山歩き

梶ノ木…掘割…床尾峠…虫木ノ峠
2018/9/16

板ヶ谷…梶ノ木…掘割…長原…ウシガ原…床尾峠…オオブナ谷…虫木ノ峠…板ヶ谷

板ヶ谷
ガスの山並み
メタセコイア?
専立寺
墓所の石柱
エビフライ
河内神社
ガスが散る
梶ノ木の大スギ
道智院
道智院
梶木池
民家の横を通って谷へ
谷のコンクリート桝
掘割
谷を進む
左岸の山道を進む
展望地から見た正教山
長原集落に出る
ナガハラ川(西の川)
ホドハラ川右岸の水田
シャクダ谷
堰堤から下流方向
ウシガ原
ホドハラ川鞍部
林道に出る
眼下に杉ノ泊
イワクラ谷
床尾峠
峠から作業道に出る
作業道から下の作業道へ
林道終点へ下りる
林道終点から見える大箒山 右
伐採されたナメラ谷奥の山
サル谷のコンクリート橋
オオボウキ谷、オオブナ谷合流点下流の滝
虫木ノ峠
大平山
陸軍歩兵曹長の墓
板ヶ谷に下りる
6:10 板ヶ谷チェーン着脱場 気温21度 晴れ
 

6:45 河内神社
7:35 梶木池
8:15 掘割
9:45 ナガハラ川
10:50 ウシガ原
11:30 林道 
11:55 イワクラ谷  
12:40 床尾峠 
13:20 林道終点
13:55 サル谷 
14:10 オオボウキ谷 
14:45 虫木ノ峠  
15:05 191号線 
15:35 板ヶ谷の川原
16:00 板ヶ谷駐車場   


 ガスが下りる板ヶ谷駐車場を出発。191号線を下る、板ヶ谷は水量が多い。梶ノ木への車道を上がる。ツリフエンソウが多い。西側の山並みはガスが立ち込めている。道沿いに大木がある。枝から長い穂状に垂れ下がるものがある。メタセコイアだろうか。

 車道をU字に曲がると、屋根に穴が開いた廃寺の専立寺に出る。車道の右手に墓所があり、石柱に「東日本大震災 茨城で被災 平成二十三年三月十一日 二十九才」とあった。アカマツの木の下に枝が散乱している。松ぼっくりの食痕=エビフライがたくさん転がっていた。

 シシウドが背丈ほど伸びている。梶ノ木河内神社に入る。ヒガンバナが一本咲いていた。狛犬に昭和十二年の文字が見える。車道を進む。クリの木に実が生る。アンテナ塔を回る。車道にエビフライが落ちている。ガマズミが真っ赤な実を付ける。

ツリフネソウ
シシウド
クリの木のクマ棚

 広い畑地に出る。マルバルコウソウが群生する。山並みに見えるガスが少なくなっていた。ヌルデ、リョウブが花を付ける。梶ノ木の大スギに寄る。広い畑の向こうの山並みに日が射し始めた。車道横のクリの木にクマ棚があった。坊主頭のようなニラの花が咲く。

 民家の前を通り、南へ進む。南端の分岐から北へ下ると道智院がある。さらに下ると梶木池に出る。周辺に民家が点在している。引き返して分岐に戻る。南へ下ると、林道梶ノ木線終点の看板があり、車道は下るばかりである。ムクゲの大きな花が咲いていた。掘割の入口へ引き返す。

 車道の水路から掘割から下りる谷に水が流れている。民家の横を通って谷へ入ると山道がある。山道を登って行くと、水を貯めるコンクリート桝があった。水が勢いよく桝へ流れ込んでいた。上にはもう一つ桝があった。道が消失したところで、左岸の林道に出た。ヤマジノホトトギスが咲いていた。車道から30分ほどで掘割。

ミヤマガマズミ
マルバルコウソウ

 掘割のミヤマシキミが赤い実を付ける。ヤマジノホトトギスが咲く。谷を下る。少し下った所で、右岸のスギ林の山道に入る。道が消失し、再び谷を下る。キバナアキギリが咲いていた。再び右岸の山道に入ると西側の山へ入っていた。引き返すと左岸にも山道が通っていた。

 左岸の山道は地形図の破線道の周辺に続いていた。山道は尾根を下り、展望地に出ると作業道の終点に繋がっていた。東側に正教山が見える。作業道から集落に下りる道がある。ナガハラ川右岸の車道に出た。川沿いに民家が点在している。

 ナガハラ川右岸を下り、橋を渡る。橋には「西の川」「向部屋橋」と書かれている。舗装された車道に出る。車道を上がる。刈り取られた田んぼと穂を垂れた田んぼがある。ホドハラ川右岸に水田が続いている。電柱には寺領のプレートが貼ってある。シャクダ谷を渡る。ネムノキに花が残り、枝からマメが下がっていた。

キバナアキギリ
ネムノキ

 橋にナガハラ川と書かれ、オキタヘヤ橋とあった。ホトハラ川の間違いか。ホドハラ川左岸の林道を登る。ミツバアケビの実が下がる。堰堤にも長原川砂防堰堤と書かれ、昭和57年とある。堰堤傍にキケマンが咲く。堰堤から市間山、鍋山が見える。

 林道を進む。廃車を過ぎてホドハラ川に入る。植林地の道を進む。ウシガ原を通り、鞍部に上がると、尾根を山道が横切っていた。北尾根にも山道が続いていた。北尾根を登り、鞍部から30分ほどで林道に出た。林道を東へ進む。ミズヒキ、キンミズヒキ、アキチョウジが咲く。トチの実がたくさん落ちていた。

 東側の山並みが見え、眼下に杉ノ泊の里が見える。高岩倉山を回り込んで林道を進む。大草田上部のイワクラ谷に出て、左岸の植林地を登る。少し登ると東側の山道に合流、石垣があった。右岸へ渡り、峠手前に出ると、東側にササが茂った林道が通っていた。湿地となった林道を進み、床尾峠へ上がった。イワクラ谷から40分ほど掛かった。

ミツバアケビ
ナガミノツルキケマン

 床尾峠のすぐ北に作業道が通っている。作業道を西へ進む。作業道下の谷は土石で埋まっていた。法面に削られた岩盤が見える。粘土質の柔らかい層があった。途中、尾根を下り、下の作業道に出た。さらに尾根を下り、作業道を横切って、オオブナ谷左岸の林道終点に下りた。

 林道終点から大箒山が見える。オオブナ谷左岸の林道を下る。ナメラ谷まで下ると、東側の山は伐採されていた。東側奥の山は最近、伐採されたようだ。サル谷も最近伐採されたようだ。ダンドボロギクが真っ白い毛で覆われていた。サル谷に架かるコンクリート橋で一休み。

 左岸の林道を進む。木橋が架かり、右岸でシイタケの榾木が並んで立ててある。オオボウキ谷の橋を渡ると、眼下に滝が見える。小谷左岸に作業道が下り、下に構造物が見える。掘割を過ぎて北へ進むと、北側への展望が開ける。アンテナ塔を過ぎて、ほどなく松原林道起点。そこからすぐに虫木ノ峠に進む。

ミズヒキ
アキチョウジ

 車道を進むと、東側が開け、大平山の大きい峯が見える。国道に出ると、日が照り付けて暑い。国道から旧道へ下りる。集落に入ると、下に墓所があった。「故陸軍歩兵曹長」の立派な墓があった。水田の稲はすっかり刈られていた。

 一旦国道に出て、板ヶ谷の川原に下りた。岩の上で一休み。熱くなった体を冷やした。川原を進み、堰堤に出る。右岸を進み、旧道に出る。国道を渡り、板ヶ谷駐車場に帰着。  
 
 

ヒガンバナ
オトコヨウゾメ
キクイモモドキ
ニラ
キブシ
ムクゲ
ヤマジノホトトギス
ソヨゴ
オオムラサキツユクサ
オオバヤシャブシ
キンミズヒキ
ガンクビソウ
アケボノソウ
ダンドボロギク
リョウブ
オタカラコウ
ツルボ
タカクマヒキオコシ


■地名考

 大田・太田の初見


 1352年
 「文和元年(1352) 武田氏信が熊谷彦八(直平) に安芸国太田郷津波村地頭職を預け置く」(武田氏信預ケ状・戸河内町史)

 1394年
 「安芸国山県郡大田郷戸河内村内実際寺領理地庵屋敷事」(実際寺文書)

 1397年
 厳島社領注進状で山県郡内大田郷の存在(戸河内町史)

 1428年
 「山県郡大田郷実際寺住持祖綱ら,同塔頭理地庵の屋敷を定め,寄附」(実際寺文書・広島県史年表)


 文書にみえる大田、太田の初見は、1300年代である。

 戸河内(トゴウチ)は、古代にはトガウチ、トガワチと呼んだ。大箒山(オオホウキ)の古名は、オオハウキである。河内はカウチ、カフチである。

 togouti togauti
 oohouki oohauki
 kouti kauti

 au → ou の転訛

 古代にはアウの読みが、オウに変化している。
 大田、太田は古代には、アウタと呼んでいた可能性がある。

 奥州 アウシュウ
 奥儀 アウギ
 奥旨 アウシ

 などがあり、大田は奥田(アウタ)とも考えられる。


 出雲弁の音韻変化
 ou → a

 どげあろうと どげあらと
 かこうや かかや
 aou,uou → awa,uwa
 つかおうが つかわが
 かまおうかと かまわかと
 かおうか かわか


 万葉集に「大田」は無いが
 日本書記に「大田」がある


 『大田々根子命』(オオタタネコノミコト)

 古事記では『意富多多泥古』とあり、「オホタタネコ」と読む。

 大田田根子(おおたたねこ)は『記紀』等に伝わる古代日本の人物。『古事記』では意富多多泥古命(おおたたねこのみこと)。奈良県桜井市にある三輪山の神である大物主神(おおものぬしのかみ)の子で、神君(三輪(みわ)氏)、鴨君(賀茂氏)の祖先とされる。

 「オオ」は「大」、「ネコ」は尊称、「タタ」は「田」を意味する(ウィキペディア)。


 北広島町の古保利薬師
 
 奈良時代から平安時代にかけて、古保利は山県郡の中心地で、郡の役所が置かれていた。

 古保利薬師で知られる古保利山福光寺(現廃寺)は、かってこの地方で勢力を誇った豪族凡氏(オオシ)の菩提所として平安時代初期(9世紀)に建てられたと伝えられる。当時の山県郡は、壬生(みぶ)、山県、品地(ほんじ)などの5郷からなっていた。                            
 古保利という地名は、山県郡の中心となる郡衙(役所)が置かれた山県郷の所在地であったことからきている。凡氏はこの地の郡司(山県郡を治める地方官)を務めていた。


 凡氏(オホシ)の田=大田

 4世紀半ばには大和朝廷はほぼ全国を統一したようであるが、地方の豪族に対する支配の強化が続き、かれらは国造、県主(あがたぬし)(直轄地ないし国造支配域の下部組織)に編成された。山県郡の壬生はその1例ではなかろうか。凡(おおし)(大押)直は大国造の氏姓で一国を統べる者をいい、西日本に多い(『中世における開発と環境』東晧傳)。


 万葉集の「凡」(おほ)

 ‘おほに’は12回、‘おほほし’は19回用いられ、前者には‘髣髴、凡、鬱(欝)、不明、踈’が、後者には‘欝、鬱悒、不明、不清、凡’が使用されている。  

 ‘髣髴’は‘おほに’の他に‘ほのか’と訓まれ、‘鬱’は‘おほに、おほほし’の他に‘いぶせし’と訓まれる。‘凡’は‘おほに、おほほし’の他に‘いぶせし’と訓まれる。‘凡’は‘おほに’および‘おほろか’と訓まれている。

 凡有者左毛 右毛将為乎
 オホナラバカモカモセムヲ(965)

 於凡尓見之鹿跡
 オホニミ シカド(1335)

 凡者誰将見鴨
 オホナラバタガ ミムカモ(2532)

 凡方者見之人故
 オホカタハ ミシヒトユエニ(3003)

 ‘オホ’は12回用いられ‘髣髴、欝、凡、於凡、意保、踈’の字が宛てられている。

 凡は呉音ボン(ボム)、漢音ハン(ハム)で、 船の帆の意から広く蔽う様子を示しており、凡は全体を覆うことや、およその意を表す。

 凡凡
 オホホシク(2241)

 ‘オホホシ’の語は19回用いられており、‘欝 悒、欝、不明、凡凡、不清、於保保思、意保保敷、大欲寸、不見、於煩保之’の字が宛てられている。

 凡可尓念而行勿
 オホロカニオモヒテユクナ (974)

 凡尓吾之念者
 オホロカニワレシオモハ バ(1312)

 凡尓吾之念者
 オホロカニアレシオモ ハバ(2909)

 凡乃行者不念
 オホロカノワザト ハオモハジ(2535)

 凡吾之念者
 オホロカニワ レシオモハバ(2568)


 ‘オホロカ’は7語中5語に‘凡’の字が宛てられており、‘おほに’の語幹‘おほ’の派生語と考えられる。‘凡’は‘およそ’および一般的、普通のを表す字である。

 (『万葉集の語彙について(2)』池添博彦)

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カシミール3Dデータ

総沿面距離23.2km
標高差500m

区間沿面距離
板ヶ谷
↓ 5.7km
掘割
↓ 2.7km
長原
↓ 4.7km
床尾峠
↓ 5.8km
虫木ノ峠
↓ 4.3km
板ヶ谷

 

 
 
梶ノ木の大スギ
梶ノ木の大スギ
道智院
正教山
ノ泊
伐採されたナメラ谷水源
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)