6:20 太田川交流館 気温19度 晴れ
6:35 登山口
7:25 鎌ヶ原入口
9:00 寺屋敷
9:35 五輪山
10:50 5番鉄塔
11:05 6番鉄塔
11:40 7番鉄塔
12:25 阿正谷
12:40 穴阿橋(あなあ)
13:00 よろい橋
13:40 百々山登山口
14:10 ウラジロガシ
14:30 百々山
15:00 寺尾
16:35 香草
16:55 瀧ノ本
17:10 太田川交流館
交流館駐車場から旭橋に出る。山々には霧が下りて、五輪山も百々山も見えない。加計小学校に石碑があった。加計小学校創立百年記念の碑だった。明治8年「学舎遷喬舎」を加計小学校と名称を改めている。
交流館前を通り、旧道の商店街に出る。加茂鶴の看板がある。加計中央バス停の行先に、津浪、芸北、修道、寺領などがある。西進すると、五輪山登山口、吉水園の道標があった。東へ進み、北へ曲がる。吉水園に入る道を過ぎると登山口。五里山登山コース案内図の看板があり、車が止められる。寺屋敷から五輪山へ至る道が記されている。
湿った道を進み、民家の横を通る。U字に曲がり、山道に入る。イノシシが掘り返した跡が続く。棘の無いサンショウに黒い実が付いていた。ガマズミに真っ赤な実。霧の下に加計の里が見える。植林地の左手に墓所があった。そこからすぐに長迫の道標がある。墓所から長迫へ道が下りている。
アサクラザンショウ |
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アキノキリンソウ |
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小谷の右岸の道に土砂流出坊地の標柱が立っている。小谷に小さい堰堤が作られている。竹林に入ると、蚊が寄ってきた。竹林の中に石垣が組まれている。炭焼き跡か。掘り下げた山道を進む。導水管の破線を越えて進むと砂走。この辺り、露出した砂が多い。
テンテン山の道標、落下した市分れの道標を過ぎる。尾根の入口に石柱があった。苔むして読めないが、裏に「二一」と読める。そこから少し進むと、深谷、鎌ヶ原入口の道標がある。石柱があり、正面に猪山の字があり、右側面に→山道の字がある。裏面、左側面にも字があり、「株式会社原本材木店 広島市楠木」と読める。
キバナアキギリが咲いている。送電線を過ぎると、4番鉄塔へ上がる標柱がある。山道に岩が多くなり、ゴリラ岩の下に出る。頭上に大岩がせり出している。新しく岩が落ちてきた所があった。立野分れに3番鉄塔へ下りる標柱がある。立野のこの辺りの西面の字名である。
立野から上を見ると、岩尾根になっていた。一本橡にトチノキは見当たらない。この辺り、山肌がガレ場になっている。ところどころ、下へ分岐道がある。植林地に日が射し、明るくなった。石柱に「三七」と書かれ、そこから真下に向かって伐採されていた。
キバナアキギリが群生していた。水場の道標は落下していた。岩から水が染み出ていた。林の間からガスに煙る山肌が見える。山水画の趣がある。ツリフネソウが一輪咲いていた。登山口から2時間半ほどで寺屋敷。「寺屋敷、安中道、猪山道」の道標は倒れていた。
西側に入ってみたが展望地は無かった。ピークに石柱がある。寺屋敷から東へ進むと、すぐに安中道への分岐がある。植林地の小尾根を進む。尾根の平坦地を南へ進むと五輪塔がある。石が三段に積まれている。五輪山の説明板によると、栗栖氏が京以来亡き人の菩提を弔って五輪の塔を建てたと言う。
オオバショウマ |
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シラネセンキュウ |
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五輪塔から少し登ると五輪山。展望は無い。三角点にUNICODEが取り付けてある。南へ下ると作業道に出る。作業道は五輪山の東を通っている。イノシシの掘った跡があり、水が溜まっていた。作業道が東へ折れた所で尾根に入る。尾根を下ると再び作業道に出た。尾根の東西から作業道が交わっていた。
ヌタ場がある。東へ下りる分岐道がある。作業道終点から尾根に入る。植林地をしばらく下り、5番鉄塔に出た。登山道から4番、5番と続き、6番鉄塔への標柱がある。木橋を渡って6番鉄塔へ進む。開地から水谷の山々が見える。6番鉄塔から引き返して山道を進むと作業道に出た。
セイタカアワダチソウが伸びた作業道をジグザグに下る。展望が開け、大丸峯が見える。法面が崩れ、下の作業道まで土砂が溢れていた。作業道から7番鉄塔へ下る。そこから横へ進み、再び作業道に出る。途中から舗装路に変わる。水量がある小谷で一休み。
アキノキリンソウ |
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アサギマダラ |
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アサギマダラがアザミに留まる。マークは無かった。阿正谷の一番上の民家に出た。眼下に阿正谷の民家が見える。丁川の車道に出ると、クルミの実が生っていた。瓦葺の社があった。車道の電柱には川登とあった。阿正谷を渡る。穴阿橋(あなあ)を渡る。この辺りの字名は穴ヶ迫である。
田ノ原に「ホタルの庭」の看板があり、近くに正龍山教念寺の掲示板がある。車道は尾根をU字に曲がり、中電の取水施設を通る。右岸に魚道が見える。よろい橋に出て、水谷林道を結ぶ間道に入る。間道から正教山、遅越の山が見える。五輪山を振り返ると、さきほど通った鉄塔が随分高い所にあった。
水谷林道を進み、谷を渡ると、皿山上水場がある。車道の上のヤマナシが鈴生りに実っていた。再び水谷を渡ると、百々山登山口。入口にオフロードバイク通行禁止の看板がある。谷の傍で一休み、道に石垣が組まれている。墓所があり、戦歴が詳しく書かれていた。昭和十三年、江西省丁家山高地に於いて名誉の戦死、享年三十四才とあった。
ヤマハッカ |
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ガマズミ |
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石垣のある林道を進む。アキノキリンソウが咲く。谷側にも分岐道があるが、草薮になっている。尾根側の緩やかな道を進む。上の谷に出ると分岐し、右へ進むと石垣があり、その先に小屋があった。小屋の前に、木に取り付けた看板があった。「神さん木天然記念物」。小屋には「古寺尾」と彫られた横板が取り付けてあった。
垣の横を進んだ先にウラジロガシがあった。蔓が巻き、主幹は無いが、伸びた枝から葉が出ていた。加計町天然記念物「古寺尾のウラジロガシ」の看板がある。幹囲7m30cm、樹高22m00cm、樹齢800年とあった。幹にはしめ縄が張られていた。年末にはしめ縄を張り替えると言う。
ウラジロガシから尾根を登り、20分ほどで百々山。三角点にユニコードが取り付けてある。山頂にトタン葺きの社がある。西側の反射板は草薮と化し、展望は無い。東の尾根を下る。ハチの巣のような、蛇の抜け殻のようなものがあった。鞍部に「登山はこちら」の道標があった。北側の谷から上がる道が南側に通じていた。
アレチノヌスビトハギ |
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ヒヨドリバナ |
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東の尾根を進む。寺尾の鞍部の手前の尾根上に墓石があった。少し離れた所に、自然石に字が彫られていた。「釈道晃…俗名…」とあった。鞍部には石垣の道が通っていた。東へ進むと建物がある。横に寺尾記念碑とかかれた石碑があった。その横の石碑には「寺尾郷昭和二十年以降生存者名」と書かれ、多くの名が刻まれていた。
石碑の前には「加計の民話伝説 寺尾の銀山」の看板があり、「一時は千戸の町ができ上がり、劇場もあるほどの賑やかさであったということです」と書かれていた。車道を西へ進むと、民家があり、車が止まり、猫が鳴いていた。車道は一番奥の民家で行き止まりだった。
車道から草薮を下ると、水田跡の石垣が続いていた。石垣は段々でスギ林だったが、猛烈な草薮と湿地と化していた。谷沿いを下る。途中、谷を堰堤が塞ぐ。黒い太いホースが谷を下りていた。ようやく右岸の山から下りる山道に出た。下方で水煙が舞っていて、温泉でもあるかとおもったが、ホースが破れて、そこから水が霧のように吹きだしていた。
アキチョウジ |
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ツリフネソウ |
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途中、ササを集めた円座があった。山道は谷へ下り、堰堤と堰堤の間の作業道に出た。左岸のコンクリートの作業道は苔むして、滑りやすい。途中、石灯篭と瓦葺の立派な社があった。石が鎮座しているが読めない。作業道から香草の墓所に出た。太田川の対岸に遅越の集落が見える。
墓所から車道を下り、旧道に出る。正面に五輪山が見える。百々山から下りる谷の両側は、山肌が金網で覆われ、崖になっている。この辺りの字名は「瀧ノ本」という。木の間から谷を覗くと、水量が多かった。
百々山隧道を通り、すぐに水谷林道へ折れると、加計村出身の力士、大田川徳治郎の碑がある。加計村空条の生まれで、越後黒川藩のお抱え力士として活躍した。天明4年(1784年)に没している。戒名は百々山という。永代橋の前を通り、川沿いの道を進むと、鉄橋跡が歩道になっていた。鉄橋を渡り、交流館に帰着。
アキカラマツ |
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ナンテン |
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サザンカ |
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ヤブレガサ |
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ヌルデ |
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ヤクシソウ |
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ミズヒキ |
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ツリガネニンジン |
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ヤマナシ |
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ハナタデ |
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ノブキ |
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ゲンノショウコ |
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テリミノイヌホウズキ |
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クサボタン |
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■地名考
五輪山山頂に由来の説明板があるが、「芸藩通志絵図」には、瀧山はあるが、五輪山は見えない。
『「芸藩通志」には、五輪山は滝山の名で出ているが、この墓の記述は見当たらない。五輪山という名称と五輪塔との因果関係については、「加計町史」にも触れていない』(「リュックかついで」)。
記録にある加計
1633年 かけ
年貢歎願書控「かけ」(寛永十年)
1638年 賀計
安芸国山県郡賀計村地詰帳(寛永十五年)
1825年 もとは懸の字
芸藩通志(文政八年)「もとは懸の字を用ふ」
安藝国図(聖心女子大学 時代不明)
坪野・津加の地名があるが加計は無い。
安芸国絵図(1835年=天保6年) 賀計
国郡全図(1837年=天保8) 加計
安藝国図(聖心女子大学)に加計は無い |
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安芸国絵図の賀計
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国郡全図の加計 |
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加計の由来は「崖」の意とするものと、川舟が往来していたことから、舟をつなぐ意味の「かける」に由来するという説がある。
「加計(カケ)の由来は、懸すなわち崖のことで、西から来た太田川が加計の市(いち)付近で急に進路を南に曲げる。そこは急峻な崖で水勢が激しく衝突するところであった。通志は「もとは懸の字を用ふ」としている(『中世における開発と環境』東晧傳)。
懸附近の太田川左岸は懸崖になっている。
市と懸
(『中世における開発と環境』)
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古事類苑(1896年―1914年に刊行)に、安芸国山県郡の里程が記されている(下に複写あり)。
『加計(カケ)村加計市 三里六町{至加計村太田川岸四丁三間、從川岸至轟渡、二里九丁五十七間、} 筒賀村』(『古事類苑』)。
加計村加計市から筒賀村まで三里六町
加計村太田川岸 四丁三間(441m)
加計市から轟渡まで二里九丁五十七間
戸谷村小戸谷から丁川を下って加計村の太田川筋の市に出る。太田川の丁川と滝山川の間の距離が450mほどである。
轟の渡しは、戸河内インターの上流の轟橋付近のことと思われる。
1915年(大正4年)に、轟橋が鉄線つり橋として完成している。轟橋の上流左岸は太田川筏流しの始発地で、轟の浜と呼んでいた。
カケ地名
「カケ (掛, 缺,欠,懸など) のつく地名は、たいてい崖からきたものと見なしうる。カケ山、カケ畑、カケ田、カケ地、カケ浜、カケ浦、カケ川などの地名で、崖ばたにあればまずこれと見てよかろう。鞍掛の掛もやはりこれであり、白掛、黒掛、貝掛、掛淵その他いろいろある。加慶
(カケ又はガケ)、賀慶という佳字をあてている地名もある。大掛山や欠山などの山にしても、その他の地名にしても、カケのつく地名が崖と結びついている実例はほうぼうにある(『崖を意味する地名』松尾俊郎)。
アイヌ語 ke は、「削る」「掻く」の意がある。
ka-ke カケ 上面・削る
ci-ke-p チケプ 自分・削った・者 地球岬(断崖絶壁)
(cikew チケウと訛る)
repun-ke-p レプンケプ 沖の方へ・削る・者 礼文華(断崖)
ho-ke-p ホケプ 川尻・削る・もの
wakka-ke-p ワッカケプ 水垢・掻く・もの(水垢取り)
芸藩通志絵図の百々山付近に前地外とある
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百々山の字名は「丁川平」、百々山西面の字名は、「瀧ノ本」で、太田川に懸崖(タキ)となって落ちている。「芸藩通志絵図」では、「前地外」となっている。「マエジ」は温井に小字がある。
「タキは岩壁、懸崖の意で、山頂の岩壁、山の中腹にある岩壁、渓谷の側壁、すべてタキと呼んでおり、水が落下している滝とは無関係な語意である」
「東條操編『全国方言辞典』によると、タキは四国でも用いられている。タキに滝、岳の字」を当てることもある(「西中国山地」)。
百々山の字名、「丁川平」の「平」は崖を表していると思われる。滝山川右岸に「大平」、左岸に「滝山」の字名がある。深山川の両岸に、「鄙平」「陰地平」があり、崖の意であろう。
「平」地名のうち、52.9%が崖・急傾斜地
『「平」らな崖・傾斜地名について』(人権教育思想研究所教授 加藤
昌彦)
1.調査から見えた「ひら」「平」地名の姿
調査地域を、平らな地形でない地域(崖や傾斜地と含む地域)と、平坦地
であるところを分類し、次頁(下表)の表にしました。計136地域のうち72地域、約52.9
% が崖や急傾斜地をふくんでいました。
方言「ひら」が、『全国方言辞典』(東京堂出版 1951年刊)と『日本方言大辞典』(小学館 1989年刊)の「ひら」項目において、崖や傾斜地等を意味している地域を、青森から各県別に並べてみます。都道府県内の地域の後の数字は、出て来た数を示しています。
青森県 全域・県南部・三戸郡2・上北郡・野辺地
岩手県 全域・気仙郡3・岩手郡・和賀郡
秋田県 全域・雄勝郡・鹿角郡
山形県 県北部・東田川郡2・最上郡2・飽海郡・西置賜郡
福島県 南会津郡3・大沼郡・耶麻郡
栃木県 安蘇郡
群馬県 全域・利根郡・勢多郡・吾妻郡2
東京都 八王子・南多摩郡・三宅島2・御蔵島・大島
神奈川県 津久井郡
山梨県 全域・南巨摩郡・南都留郡
新潟県 全域3・東蒲原郡3・北蒲原郡2・西頚城郡2・佐渡2
長野県 全域2・下高井郡・北安曇郡3
南安曇郡・諏訪・下水内郡
富山県 西礪波郡2・東礪波郡2・中新川郡
石川県 能美郡・河北郡
岐阜県 益田郡・大野郡2・揖斐郡
静岡県 全域2・榛原郡・駿東郡2・磐田郡・賀茂郡
愛知県 北設楽郡
滋賀県 高島郡
京都府 竹野郡
奈良県 吉野郡2
和歌山県 西牟婁郡・東牟婁郡
鳥取県 全域・八頭郡・西伯郡2
島根県 全域2・出雲・隠岐島・八束郡・仁多郡・八頭郡・鹿足郡
岡山県 真庭郡
広島県 高田郡・安芸郡
山口県 豊浦郡
香川県 高見島
長崎県 対馬2・南高来郡
熊本県 天草郡
大分県 全域2・速見郡
宮崎県 東諸県郡
鹿児島県 肝属郡3・揖宿郡・南西諸島・加計呂痲島・奄美大島・喜界島2・沖永良部島・与論島・薩摩
沖縄県 全域・国頭郡2
「ピラ(坂)という言葉は、古語では、ヒラという形で出てくる。<よもつヒラ坂>というように古事記に現れる。方言では、鹿児島でヒラという形で使われ、意味はアイヌ語と同じ、<崖>である。アイヌ語地名研究家の山田秀三氏によれば、東北地方ではフィラと唇を合わせた発音をし、意味は<坂・急斜面・崖>である。そこで沖縄のピラまで、北から順番にこれらの言葉を並べてみた。
ピラ pira(崖)アイヌ語
フィラ fira(坂・急斜面)東北方言
ヒラ hira(坂) 日本語古語
ヒラ hira(崖) 鹿児島方言
ピラ pira(坂・急斜面) 宮古・八重山方言
日本列島の南北端にP音が残り、東北がf音、古語や鹿児島でh音となって、まるで
古代からの音の歴史の流れが地理上に置かれたようになっている。言語地理学の典型
のような配置だ。柳田国男が「蝸牛考」の中でカタツムリに関する各地の方言を比較
して、古い言葉ほど日本列島の周辺に残ることを示しているが、まさにその形を成し
ている。宮古・八重山のピラはアイヌ語のピラとまったく同じ音で、日本語最古の音
であろうといわれるp音をともに保っている」(65〜66頁)
アイヌ語の「ピラ」、それが「フィラ」、そして「ヒラ」になった。
pira→fira→hira という変化です。
「ピラ」が「フィラ」、そして「ヒラ」と発音されるようになり、それが平(ひら)と日本漢字で読まれ、それがまた“たいら”とも変化していくことになります。
(以上『「平」らな崖・傾斜地名について』から)
西中国山地の地形方言にヒラ・ヒラツコがある。
ヒラ・ヒラツコは尾根の側面、山の傾斜面の意味がある(「西中国山地」)。
アイヌ語のpira ピラ地名
(アイヌ語・カナ・意味・地名の順)
tuy-pira トイ・ピラ 崩れ・崖 豊平
pira-kes ピラ・ケシ 崖の・末端 平岸
wakka-pira ワッカ・ピラ 水・崖 赤平
wen-pira ウェン・ピラ 悪い・崖 上平
pira-etu ピラ・エトゥ 崖・鼻 平糸
pira-un-pet ピラン・ペツ 崖・ある・川 美蘭別
aykap-pira アイカプ・ピラ 愛冠の・崖 愛冠
noka-pira ノカ・ピラ 形象の・崖 糠平
pira-or ピラ・オロ 崖・の所 広尾
pira-utur ピラ・ウトウル 崖・の間 平取
ar-pira アル・ピラ 片側・崖 安平
hur-pira フル・ピラ 丘・崖 古平
yam-wakka-pira ヤムワッカピラ 冷水崖 止若
カシミール3Dデータ
総沿面距離20.6km
標高差667m
区間沿面距離
太田川交流館
↓ 5.5km
五輪山
↓ 5.2km
阿正谷
↓ 4.8km
百々山
↓ 3.2km
香草
↓ 1.9km
交流館
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