6:20 枝の宮神社駐車場 気温19度 晴れ
6:25 枝の宮神社
6:40 登山口バス停
7:40 林道終点
7:55 仙人岩
8:30 分岐
8:45 天狗岩
9:15 寒曳山
9:35 牛の寝床
10:25 林道終点への分岐
11:00 車道
11:35 県道5号
11:40 枝の宮駐車場
駐車場から枝の宮神社の入口に進むと、「広島県重要文化財 枝宮八幡神社本殿」の看板がある。石の鳥居の先に赤い鳥居があり、「枝ノ宮八幡宮 大塚女鹿原 施主斎藤廣」と書かれている。
大杉の並び立つ石の階段を登ると、正面に本殿がある。右手に「大麻杉の走り根」(おおあさすぎのはしりね)と書かれた杉の根が鎮座し、「町内間所水田より発掘」とある。本殿左に「巨岩船石」がある。左奥に金屋子、稲荷、加茂神社が祀られている。
入口の看板によると、本殿は天正3年(1575年)、吉川元春が寄進したという。枝宮八幡神社の史実について次のように書かれている。
源氏の武将が出雲へ下着する際、紀州の国鷺ノ森の社より神霊を頂き、出雲市神門町に奉斎した。時を経て子孫の小田八郎左衛門尉頼政が大神を安芸国(大麻)の地に宮地を開き奉斎した。時に徳地元年(1306年)の事で、後方に聳える寒曳山は、ご神体を引き受けた意から古書には神引山と書きしるされ、故に「神引山枝宮八幡宮」とはこう言う故事によるものである。
階段を下りようとすると、女性が上がって来られた。本殿に入り、太鼓の音が鳴り渡り始めた。6時半頃のことだった。
ガマと寒曳山 |
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ツリフネソウ |
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枝の宮神社から車道を東へ進む。稲穂が金色に染まっている。まだ薄霧がただよう寒曳山が見える。北へ曲がると、ガマがソーセージのような穂をつけていた。東側の県道傍に寒曳山の大きい看板が見える。県道5号に出ると、バス停に寒曳山入口と書かれている。
車道を北へ進む。枝の宮地域のクリが青い実をつけていた。段々になった水田が続く。浜田道寒曳山パーキングエリア西の高架下に出る。高架の天井にスズメバチが出入りする巣があった。高架を抜けると、寒曳山ハイウェイショップの看板がある。車道を進むと、ツリフネソウの群落がある。クズの間からワレモコウの花が伸びている。ヒヨドリバナは咲き始め。
スズメバチの巣 |
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ワレモコウ |
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ヒキガエル |
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アオダイショウ |
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山本山古墳の先に林道寒曳線の標識がある。ムクゲの白い花が咲いている。ガマズミが赤い実をつける。大岩の所から林道は円形に回る。大きいヒキガエルが道の真ん中でじっとしている。ウドが白い花をたくさんつける。車道の途中にある枝道に上がると広場になっている。広場の先に建物が見える。
引き返して林道を進むと、足元にアオダイショウが、思わず引き下がると、頭を轢かれて死んでいた。広場の端まで進むと看板があり、建物は松風荘で閉鎖されていた。看板にはテニスコートやゲートボール、卓球場、ヒメシャガ群生地などと書かれて、遊歩道(1800M)の先に寒曳山スキー場が示されている。
松風荘の前を通り、ヤマハギの咲く林道を進む。林道は所々、谷側の斜面が大きく崩壊し、地肌が現れていた。終点手前に大きいヤマハンノキが生えていた。登山口から1時間ほどで寒曳林道終点、周辺にキンミズヒキが多い。
終点から道が分岐する。右側は倒木が倒れていたので、左の山道を進んだ。山道はスギ林の中を北西に向かって、西側の山道と合流するようだった。引き返し、倒木を跨いで右の道を進む。整備された広い山道を進む。キンミズヒキが道沿いに続く。15分ほどで赤い小さい鳥居と祠のある大岩の所に出た。ここは仙人岩と呼ぶ。水のみ場になっているが、湿っている程度。
仙人岩から少し進むと、スギ林の中に大岩が集まっている所がある。仙人岩から30分ほどで分岐。スキー場へ行く道と寒曳山への道に分かれる。西の道を進む。ヒノキ林の傍を通り、急坂を登る。所々、鎖の柵が続く。分岐から15分ほどで天狗岩に出た。
小さい岩場だが展望が良い。眼下に稲が実った里の黄緑と丘の林の濃い緑のコントラストが綺麗だった。その里の背景には山々が取り巻いている。右手から畳山、熊の城山、櫛山、樋佐毛山、椎谷山、平家山、加計山、火野山、雉子の目山などの峰々が囲むように続いている。
ガマズミ |
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ママコナ |
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登山道へ戻るとママコナ、ヤマハッカが咲いていた。15分ほどで寒曳山。山頂にホオノキが生え、雨量観測局がある。展望プレートがあるが、周囲は林で覆われて見えない。北のスキー場側は開けている。雲海が続き、三瓶山は霞んでいるが、その左手に冠山(863m)が大きく見える。さらにその左に大江高山が薄く見える。
山頂から西はササ薮になる。途中、開けた北側にリフトが通っている。尾根筋にカシワが点在している。山頂から15分ほどで牛の寝床と呼ぶ平坦地。この辺りは広島県で最も古いスキー場で、当時は南側から歩いて登っていたという。
東側のゲレンデに出ると、背丈を越えるススキ原になっていた。ミズナラの木に「中級クィーンコース スノーパーク」「初級エンジェルコース 初級ファミリーコース」の道標が取り付けてあった。ススキの間から下を覗くと建物が見える。
ツリガネニンジン |
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ウリカエデの果実 |
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牛の寝床から南へ下る。ヒノキ林の間を通る。地形図にある破線道は、所々薄くなっている。560m付近で道が分かれ、左は林道寒曳線の終点に向かっている。掘り下げた道は枝が覆う。牛の寝床から1時間ほどで車道に出た。
一休みして車道を進むと浜田道を渡る橋に出る。橋から西側に猪子山が見える。橋を渡って少し進むと墓所がある。弥生時代の集落跡の野田地点を回り、一面、稲穂の開地に出る。イボクサが群生する。県道に出て振り返ると、晴れ渡る寒曳山の姿があった。
ヤマハギ |
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尾根のカシワ |
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イボクサ |
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ヒヨドリバナ |
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ムラサキツメグサ |
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ヤブムラサキ |
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■地名考
『縄文時代晩期(3千〜二千数百年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」とみられる土器片が、沖縄県北谷町(ちゃたんちょう)の米軍返還地にある平安山原(はんざんばる)B遺跡で出土したと24日、同町教育委員会が明らかにした。沖縄県内から亀ケ岡式土器の破片が出土したことについて、青森県の考古学関係者は24日、東奥日報紙の取材に「驚くべき発見」「あらためて青森県はじめ北東北の縄文文化の広範な影響力を示すもの」と評価した』(「東奥日報・Web東奥2017年1月25日」)。
発見された土器片は、大洞系(おおほらけい)土器で、これまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄県内での発見は初めて。
大洞A式土器は、亀ヶ岡式土器のことで、沖縄から約2千キロ離れた岩手県大洞貝塚で出土した土器から名付けられた。破片には大洞A式土器の特徴である「工」の字を組み合わせた迷路のような文様の工字文が見られたほか、へこみ部分にわずかに朱色が塗られた跡が確認された。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原(いれいばる)遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたっていたことが分かっている(以上「琉球新報」1月24日)。
平安山原の大洞A式土器(亀ヶ岡式土器)の破片 |
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寒曳山の北東8kmに、順庵原(ジュウナンバラ)1号墳がある。国内で最初に発見された四隅突出型墳丘墓で、四角い高まりの四隅が飛び出したこの特殊な墳墓は、周りを石で囲まれている。大きさは10mちょっとと小形です(島根県HP)。
寒曳山北東の
順庵原(ジュウナンバラ)1号墳
島根県HPから |
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「四隅突出型墳丘墓は、弥生時代中期の後半(約2,100年前)に、中国地方一の大河、江川(ごうのかわ)をさかのぼった中国山地の山あいで誕生しました。上から見た形が四角形で、その四隅が舌のように突き出ているのでこの名前がつきました。
最初は、規模も小さく突出部もあまり
目立たない形でした。しかし、弥生時代後期(約2,000年前)になると、日野川を下り、妻木晩田(むきばんだ)遺跡の洞ノ原(どうのはら)2号墓を端緒にして、伯耆地方を中心に一気に分布を広げます。規模も少しずつ大きなものが造られるようになり、突出部も急速に発達していきました。
弥生時代後期の後半(約1,900年前)になると、分布の中心を出雲地方に移して墳丘の一層の大型化が進むとともに、分布する範囲を北陸地方などにも広げていきました。しかし、弥生時代の終わりとともに忽然とその姿を消してしまうのです」(鳥取県HP)。
四隅突出型墳丘墓は、可能性のあるものも含めて97基ほどが確認されている。模式図によれば、三次盆地で発祥し、江の川上流の安芸高田の稲荷山古墳、千代田の歳ノ神古墳、下流の順庵原など江の川沿いに広がる。それが伯耆、出雲、北陸へとさらに広がる。最北は福島県喜多方市塩川町分布する。今後新たな発掘により、さらに分布が広がるかもしれない。
寒曳山は順庵原古墳付近を通る江の川の支流、出羽川の水源にある。
順庵原(ジュウナンバラ)1号墳
(2017/9/10) |
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順庵原(ジュウナンバラ)1号墳の位置
(島根県邑智郡邑南町上亀谷)
緯度34°50′52.48″
経度132°30′55.10″ |
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北側の角の突出部 |
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西側の貼石 |
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出雲風土記に入海(宍道湖)を取り巻くように、かんなび山が四つある。
出雲郡の神名火山、楯縫郡の神名樋山、秋鹿郡の神名火山、意宇郡の神名樋野の四つである。
出雲郡の神名火山は、「曽伎能夜社(そきのや)に鎮座していらっしゃる伎比佐加美高日子命(きひさかみたかひこ)の社が、この山の嶺にある。だから神名火山という」(出雲風土記)。
楯縫郡の神名樋山は、「嵬(みね)の西に石神がある。高さは一丈、周りは一丈、径(みち)の側に小さい石神が一百余りある」(同)とあり、石神が山名の由来になっている。
秋鹿郡の神名火山は、「いわゆる佐太大神の社は、その山の麓にある」(同)とあり、社が山名の由来。
意宇郡の神名樋野(かんなびぬ)は、「郡家の西北三里一百二十九歩の所にある。高さ八十丈、周り六里三十二歩ある。〔東に松がある。三方にはいずれも茅がある〕」(同)とあり、ここだけ山でなく野となっている。周辺には八重垣神社、神魂神社、真名井神社、六所神社など由緒ある神社がある。
「かんなび」は、「社」や「石神」など、神が隠れこもれる所で、「かんなび山」は信仰の対象として古代人に祭られていた山のことを指すと考えられている。
寒曳山南面には古代古墳が多い。枝の宮神社には大きい杜が残っている。中腹には祀られた仙人岩の巨石がある。天狗岩も石神なのかもしれない。古書に「神引山」とあるのは、古くから信仰の山であったと思われる。
石見弁
けんびき 背中、肩胛骨の内側
奄美方言
ひき 肩および肩胛骨の筋肉で、凝るもの、凝るところ。
ヒキ ヌ イジて。 hiki nu izi. 肩が 凝った出た。
ヒキ ウて。 hiki u. 肩を 叩け。
ヒキ ムム。 hiki mum. 肩を 揉め。
方言「ヒキ」は「肩」の意がある。
寒曳山=神ひき山は「神の肩」=天狗岩を指しているとも考えられる。
ノボリ(方言)に以下がある。
今帰仁
登る・上る ナブールン ヌブールン
登り ヌブイ
木登り キーナブイ、キーヌブイ
山登り ヤマーナブイ
首里・那覇方言
登り ヌブイ
木登り キーヌブイ
奄美方言
登る ヌブリ、ヌブルリ
宮古方言
登る ヌーい
「かんなび山」は、「かんなぶ」=「神ノボリ」の音韻転訛とも考えられる。「かんなび山」は信仰の山であることから、神のもり=神の杜であった。
「神のもり」「神のぼり」「神なぶり」「神なび」などと音韻転訛したとも考えられる。
寒曳山の西に666.9m三角点がある。点名は登(のぼり)で所在地は「大朝町大字大塚字上寒曳」である。枝の宮神社北西の大塚川水源に「登」地名がある。
カシミール3Dデータ
総沿面距離8.7km
標高差415m
区間沿面距離
枝の宮神社
↓ 2.5km
林道終点
↓ 2.1km
寒曳山
↓ 2.6km
車道
↓ 1.5km
枝の宮神社
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