6:20 イヌガ谷 気温14度 晴れ
6:25 熊野滝橋
7:50 熊ノ滝山(803m)
8:10 掘割
8:40 オオボウキ谷
10:25 クロタキ谷鞍部
11:50 大箒山
12:20 登山口鞍部
13:15 956P
14:05 床尾山
14:20 床尾峠
15:20 大平山
15:55 作業道終点
16:25 熊野滝林道の作業道終点
16:40 熊野滝林道終点
17:15 熊野滝橋
17:20 イヌガ谷
イヌガ谷の橋下を出発。、橋下に「渓流名丈ヶ谷川」と書かれた白い標柱が二本見える。林道熊野滝線の看板の所から林道に入る。刈り取り近い稲が穂を垂れている。熊野滝橋の手前から板ヶ谷右岸の山道に入る。
イヌガ谷を渡り、大きいスギ林の中に入る。ツリフネソウが咲き、スギ林下に石垣がある。クリゴヤ谷を渡り、草薮を進む。虫木谷を渡ると石垣がある。石垣を越えて尾根の末端に取り付き、急坂を登る。ママコナが多い。
枝ヤブを進む。オトコヨウゾメが真っ赤な実を付ける。ヒノキ林に入ると踏み跡がある。主尾根に入ると、水が溜まるヌタ場があった。出発から1時間半ほどで熊ノ滝山。ヒノキ林で展望は無い。山頂から20分ほどで掘割に下る。
ツリフネソウが群生する松原林道を進む。キクバヤマボクチにツボミが出て、ウドは丸い花芽を付ける。ミヤマガマズミは真っ赤な実。ママコナ、コセンダングサが群生する。シモコ谷の対岸の谷に水位観測所がある。オミナエシかと思ったが、黄色と白色の花が混ざる。オトコオミナエシという雑種もあるようだ。
眼下に滝が見えると、オオブナ谷とオオボウキ谷の合流点。クサアジサイ、ヤマジノホトトギス、キンミズヒキ、アキチョウジが咲く。オオボウキ谷右岸の林道を進む。ツリフネソウ、ツルキケマンが多い。コンクリート橋に水が溢れていた。ここで顔を洗い一休み。橋の上にミツバアケビの実がぶら下がっていた。
エゴノキに丸い実が下がる。二つ目のコンクリート橋を渡る。ツリバナに赤い実が下がる。三つ目の端を渡る。クマノミズキに緑の実が付いている。アキノキリンソウが咲く。右岸の植林地に看板が見える。踏み跡があるが草薮になっている。四つ目の橋付近で林道が右岸に入っているが草薮。
ミヤマガマズミ |
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コセンダングサ |
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五つ目の橋を渡ると林道終点だが、そこからさらに林道が北へ延びていた。延びた林道を進むとすぐに西側へ入っていた。そこから山道を北へ進み、境界線のある展望地に出る。苅尾山と掛頭山が見える。境界尾根の北側は伐採され、ヒノキの幼木が植えられていた。
引き返すと、東側に山道が通っていた。薮になっているが、林道終点から入る山道に合流し、クロタキ谷鞍部に出た。薮尾根を登る。西側に深入山、右に苅尾山が見える。ピークに進むと前方に大箒山が見えてくる。
オオホウキ谷鞍部に下りる。鞍部には掘り下げた道が通っていた。薮尾根を登り、クロタキ谷鞍部から1時間半ほどで大箒山。東の登山道を下る。ヤマカガシの幼蛇が、山道に潜んでいた。セミの抜け殻が枯木に留まる。登山口の鞍部に下りて、馬道に出る。
馬道はオオホウキ谷とサル谷の鞍部を通り、南へ登って尾根に出る。馬道にオオウラジロノキの実が落ちている。尾根に出ると、東面は皆伐され、温井ダムへの展望地になっていた。眼下にダムが見え、右に高鉢山、左に五輪山が見える。尾根は左も右も皆伐され、温井から上がっている林道が見える。山腹を通る山道も見える。
低いササの尾根を南へ進む。ガマズミの赤い実が多い。馬道は尾根の西側の樹林に入る。枯木林まで進むと、倒木が道を塞ぐ。12年前に通ったときは、風で折られた木が立っていたが、今は皆、倒木になっていた。倒木を過ぎると大きいブナがある。
D峯から西へ進む。大箒山から2時間ほどで床尾山。三角点に座って休憩。三角点にコイン状のICタグが取り付けられ、unicodeの字が読める。南西の高鉢山にも取り付けてあった。15分ほどで床尾峠へ下った。峠にイノシシの糞があった。南から上がる林道は湿地のようになっていた。
植林地を登り、床尾峠から1時間ほどで大平山。山頂から北面の作業道に出た。作業道にヌタ場があった。作業道はH峯から北へ延びる尾根に沿って、続いていた。作業道は900m付近で終点。東側の下に作業道が見える。ヨコエキから上がる谷に林道が通っており、そこから上がる作業道のようだった。
終点から尾根を下り、熊野滝林道から上がる作業道の終点に向かって下る。ヒノキ林の間から深入山が見える。30分ほどで熊野滝林道から上がる作業道終点に出ると、作業道はさらに東へ延びていた。
深入山、熊野滝山を見ながら作業道を下る。熊ノ滝山の南面に懸崖が見える。懸崖下の谷には滝があるのだが、熊ノ滝は懸崖か、滝かのどちらかを指していると思われる。15分ほどで林道終点。集落に近づくと、板ヶ谷右岸に石垣が見える。林道終点から40分ほどでイヌガ谷へ帰着。
タカクマヒキオコシ |
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アキチョウジ |
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アキノキリンソウ |
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ヤマジノホトトギス |
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ツリフネソウ |
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ナガミノツルキケマン |
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エゴノキ |
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ツリバナ |
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クマノミズキ |
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アケボノソウ |
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オトコヨウゾメ |
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ガンクビソウ |
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ハナトラノオ |
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■地名考
「大箒山は戸河内町と加計町の境界にある山である。『戸河内森原家手鑑帖』(1715年)に大箒山の山名はない。加計町側の『加計村御建山御留山野山腰林御改帖』(1707年)に大はうき≠ニあるのが初見と思われる。大箒山の山名は加計町側の呼称が一般化して現在も用いられていると考えるのが穏当のようだ」(「西中国山地」桑原良敏)。
「点の記」に、大箒山は二等三角点で点名は大坊木(おおぼうき)とあり、所在地は戸河内町大字松原、俗称大箒山と言う。選点は明治26年と古い。点名の大坊木≠ヘ大箒山の東面、加計側の小字名である。南東の668.6mピーク(点名 上温井)の字名は大坊木≠ニなっている。温井側には大枋木林道(おおほうき)が通っている。
加計の地籍図によると、大坊木は山頂からカジヤ谷の北面、滝山川と戸河内境に挟まれる大箒山東面辺りをいう。
「温井ではオオホウキ、松原、杉泊ではオオボウキと濁音で呼ぶ人が多い」(「西中国山地」)。
杉泊の呼び名のオオボウキが、明治に入って地籍を決める時、大坊木と表したと思われる。戸河内の松原でもオオボウキと呼んでいるのは、「鉄の道」で松原と杉泊が繋がっていたためだろう。
箒の字をいつから当てるようになったのか定かでないが、比較的新しいと思われる。広島県統計年鑑を見ると、昭和元年(大箒山)、昭和29年(大坊木)、昭和33年(大箒山)と変遷している。
「登山口となる加計町温井の里には、江の淵という所がある。『芸藩通志』に、『スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した所だ』という里人の伝承が紹介されている」(『リュックかついで』)。
伯耆国(ほうきのくに)の由来
伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという(ウィキペディア)。
記録にある加計
1633年 かけ
年貢歎願書控「かけ」(寛永十年)
1638年 賀計
安芸国山県郡賀計村地詰帳(寛永十五年)
1825年 もとは懸の字
芸藩通志(文政八年)「もとは懸の字を用ふ」
加計の由来は「崖」の意とするものと、川舟が往来していたことから、舟をつなぐ意味の「かける」に由来するという説がある。
「加計(カケ)の由来は、懸すなわち崖のことで、西から来た太田川が加計の市(いち)付近で急に進路を南に曲げる。そこは急峻な崖で水勢が激しく衝突するところであった。通志は「もとは懸の字を用ふ」としている(『中世における開発と環境』東晧傳)。
「昔の茨城弁集」から
崖の土浦での一般的な呼称は『がげ』であるが、その他『がげっちょ・がげっぽ』がある。中には『がんげ・がんけ・がっけ・ばっけ』と言う人もいた。
『広辞苑』には『ばっけ』が掲載され、関東から東北にかけての方言とある。『はけ』とも呼ばれる。県下では、久慈郡で岩壁のことを『いわっぱげ』と言う。
現代語の『がけ』とは、『外力によって掃かれたあるいは剥がされた処』の意味で『欠け』に通ずるのではないだろうか。
標準語では、『がけ』は古くは『かけ』(懸けの意味が有力とされる)と言い『きりぎし』とも呼んだ。『きし』とも言う。
語源説は、@懸けの意味、A削懸け(きりがけ)の意味、B欠け、C岸険の音、等がある。
『釈名』には『岸険(がけ):きしたかくけわしき所を云。音也、訓にあらず。古歌にほきぢとよめるもがけ也。ほはふかき也。ふとほと通ず。きはきし也、ふかきし也、下を略す。今も筑紫にはほきと云。』とある。
『俚言』によれば江戸時代には『がけ』と呼んでおり、田舎では古くは『かけ』と呼んだと言う。『懸岸』という言葉があるので『懸け』の義としている。
『語源辞典』には、(古くはかけ)@カケ(懸)の義、Aキリガケ(削懸)の略か、Bカケ(欠)の義、Cカタカケ(片闕)の反、Dガケ(岸険)の音 とあるが、@が有力とされる。
現代標準語を中心に考えれば、崖の『かけ』(懸け)が『はけ』となり、さらに促音化・濁音化して『ばっけ』となったと考えるのが自然と思われる。
貝原益軒は崖は岸険の音読みとしているが、『がんげ・がんけ』はさらに近い。また『ほき』とも言う。九州では穴が開くことを『ほげた』と言うので『ほき』は穴の開いたところに意味の可能性が高い。しかし、『はけ』と『ほき』ハ行音とカ行音の組み合わせなのである。また『はけ』と『かけ』は音通することから、『はけ』『かけ』『ほき』は同源の可能性が高い。
ガケ方言(「昔の茨城弁集」)
・がけくら:絶壁:奈良吉野郡・和歌山東牟婁郡。
・かけご:崖・絶壁:三重一志郡。
・がけす:崖・絶壁:岐阜県飛騨。
・がけっくら:絶壁:奈良吉野郡・和歌山東牟婁郡。
・がけっちょ:崖・絶壁:静岡賀茂郡・愛知北設楽郡・三重・大阪泉北郡・奈良・和歌山。
・がけっちょー:崖・絶壁:広島三次市・広島双三郡。
・がっけと:崖・絶壁:埼玉秩父郡・岐阜郡上郡・愛知東三河・島根飯石郡・島根大原郡・広島高田郡。
・がけっぱた:崖・絶壁:山形。
・がけぱた:崖・絶壁:山形。
・がけっぷし:崖・絶壁:山形西村山郡。
・がけっぽ:崖・絶壁:青森西津軽郡・福島石城郡・栃木。
・がけつら:崖・絶壁:愛知八名郡。
・がけと:崖・絶壁:愛知南知多郡・京都北部。
・がけばた:崖・絶壁:愛知豊橋市。
・がけはな:崖・絶壁:愛知北設楽郡。
・がけはば:崖・絶壁:富山東礪波郡。
・がけぷし:崖・絶壁:山形西村山郡・山形南村山郡。
・がけぷす:崖・絶壁:山形。
・がけぶつ:崖・絶壁:山形。
・がけぷつ:崖・絶壁:山形。
・がけら:崖・絶壁:福井敦賀郡・福井坂井郡・兵庫出石郡。
・がけらっば:崖・絶壁:千葉千葉郡。
・がけらっぱ:崖・絶壁:千葉千葉郡。
・がけわら:崖・絶壁:山形東村山郡・山形西田川郡。
・がけんちょ:崖・絶壁:三重阿山郡。
・がけんと:崖・絶壁:京都北部。
・がけんとー:崖・絶壁:茨城久慈郡。
・がけんどー:崖・絶壁:静岡子笠郡・静岡安倍郡。
・がけんぼち:崖・絶壁:静岡引佐郡。
・はけ:崖:群馬多野郡・埼玉秩父郡・東京八王子・神奈川津久井郡・富山射水郡・山梨北都留郡。
・ほき:大分・佐賀・鹿児島:辞書掲載語。山家集にもある。
「ほうき」の語源
「伯耆」とは、旧国名「伯耆国」のなごりで、現在の鳥取県中西部と島根県東部の一部を含む地域では今でも多くの「伯耆○○」という地名や旧跡が残っております。その中でもとりわけ有名なのが「伯耆富士(ほうきふじ)」「伯耆大山(ほうきだいせん)」でしょう。(元々の伯耆国の「ほうき」の語源については「山脚が断崖となって水に落ちるところ」など諸説あるようです)(伯耆町HPから)。
旧加計町の歴史
町内から若干の石器と弥生式土器等が発掘されており、加計地方における人の住居は、紀元前にさかのぼると思われます。また、古墳時代の集落が存在していたことを物語る遺跡として、津浪寺原古墳群、遅越古墳群(町史跡)等が発掘調査されています。
鎌倉時代末期には、栗栖氏が太田郷一帯の現地支配者になったといわれ、その一族が拠ったとされる城跡が町内に数ヶ所残されています(安芸太田町HP)。
『芸藩通志』は栗栖氏について、
「高基一喜太郎帰源一親兼一親高一親忠一権頭(こんのかみ)某の系を示し、世々戸河内発坂(ほっさか)城に居る、権頭敗亡して家絶ぬ」とする。そして高基は紀を姓とするという。
紀氏は紀伊、紀の国の在であり、この近くでは紀臣が出雲・伊予に居住した(『中世における開発と環境』)。
熊ノ滝山の山名は南面の懸崖か、谷の滝を指していると思われる。滝山川左岸に滝山があり、懸崖か滝が山名になっている。『芸藩通志』絵図では「瀧山」となっている。
滝山峡右岸の向山黒滝(三角点)など、懸崖や、滝が山名になる場合が多い。
西中国山地地形方言「ヒラ」は、尾根の側面、山の傾斜面のことである。大平山は「ヒラ」に該当すると思われる。
大箒山の「ホウキ」は、滝山峡右岸の三角点に「大坊木」があり、大箒山東面、滝山峡右岸の小字名である。崖の方言に「ホキ」があり、伯耆町HPにも崖を指摘しており、崖に関連する地名であるのかもしれない。
マタギ言葉ハケ
アイヌ語の中にも偶然かも知れぬが似た語がある。国後島の大八卦(ホロボツケ)、一名ノボリパッケ、島中の第一の高山なりと大槻氏風土記に見ゆとある。ノボリは即ち山であらうから此バッケも切崖のことかも知れぬ。バチェラア氏語彙には、Pake=the
head(頭)、サパ(頭)に同じであるが、永田氏の蝦夷語地名解にはペシパケ岬、ペシは崖、パケは端、平なる山側とある(「地名の研究」柳田国男)。
マタギ言葉 |
アイヌ語 |
日本語 |
ハケ・ハッケ・ハッケィ・ハッキ |
パケ
pake |
頭 |
カシミール3Dデータ
総沿面距離18.5km
標高差512m
区間沿面距離
イヌガ谷
↓ 2.0km
熊ノ滝
↓ 5.8km
大箒山
↓ 3.5km
床尾山
↓ 2.3km
大平山
↓ 4.9km
イヌガ谷
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