どうどうがわ)
 愛知県西加茂郡三好町 百々池(どうどいけ)
 三重県松阪市 百々川(どどがわ)
 三重県伊賀市岡波 百々農栄(ドドノエ)
 滋賀県甲賀市 百々池(とどいけ)
 滋賀県犬上郡多賀町 百々女鬼橋(どどめきばし)
 京都府京田辺市 薪百々坂(たきぎももさか)
 奈良県御所市 百々川(どどがわ)
 岡山県津山市加茂町 百々(どうどう)
 徳島県海部郡牟岐町 百々路山(どどろやま)
 徳島県三好郡東みよし町足代 百々路(どどろ)
 香川県仲多度郡琴平町苗田 百々(どうどう)

 轟地名

 北海道余市郡赤井川村 轟中の川(とどろきなかのがわ)轟ガロウ沢川(とどろきがろうさわがわ)轟滝の沢川(とどろきたきのさわがわ)
 北海道沙流郡日高町 轟淵(とどろきぶち)
 青森県八戸市市川町 轟木前谷地(とどろきまえやち)
 宮城県石巻市北上町女川 轟(とどろ)
 秋田県能代市 轟沼(とどろきぬま)
 秋田県男鹿市五里合鮪川 轟木沢(とどろきざわ)
 福島県田村市船引町春山 轟渕(おとろぶち)
 福島県二本松市 轟川(とどろきがわ)
 新潟県三条市 轟沢(とどろきざわ)
 愛知県豊田市上高町 轟ラ(とどら)
 京都府福知山市 轟水(とどろきみず)
 徳島県勝浦郡勝浦町坂本 轟谷(とどろだに)
 徳島県那賀郡那賀町 大轟の滝(おおとどろのたき)
 徳島県那賀郡那賀町大殿 轟ケ谷(とどろがたに)
 徳島県海部郡海陽町 轟ノ滝(とどろきのたき)轟谷(とどろきだに)
 高知県香美市 轟の滝(とどろのたき)
 佐賀県嬉野市 轟ノ滝(とどろきのたき)
 長崎県諫早市 轟滝(とどろきだき)
 長崎県平戸市 轟池(とどろきいけ)
 長崎県南島原市 轟河(とどろきがわ)
 長崎県南島原市北有馬町丁 轟川(とどろきがわ)
 熊本県八代市 栴檀轟の滝(せんだんとどろきのたき)梅の木轟の滝(うめのきとどろきのたき)
 大分県中津市 轟川(とどろきがわ)
 大分県杵築市 轟(とどろ)轟池(とどろきいけ)
 宮崎県えびの市 轟滝(とどろだき)
 宮崎県東臼杵郡椎葉村 轟谷(とどろきだに)
 佐賀県東松浦郡玄海町 轟木溜(とどろきだめ)
 鹿児島県鹿児島市 轟滝(とどろきだき)
 鹿児島県薩摩川内市 轟川(とどろきがわ)
 鹿児島県曽於市 轟木川(とどろきがわ)
 鹿児島県霧島市 轟木滝(とどろきだき)
 鹿児島県奄美市 轟の滝(とどろきのたき)
 沖縄県石垣市 轟川(とどろきがわ)
 沖縄県名護市 轟川(とどろきがわ)轟の滝(とどろきのたき)

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カシミール3Dデータ

総沿面距離19.3km
標高差611m

区間沿面距離
太田川交流館
↓ 3.7km
水谷
↓ 3.5km
加計峠
↓ 2.0km
大丸峯
↓ 3.0km
神ヶ尾
↓ 7.1km
交流館

 

 
 
与一野 字名 百々の位置
(『中世における開発と環境』)
 
広島県北西部豪雨災害 1988年7月20−21日
(広島県土木建築部)
 
水谷の千貫石 岡岷山(おか びんざん)

戸谷村獅子舞岩図に長笹村の大丸目(大丸峯)が見える
 
墓所から見た加計の街
千貫石
千貫石
海見山、堂床山、牛頭山を望む
龍頭山を望む
大丸峯
大箒山と五輪山
寺尾郷碑裏面
轟浜
轟岩付近と轟橋
轟橋から上流方向
太田川 懸附近
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より) (ピンク線は岡岷山が歩いた加計峠=北広島町HPから)