6:05 倉渡瀬橋 気温3度 晴れ
6:50 表匹見峡入口
8:25 表匹見峡トンネル
8:45 平成橋(匹見発電所北)
9:00 和田寺(山根下)
9:30 夫婦橋(裏匹見峡入口)
10:45 平田渕
10:55 R488(平田渕降口)
11:30 ゲジガ谷
12:00 甲佐家跡
12:35 オオアカ谷
13:15 ハゲノ谷
13:20 広見山登山口
13:50 広見山分岐
14:05 ジョシのキビレ
15:10 亀井谷
15:35 亀井谷奥橋
16:25 倉渡瀬橋
倉渡瀬橋付近を出発。亀井谷沿いのシダレザクラが咲いている。民家の犬が吠えると、集落中の犬が一斉に啼きはじめた。集落内の車道を進む。水が張られた水田に山並みが映る。ミツバウツギが咲き始めている。
匹見川上流の山腹、眼鏡峠の東側の峯の下に霧の帯が漂っている。山下の新しい墓石の隣に、かなり古い墓石が並んでいる。ニリンソウ、ムラサキケマンが咲く。ところどころに蜂の巣箱が置かれていた。
コウラ谷落ち口に大元神社があり、その横に道川神楽の看板がある。明治40年ごろ六調子系神楽として始まったと伝えられている。その向かいに大きいケヤキがあった。川沿いにキシツツジが咲いている。
ニリンソウ |
|
崖のダイセンミツバツツジ |
|
ジヤウジロウ谷に作業道が入っている。工事地図を見ると、上流でコウラ谷の作業道と繋がっている。水田の畔の斜面にシバザグラが植えられている。その先に眼鏡峠東のチャヤドコの峯が見える。
集落の最下流の橋を渡り、307号線に出る。シバザクラを植えた斜面に「ヘルシー元気米を育てています」の大きな看板があり、地元の方の写真が載せてある。看板には「下道川下地域資源クラブ」と書かれてあった。その先には見事なシバザクラが法面全体に見られる。
丸小山トンネルから表匹見峡に入る。崖に濃い紫のダイセンミツバツツジが咲いている。川沿いにウワミズザクラ、ハウチワカエデが咲き、アセビの花が残っている。崎田トンネルの橋の下を通る。甌穴のプレートがある。イブシ谷にトタンの囲いがしてある。キケマン、ヤマフジ、ヤマブキが咲く。
キシツツジ |
|
キシツツジ |
|
アザミ谷に作業道が入っている。ヤマノ谷を過ぎるとキャンプ場。犬戻りの小滝、ひょうたん岩は甌穴、次郎左衛門淵、亀の胴淵、念仏岩を通り、フチミ橋を渡る。ツゴウ谷入口の山上で地元の人が山菜を採っていた。
粋の淵、十畳岩を過ぎると、頭上に屏風岩が見える。黒淵、屏風ヶ浦の先にトンネル、お楽の滝、小沙夜淵、長淵を通る。ミヤマガマズミが咲く。岩節渓流の標柱を過ぎるとウオトビ橋。橋下に白濁した岩の水路が流れている。
表匹見峡トンネル出口に合流し、307号線に出る。陽射しがあるが、まだ涼しい。南山15号暗渠の標柱がある。南側の山に南山三角点(614m)があり、その間に匹見発電所に送る送水管が通っている。取水口は上流のクロミ谷落ち口にある。
ハウチワカエデ |
|
ヤブツバキ |
|
307号をしばらく進み、100年目前の匹見発電所に出る。 「大正十四(1922年)年匹見川水力電気工業株式会社は、二○○万円を投じて村境あたりにダムを設け、匹見川の左岸に沿うて二キロの水路を開き、虫カ谷において10mの落差をつけ、一本の水路によって水を落し、出力一八七〇kwの電力をだしておる」(『石見匹見町史』)。
平成橋を渡り、山根下に入る。ほどなく7000年前の上の原縄文遺跡の看板がある。匹見川、広見川、紙祖川の合流点付近は縄文銀座と呼ばれ、縄文遺跡が多い。
「上ノ原遺跡で顕著なもう一つの型式は打製石斧である。上ノ原遺跡の打製石斧は、薄手であり分厚くない。打製石斧は、ジネンジョなどの根茎類を採掘する掘り棒の先に付けた刃先なのか、落とし穴猟掘削具なのかよくわからないが、一般には掘り棒としての用途が想定されており、縄文早期の生業にかかわる遺物である」(『島根県匹見町上ノ原遺跡の発掘調査』匹見町教育委員会)。
ミツバウツギ |
|
ムラサキケマン |
|
西側の集落の先に送電線鉄塔が見える。 上ノ山城跡の看板の前を通り、善正寺の横を通る。カンバラ谷を過ぎると和田寺の看板がある。「本寺は嘉禎(かてい
1235〜37)年間に開基されたと伝えられる鎮西派知恩院末寺の古刹である」とある。
木造、トタン屋根の門を潜ると、木造の小社がある。草生した右奥に古い地蔵像が残っている。引き返して車道に出ると和田古墳の看板がある。山根下から山根上へ、488号線を南へ進む。夫婦橋に出る。橋下は渕になっている。
夫婦橋から右岸の遊歩道に入る。フライを投入する釣り人が渓流に入っていた。鉄の階段を登る。ヤエヤマブキ、ツリバナ、ダイセンミツバツツジ、ミツバアケビ、ヤマグルマが咲く。小魚飛の橋を過ぎる。オウコウ谷下流にも釣り人がいた。エンコウの棚の橋を渡り、左岸の遊歩道を進む。
長淵、荒神の瀬、ツガ‐ソヨゴ群落、国蝶オオムラサキなどのプレートがある。炭焼跡の石積の横を通る。亀の洞淵に下りる階段があるがパス。踏戻しのプレートあり。階段を登り下りする。群岩の瀬は巨石のゴーロ。くぐり岩、五段滝、エンコウの巣、見返り岬、音和淵を通る。
ツリバナ |
|
ミツバアケビ |
|
平田淵に着くと、淵の上を右岸に渡る赤い橋が架かっている。左岸の縁に釣り人が入っていた。平田淵から階段を488号線に上がった。階段の左に滝が落ちている。車道で一休み。
平田淵降口から少し進むと、裏匹見峡遊歩道の最奥へ下りる階段の道がある。大天狗の懸崖を展望できる。車道の岩壁にダイセンミツバツツジが咲く。国道を少し進むと、大天狗と谷を展望できる。懸崖の間の谷の上に送電線鉄塔が見える。
そこからほどなく鈴ヶ嶽の清水、大岩の下から出る冷水を補給。国道を進む。フデリンドウが咲く。ゲジガ谷を過ぎる。堰堤の横を通る。ハチガヒラ谷、ニイヤマ谷を過ぎる。新山橋を渡ると、通行止めの柵。迂回路に186号→191号→307号が示され、「匹見方面へは186号までお戻りいただき、191号へ迂回してください」と書いている。三坂八郎林道は書かれていない。
ハウチワカエデが花を下げる。広見小学校跡の横を通る。広見小学校は明治18年に創設され、昭和2年に現在地跡に新築された。昭和45年廃校となり、86年の歴史に幕を下ろした。閉校時は女子児童二人だった。歴代校長は17名だった。
フデリンドウ |
|
甲佐家跡のヤマナシ |
|
スギ林の中に地主墓がある。火の谷橋を渡ると甲佐家跡。ヤマナシの白い花が満開だった。平成18年に設置された甲佐家屋敷跡の石碑がある。屋敷の写真石版には茅葺屋根が映り、当時を偲ばせる。
国道488号線の転回点に、広見の三本栃の道標がある。小谷橋を渡ると半四郎山登山口。山崎屋跡地の先に奥之本家屋敷跡の石碑が設置されていた。スギ林下に新しい建物があった。そこから東側に焼杉山の峯が見える。ジョシ谷落ち口に橋桁が残っている。おしどり橋を渡り、左岸を進む。
コアカ谷の橋を渡り、オオアカ谷に出る。この谷には横川越の破線道がある。右岸に渡り、さらに左岸に渡り、ハゲノ谷の橋を渡ると、禿ノ谷林道入口。広見の三本栃への道標がある。そこからほどなく広見山登山口。広見林道からミチガ谷の山道へ入る。
ミヤマカタバミ |
|
キビレ北のミズナラ |
|
ミチガ谷左岸を進むと、石垣の残る小屋跡がある。ミチガ谷を渡り、ミヤマカタバミの多い右岸を進む。広見山登山口から30分ほどでジョシノキビレへ上がる分岐。スギ林を登り、15分ほどでキビレに出た。キビレの倒木に腰掛けて一休み。
キビレの北側直下に周囲4mのブナが見える。オオカメノキが咲いていた。小尾根をジグザグに下る。途中に大きいミズナラがある。30分ほどでジョシ谷右谷へ下りた。エンレイソウ、ニリンソウが咲く。亀井谷へ下りて踏み跡を進み、幹に広見入口と書かれた地点に出る。
右岸をしばらく進み、右岸、左岸と渡り、最後に右岸に渡って、亀井谷奥橋へ出た。亀井谷橋を渡り、仙床寺跡に出る。奥橋から50分ほどで倉渡瀬橋手前に帰着。
ダイセンミツバツツジ |
|
ウワミズザクラ |
|
アセビ |
|
イカリソウ |
|
キケマン |
|
オオカメノキ |
|
エンレイソウ |
|
ミヤマガマズミ |
|
ヤマフジ |
|
マンネングサ |
|
クサイチゴ |
|
コケイラン |
|
ヤマグルマ |
|
サワハコベ |
|
■地名考
「十方山の記録の初見は、安芸国で最も古い地誌といわれている黒川道祐『芸備国郡志』(1663年)であろう」(「西中国山地」桑原良敏)とあるが、匹見側にはさらに古い記録がある。
広見川は古代には「加江ノ川」(カエノカワ)と呼ばれており、「加江ノ川」の奥に十方山があることから、旧羅漢山を十方山と呼んでいた。
『附言山田郷内東村、有加江乃川。源芸石広見河内奥、自十方山下流而到干此』(『匹見八幡宮祭神帳』(1651年)『石見匹見町史』から)。
『芸備国郡志』は十方山について、「其山突兀…見北海往来之船舶」とある。「突兀」は「山や岩などの険しくそびえているさま」の意で、旧羅漢山は、西面は巨石群で、その頂きが岩峯になっている。山頂からは日本海が見える。『芸備国郡志』の十方山は旧羅漢山そのものである。
『日本書紀通証』(1762年)は十方山を、「石窟」「多竒石」「恠巌」とあり、「岩穴」「多くの普通でない岩」「不思議な巌窟」などと形容しており、旧羅漢山の山頂直下の巨石群と石窟を表現していると思われる。
『石州古図』(1818年)では、春日山と広見山の間に十方山があり、この山は旧羅漢山考えられる(下図)。
『石州古図』(石見国絵図)
道川村・下道川村に広見山・十方山・春日山
(島根大HP)
|
|
和田寺の創建
「東村にある東光山和田寺は、浄土宗鎮西派智恩院の末寺で、浄土宗の三祖たる記主禅師が嘉禎(かてい)年間に開基したものだと伝えられる古刹である。本尊は阿弥陀仏、並びに教主釈迦牟尼仏、高祖善導及び宗祖円光大師である」
「臼木谷に和田名という名田が残されておる…和田名は匹見東村、和田寺所有の名田を意味する」(以上『石見匹見町史』)。
記主禅師は、天台・密教を学び、比叡(ひえい)山で受戒し、天台、倶舎(くしゃ)、法相(ほっそう)、禅、律などを学んだ。
和田寺の南東100mの所に山伏墓と呼ぶ遺跡がある。その南東10mには和田古墳がある。山伏墓から縄文、弥生の土器、石器のほか、7世紀後半の須恵器、寛永通宝(1636年に創鋳)などが発掘された。
和田寺のその後
「和田寺の詳しい史実は創建以来長い間消息がはっきりと分からない。ただ『匹見別府庄縁起』によると元和年中(1615〜24)、幕領大森代官の竹村丹後守が、長州の僧貞閑と親しかったので、匹見組代官大谷勝兵衛に向かって、貞閑が入住するにふさわしい寺は無いかとの尋問に対し、たまたま由緒あるこの和田寺が無住の空寺だったので、勝兵衛はこの寺に貞閑を迎えたという史実が知られている」
「和田寺は文化三年(1806)全山を焼失した…歴代住僧の墓が三基遺っておる。宝永七年(1710)三月三日六十六部供養、文化六年(1809)巳年明連社得誉上人、心良和尚五月二十日、文政十二年(1829)丑年明連社起誉上人秀岡三月十五日、安政元年(1854)寅閏七月十四日済誉和尚」
「元禄のころ当山は、石見三十三ケ所の札所となり、御詠歌として、『高嶺より光に向ふ日の谷の山の峯より音も絶えせぬ』が遺されておる」
「その間の消息は、次の文書で知られる 『留守居田中大道ト申ス者、信徒協議ノ末、十方ノ信施ヲ募リ、五間四面ノ本堂ヲ再建シ、本尊ヲ安置シ居リ候』明治30年5月
和田寺住職」(以上『石見匹見町史』)。
「十方ノ信施」=広くお布施を募り、再建された。
六十六部は、法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行した。六部ともいう。1700年代の初めには匹見でも行われていた。
「匹見町の東光山和田寺(浄土宗)に六十六部の供養塔といわれる石造の阿弥陀(あみだ)如来像がある。坐像の蓮華(れんげ)座の中央に六十六部供養と陰彫され、蓮華座の右側面に「宝永七年(1710)寅三月三日」とある。また左側面には「施主・教水」という刻銘がある…和田寺が、浄土宗の三祖といわれている記主(きしゅ)禅師が嘉禎年間(1235〜37)に開基したといわれる名刹(めいさつ)だったことから、納経地として足を向かわせたという背景があったのかもしれない」(「まなびや通信」HP)。
羅漢寺(らかんじ)は島根県大田市大森町羅漢町にある高野山真言宗の寺院である。本尊は阿弥陀如来。山号は石室山。1764年(明和元年)に月海浄印によって創建された。
五百羅漢は創建する前の元文年間(1736年‐1740年)から始まり、大森代官所の関係者が観世音寺に参詣し、石造十六羅漢を拝んで、当時住職だった月海浄印に相談して話したことがきっかけとなった。温泉津の石工である坪内平七一門の手により彫り、25年の歳月をかけて完成された。
和田寺の再建は、元和年中に大森代官の竹村丹後守が、長州の僧貞閑と親しかったので、匹見組代官大谷勝兵衛を通じて、貞閑を和田寺に迎えたという史実がある。
匹見組代官大谷勝兵衛は、大森代官所から派遣され、西村の栃木に住んでいた(慶長8〜元和5年まで)。
羅漢寺と五百羅漢の造営には、大森代官所が大きな役割を果たしている。和田寺も大森代官所と関係が深い。
「大鉄囲山に登る如く路は千盤百縛なるも、直に登り得ば絶頂に到る。此處に到って供養の處を會す可しぢや。『供養』のことは『寧ろ十方羅漢僧を供養せんより、一箇の無作無為の道人を供養』せんには如かず』とも説かれてある」(『提唱臨済録』)
「十方羅漢」は「天下の修行僧」のことで、和田寺を創建した浄土宗の三祖たる記主禅師がふさわしいと思われる。
旧羅漢山直下の巨石群には多数の石窟があり、ここは修行僧のメッカだったのではないか。だから羅漢とも十方とも呼んだのではないだろうか。
カシミール3Dデータ
総沿面距離33.7km
標高差733m
区間沿面距離
倉渡瀬橋
↓ 10.9km
平成橋(匹見発電所北)
↓ 3.5km
夫婦橋(裏匹見峡入口)
↓ 3.4km
R488(平田渕降口)
↓ 4.6km
甲佐家跡
↓ 5.9km
ジョシノキビレ
↓ 5.4km
倉渡瀬橋
|