山歩き

二軒小屋…旧羅漢山…恐羅漢山…牛小屋谷
2018/4/21

二軒小屋…水越登山口…旧羅漢山…恐羅漢山…牛小屋谷…添郷…ヨビヤ峠…横川小跡…二軒小屋

■旧羅漢山(キュウラカンザン)1334m:広島県山県郡戸河内町横川 (安芸太田町)
■恐羅漢山(オソラカンザン)1346.4m:広島県山県郡戸河内町横川(点の記 点名:羅漢) (安芸太田町)
                          島根県益田市匹見町匹見亀井谷

林道のヤマザクラ
旧羅漢山登山口
カラマツ 1100m付近
十方山 1200m付近
旧羅漢山
広見山と春日山
向半四郎 半四郎 広見山
登山道に雪が残る
平太小屋原
恐羅漢山の南から見た十方山
恐羅漢山
深入山 サバノ頭方向
聖山と苅尾山
砥石川山と牛小屋谷貯水池
リフトトップの陰で休憩
牛小屋谷を望む
牛小屋高原
山毛欅乃木小屋の石碑と銅板
キャンプ場を通る
キャンプ場から電気柵を越える
林道は牛小屋谷の堰堤まで
山道が崩れた所は丸太が渡してある
牛小屋谷
石垣が残る山道
右岸へ渡る丸太とロープ
橋脚跡
添郷の石垣
ヨビヤ峠入口 添郷
添郷の石垣の間を進む
ヨビヤ峠
ヨビヤ峠
横川へ下る山道
サバノ頭が見える
石垣を回る
ヨビヤ峠入口
山腹の絨毯
魚切滝
6:45 二軒小屋 気温8度 晴れ
 

7:35 水越登山口
8:35 焼杉山分岐
9:05 旧羅漢山
9:45 恐羅漢山
10:05 カヤバタキビレ
10:10 ゲレンデ境界
10:50 牛小屋高原
12:05 添郷
12:30 ヨビヤ峠
13:15 横川小跡
13:55 二軒小屋

 二軒小屋駐車場のヤマザクラが咲いている。林道沿いのキブシが枝からたくさんの花をぶら下げている。林道下の谷沿いにミツマタの花が咲いている。フキノトウが伸びて、花芽が出ている。林道沿いのヤマザクラは大分散っている。

 カラマツの葉が出始めていた。キブシの簾があちこちに見られる。法面にゼンマイが出ている。急に生暖かい風が上流から吹いてきた。1時間弱で十方山登山口、そこからほどなく水越峠登山口。倒れた道標には恐羅漢山頂まで1時間45分とある。

 シモミズコシ右岸の急なスギ林を登る。登山口から20分ほどで主尾根に出る。カラマツの松ぼっくりが多い。急だった尾根がそこから緩やかになる。カラマツの枝から短い葉が出始めている。登山道の西側はスギ林、東側は広葉樹の中にカラマツが続く。

キブシ
ササの竹の子

 スミレが咲き、ササの竹の子がたくさん出ている。一本、皮を剥いで食べてみたが、甘くて旨かった。スギ林下にウリハダカエデが芽生えていた。エンレイソウ、スゲが花を付ける。1200mmを越えて後ろを振り返ると、十方山の峯が見える。気温は22度になっていた。

 焼杉山分岐を過ぎた先にタムシバの白い花が咲いていた。ギャーギャーとハト位の大きさの鳥がうるさい。カケスだろうか。スギ林の湿地にはバイケイソウが芽を出し始めている。ナナカマドが新葉を広げる。1300m付近から振り返ると焼杉山分岐の尾根の先に十方山が見える。登山口から2時間ほどで旧羅漢山。

 岩上に出ると西側の視界が開ける。眼下に植林地の峯が続き、その先に広見山が見え、半四郎山、向半四郎へと繋がっている。左に五里山の峯が、右に春日山が見える。登山道へ戻り、鞍部へ下って行くと、雪が残っていた。雪上を下る。

タムシバ
バイケイソウ

 鞍部のスギ林下にも雪が残っていた。旧羅漢山から30分ほどで恐羅漢山。10時前だというのに、気温27度で暑かった。岩上に立って眼下の風景を眺める。眼前に内黒峠を通る山並みが続き、左に深入山、苅尾山の峯が見える。

 暑さを避けて、苅尾山を見ながら、早々に北尾根を下る。こちらの北面にも雪が残っていた。バイケイソウの芽が出始めている。20分ほどでカヤバタキビレ。5分ほどでゲレンデ境界に出た。眼下に牛小屋谷の貯水池が見える。山腹にヤマザクラのピンクが点々とある。ゲレンデ越に十方山が見える。

 ゲレンデに下りて、リフトトップの回転盤の下の日陰で一休み。陰に入ると涼しい。急坂をジグザグに下る。所々、フキノトウが集まって伸び、スミレが群生していた。ショウジョウバカマが頭を出していた。ゲレンデの縁にカラマツの幼木が生えていた。

フキ
あちこちにスミレが群生
スイセン
山毛欅乃木小屋の石碑と銅板

 ゲレンデ下部まで下ると、色とりどりのスイセンが植えられていた。山毛欅乃木小屋に銅板と石碑が設置されていた。石碑は藤原健蔵先生の顕彰、銅板には小屋の歴史が刻まれていた。1978年7月に一泊してから40年が過ぎ去った。立山コースと夏焼コースの分岐に下りて、牛小屋谷右岸のキャンプ場を下った。

 10分ほどでキャンプ場北端の電気柵に出た。林道を下り、牛小屋谷左岸に渡る。ホオノキの実が落ちていた。林道は貯水池を回って堰堤下に出る。そこから左岸の山道を下る。谷沿いにコバノミツバツツジが咲く。山道は所々崩れているが、迂回道や丸太が渡して、整備してある。

 ササが刈ってあった。十数年前に通った時には大分荒れていた記憶がある。ミヤマカタバミがあちこちに咲いている。断層図の看板は落ちていたが残っていた。餅ノ木断層と横川断層が描かれている。牛小屋谷は餅ノ木断層の延長上にある。

ミヤマカタバミ
コバノミツバツツジ

 石垣の道が残っている。橋脚が残っている所に丸太が渡され、ロープが張ってある。そこから山道は右岸に続く。山道は一旦谷に下りて途切れるが、すぐに植林地の山道が続く。石垣が現れると添郷である。

 ヨビヤ峠の道標がある。石垣の間を通って峠へ登る。14年前は山道が消えていたが、今は整備されている。植林地の山道をジグザグに登り、20分ほどでヨビヤ峠。峠に出ると、涼しい風が南から吹き上げていた。

 整備された山道を下る。ナメラ谷水源を渡る。林間からサバノ頭が見える。アオギガ谷を渡り、石垣を回り、車道に出た。登山口にヨビヤ峠の道標がある。東側は横川小学校跡である。

 日の照り付ける車道は暑かった。南側の山腹が薄緑とピンクの絨毯のように染まっていた。魚切滝に出るとイタヤカエデの黄色い花が咲いていた。40分ほどで二軒小屋に帰着。
 

イタヤカエデ
ナナカマド
エンレイソウ
カラマツ
イカリソウ
ショウジョウバカマ


地名考

 ソカヒ山=オソラカン山

 「『芸藩通志』(1825年)の戸河内村絵図にヲソラカン山≠ニあり、山林の項の十方山の所に『一に西十方をおそらかん山とよぶ、日本興地図に、石見界に高山そかひ山としるすは、おそらかんのことなるべし』とあるのはよく知られている」

 「日本興地図の他に、1834年(天保5年)に刊行された山崎松居『大日本興地便覧』やそれより三年遅れて出版された地図帳、青生東谿『国郡全図』(1837年・天保8年)にもソカヒ山とある。これらの絵地図からは、『芸藩通志』の編者のように『おそらかんのことなるべし』と言い切ることはとてもできない…目下のところソカヒ山は調べようがなく、幻の山というほかない」

 「旧羅漢山は、広島県側横川の呼称である。いつの頃からこう呼ばれ出したか明らかでない。吉和村側では西十方と呼んでいた。『芸藩通志』の佐伯郡の山林の項にあり、吉和村の三浦一介所蔵『吉和村絵図』(江戸末期)にも、はっきり十方山と西十方山がわけて画かれている」

 「島根県側の呼称として『匹見町史』には旧羅漢山となっているが、匹見町の人々は匹見羅漢と呼んでいる人が多い」(以上『西中国山地』桑原良敏)。

 『国郡全図』安芸国には、八幡原とソカヒ山の間に二つの山があり、高岳と聖山のように見える。ソカヒ山は恐羅漢山の位置に重なる。


 旧羅漢山は十方山と呼ばれていた

 広見川は古代には「加江ノ川」(カエノカワ)と呼ばれており、「加江ノ川」の奥に十方山があることから、旧羅漢山を十方山と呼んでいた。『匹見八幡宮祭神帳』(1651年)。

 『芸備国郡志』(1663年)に、「其山突兀…見北海往来之船舶」とある。「突兀」は「山や岩などの険しくそびえているさま」の意で、旧羅漢山は、西面は巨石群で、その頂きが岩峯になっている。山頂からは日本海が見える。「芸備国郡志」の十方山は旧羅漢山そのものである。

 『日本書紀通証』(1762年)には「石窟」とあり、旧羅漢山の山頂直下の巨石群には多数の石窟がある。

 『石州古図』(1818年)では、春日山と広見山の間に十方山があり、この山は旧羅漢山と思われる。


 羅漢の由来

 「羅漢山という山名については『防長地下上申』(1749年)の秋掛の項
 『羅漢山と申は、ぢねん石ノらかん御座候故、山ノ名をも右之通申候』 とあり、この山の南面サギノクチ川の水源にある羅漢石(仏岩ともいう)に因んで付けられたことが記されている」(「西中国山地」)。尾根上にはオオカミジョウ、タヌキジョウ、キツネジョウなどの奇岩がある。

 島根県大田市の羅漢寺は1764年の創建。石窟五百羅漢は、1741〜1743年に月海浄印が発願した。

 大分県耶馬溪の羅漢寺(五百羅漢)は、大化元年(645年)にインドから渡来した法道仙人が開いたとされ、石窟の五百羅漢(石仏)は、日本でつくられ現存する中でも最も古く、国の重要文化財となっている。

 山梨県昇仙峡の羅漢寺は、羅漢寺山の中腹にあり、寺周辺の岩陰には、木造の五百羅漢を分祀していた。羅漢寺は修験道場であった。創建は戦国時代の大永年間(1521年 -1527年)。

 旧羅漢山直下の巨石群には多数の石窟があり、ここに羅漢の呼び名の由来があるのではないか。

『国郡全図』安芸国(1837年 神戸大HPから)

底見(匹見)と八幡原の上にソカヒ山

 万葉集509番に「背尓見管」(そがいにみつつ)がある。丹比真人笠麻呂(たぢひのまひとかさまろ・大宝‐和銅=701−715)の歌で、「背尓」(ソカヒ)は、ここでは「後ろ」の意である。

 (原文) 粟嶋乎 背尓見管
 (訓読) 粟島を そがひに見つつ
 (仮名) あはしまを そがひにみつつ
 (意味) 粟島を 後ろに見ながら

 万葉集原文に「そがひ」は次のように表す。
 「背向」「背尓」「背匕」「曽我比」


 『陽明文庫所蔵「古活字本万葉集」の紫による書入訓について』によると、鎌倉から江戸期にかけての万葉集諸本(写本・版本)について、万葉集509番の歌の「背尓」に、「ウシロ」の書入れがあるものがある。下記の「巻四・五〇九歌」一覧参照。

 「ウシロ」の書入れがある諸本は、京大本代赭訓、陽明「古活字本」紫訓、西本願寺本、紀州本、広瀬本の五つである。

 京大本(江戸初期 全巻 但し巻19の1首欠)
 陽明本(室町末期ないし近世初期書写の完本)
 神宮文庫本(神宮文庫本 室町後期 全巻 但し巻1の3首・巻2の1首欠)
 西本願寺本(鎌倉時代後期)
 紀州本(鎌倉末期 巻1〜巻10 室町時代 巻11〜巻20)
 広瀬本(江戸時代 全巻)

 万葉集3391に以下の歌がある。

 (原文) 筑波祢尓 曽我比尓美由流 安之保夜麻 安志可流登我毛 左祢見延奈久尓

 (訓読) 筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山悪しかるとがもさね見えなくに

 (仮名) つくはねに そがひにみゆる あしほやま あしかるとがも さねみえなくに

 「筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山」は、「筑波嶺の後ろに見える葦穂山」の意である。


 ソカヒ山=恐羅漢山は次のように解釈できる。

 ソカヒ+羅漢=ソカヒ+ラカン=ウシロラカン

 羅漢山は旧羅漢山のことで、匹見羅漢とも呼ぶ。近くでは、冠山(カムリヤマ)と後冠(ウシロカムリ)の地名がある。全国には次のような地名がある。

 後森(前森) ウシロモリ 秋田県 
 後白髪山(白髪山) ウシロシラヒゲ 秋田県 
 後烏帽子岳(前烏帽子岳) ウシロエボシ 宮城県

 戸河内の那須地域に下地図のような地名がある。

 向平(ムカイビラ) 那須地域の東端
 裏向(ハブセゴウ) 那須地域の西 
 表平 那須の東境界の外

 ムカイビラとハブセゴウは、集落を隔てた東西の、山の斜面の地名であり、対になっている。

 「裏向」は「セゴウ」と読むが、後ろの意と思われる。「背向」は万葉集では「ソカヒ」と読む。恐羅漢山の「ソカヒ」に共通する地名ではないか。

 「後ろ」の方言に以下がある。

 宮古弁(岩手県)
 ウッソ 後ろ
 ウッソケエ 後ろ返し・裏返し
 ウッソメエ 後ろ前

 気仙沼(宮城県)
 ウッショ 後ろ

 仙台弁(宮城県)
 ウッショ 後ろ・後ろの家
 ウッショメエ 後ろ前

 相馬弁(福島県)
 ウッショ 後ろ

 茨木県
 ウッショ 後ろ

 金沢弁
 オシロ 後ろ

 伊勢(三重県)
 オシロ 後ろ・おしり 

 出雲弁
 オッソ 後ろ(出雲・大田)
 (用例 おっそから ぼいちゃげてくー)
 (用例訳 後ろから 追いかけてくる)

 出雲地方における促音便の変化
 sir が促音 ss に変化
 おしろ(後ろ) osiro おっそ osso

 大社方言アクセントにおける類と音調型の対応
 後ろ(usIro/osso)

 隠岐五箇村
 オシロ 後ろ

 八束町(大根島=島根県)
 オシロマエ 後ろ前

 今帰仁
 フサー 背後・後方
 フシー 背・背中・背後・うしろ

 首里・那覇
 クサー 後ろ・後方・背後
 ウシルフージ 後ろ姿

 宮古(沖縄)
 クス 後ろ

 八丈島方言 
 オシロ 後ろ

 東日本から島根地方にかけて、「後ろ」方言に、ウッショウッソ オッソなどの音韻の共通性が見られる。石見、芸北地域に出雲方言の影響があったと仮定すると、次のように推定できる。

 ソカヒ+羅漢=ソカヒラカン=ウシロラカン
 =オッソラカン=オソラカン

 オソラカンザンは「後ろの羅漢山」と考えることができる。

 島根県は、石見の国、出雲の国と隠岐の国の3国で県ができました。出雲の国の方言は、東北地方の言葉に似た部分があります(雲伯方言)。石見の国の方言は、広島県や山口県等に似た言葉が多いのが特徴です。
 北三瓶地区の多根・野城(石見の国)は、山口(出雲の国)と相互に接していることから、石見の方言と出雲の方言が交っているようです(『石見の方言』HP)。

 「出雲市・簸川郡・八束郡の民家は、99%が入り口を右側につけ、左入り口を忌む風習があるが、石見では大田市以西、出雲でも山間地には左入り口が逆に圧倒的に多い。狩猟が中心だった古代は、東をあがめる風習があったのが、米を常食にする弥生時代になると、西を尊ぶようになる。古い民家は南向きに建てたが、右入り口とした場合、神坐は西に置かれることになり、西を礼拝する形式となる。

 出雲勢力が大和勢力に負け、大和の風習が出雲部の、民家建築にも浸透し、大和の民家も100%、右入り口になっている。石見部に左入り口が多いのは、日本の古い信仰形態が、いろいろな形で、残っている証拠である」(『山陰の民俗と狩猟儀礼』石田隆義 1966年)。


 アイヌ語 osor オソル=尻

 osor オソル 尻
 oshor オショル 尻
 ushor ウショル 尻

 osmak オシマク うしろ・背後
 os-mak 尻・後

次のように転訛してのではないか。

 osoru オソル → osso オッソ → oso オソ

 osmak オシマク → osi オシ → oso オソ

 osiri オシリ → siri シリ(書紀)

 usiro ウシロ → ussho ウッショ osiro オシロ

 書紀 後方羊蹄=シリヘシ

 (書紀原文 「後方羊蹄此云斯梨蔽之」)

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カシミール3Dデータ

総沿面距離15.6km
標高差680m

区間沿面距離
二軒小屋
↓ 4.6km
旧羅漢山
↓ 1.0km
恐羅漢山
↓ 1.9km
牛小屋高原
↓ 3.2km
添郷
↓ 2.3km
横川小学校跡
↓ 2.6km
二軒小屋
 

陽明文庫所蔵「古活字本万葉集」の紫による書入訓について    
 ―京大本代赭書入との比較から― 大石 真由香
万葉集509 背尓見管(そがいにみつつ)の部分を抜粋(下表)
 (丹比真人笠麻呂 大宝‐和銅=701−715 淡路)

京大本(江戸初期 全巻 但し巻19の1首欠) (ウシロを書入
陽明本(室町末期ないし近世初期書写の完本) (ウシロを書入
神宮文庫本(神宮文庫本 室町後期 全巻 但し巻1の3首・巻2の1首欠)
西本願寺本(鎌倉時代後期) (ウシロを書入
紀州本(鎌倉末期 巻1〜巻10 室町時代 巻11〜巻20) (ウシロを書入
広瀬本(江戸時代 全巻) (ウシロを書入
 
 
那須集落の地名

ハブセゴウ(裏向) 向平 表平

那須における地名群と土地利用
(『西中国山地における山村の土地利用と環境認識』古田充宏)
那須集落

ハブセゴウ(裏向) 向平

戦前における土地利用空間の断面図
(『西中国山地における山村の土地利用と環境認識』古田充宏)
 
 
十方山南西尾根 手前はケンノジキビレへ下りる尾根
向半四郎 半四郎 広見山
広見山 右端に春日山
サバノ頭 内黒峠を望む 恐羅漢山から
苅尾山 砥石川山 深入山 向山 サバノ頭を望む カヤバタゲレンデの尾根から
牛小屋谷堰堤
内黒峠西尾根
魚切滝
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)