山歩き

シダハゲラ…丸瀬山…同形山…猪子谷川
2017/6/10

瑞穂IC…シダハゲラ…986三角点・大岩…丸瀬山…ゲレンデ…同形山…展望所…瑞穂スキー場…郷路橋…瑞穂IC

■薊木屋(アザミゴヤ)986m:島根県邑智郡瑞穂町大字市木字薊木屋(点名:薊木屋) 浜田市旭町市木
■丸瀬山(マルセヤマ)1021m:島根県邑智郡瑞穂町大字市木字薊木屋(点の記:986m三角点の所在地) 浜田市
■同形山(ドウギョウヤマ・阿佐山北峯)1212m:島根県邑智郡瑞穂町大字市木字同形鉱山(点の記:ドウケイヤマ・1088Pの所在地) 邑南町

瑞穂IC入口前の今佐屋山遺跡跡
石碑の説明板
高速道のガードを通り西側へ
猪子山を望む
林道から尾根側に作業道、右に山道が通る
笹薮を進む
雑木林を進む
尾根の大岩
小鞍部を山道が横断
山道はスギ林を通る
鞍部のシダハゲラ
尾根の東側の掘り下げた跡
樹高が低いユズリハが多い
岩が現れると三角点が近い
薊木屋三角点
寒曳山を望む
同形山を望む
三角点付近の大岩
登山道を進む
大ブナと巨石
丸瀬山=1021ピーク
正面がスキー場へ行く道
左がアシ谷から上がる登山道の分岐
ゲレンデ端の製氷用冷凍機の施設に出る
八戸川右岸の尾根が丸裸
同形山を望む
小丸瀬と丸瀬山
ゲレンデ西のスギ林に入る
山道から同形山に出る
展望所と阿佐山
阿佐山と毛無山
尾根の展望所
ゲレンデを下る
瑞穂スキー場に下りる
猪子谷川左岸の車道を進む
八戸川右岸の山
カレキヨウ谷入口の看板
郷路橋から南側を振り返る
八戸川右岸の田んぼ
鉄穴興首石碑
瑞穂IC 今佐屋山遺跡跡
今佐屋山遺跡と瑞穂IC入口
瑞穂IC 今佐屋山遺跡跡 以下説明板より
 
 
6:30 瑞穂IC 気温9度 晴れ
 

7:20 山道
7:40 シダハゲラ
9:20 998三角点・大岩
9:40 巨石・ブナ
9:55 丸瀬山
10:45 ゲレンデ端の冷却塔
11:40 同形山
11:50 展望所
13:20 カタラ谷入口
13:50 瑞穂スキー場施設 
14:55 郷路橋 
15:35 瑞穂IC
 
 瑞穂IC駐車場を出発。駐車場から高速入口前に出ると、今佐屋山(イマサヤヤマ)遺跡跡の碑がある。石碑によると、遺跡は瑞穂IC建設工事に先立つ発掘調査で発見された。古墳時代後期と平安時代の製鉄炉が明らかになり、「わが国における初期の鉄生産を物語る貴重なもの」と記されている。

 石碑では、古墳時代の製鉄炉、国府時代の鉄作りムラ、平安時代の製鉄炉の説明板があり、その下には写真や想像図が示されている。

 石碑の所から高速道下のガードを通り、高速道西沿いの林道に出る。道沿いにエゴノキの花が少し残っている。坂を上がると、高速道の先に猪子山が見える。インターチェンジに沿う道をU字に回る。ウツギが満開、クリに花芽が出始めている。

ツルアリドウシ
サルメンエビネ

 高速道をU字に回り込んだ所に、西へ作業道が上がっていた。北側へは山道が上がっている。山道を北へ進む。山道が終わった所で、西の尾根へ進む。南に猪子山の峯、北に原山の峯が見える。笹薮を抜けて樹林に入る。

 アカマツが多い雑木林を進む。岩場の先の小鞍部に山道が横断していた。山道はシダハゲラに上がる谷の左岸を通っていた。コアジサイが咲いている。山道は谷上部のスギ林に入る。高速道から1時間ほどでシダハゲラの鞍部。西側はスギの植林地になっている。涼しい風は吹き、気温は22度。

 鞍部から南西方向の山腹に山道が通っている。南の尾根を上がると、東側に深く掘り下げた跡がある。鉄穴流しの跡だろうか。ミヤマシキミが群生し、青い実を付けている。谷の鞍部に山道が通っていた。尾根にアカマツが多い。背丈に満たないユズリハが多い。

クマシデ
ヤマツツジ

 所々、掘り下げた跡が残っている。広葉樹林を進み、岩が現れるとピークが近い。西側から三角点のあるピークの岩場に出る。ヤマツツジの花が残っている。大岩から東側へ展望があるが、霞んでいる。南側に同形山とゲレンデ、猪子山、寒曳山が見える。眼下に郷路橋付近の里が見える。

 岩の上をイワガラミが覆う。南の登山道を進む。道沿いにタツナミソウ、コバノフユイチゴが多い。山道の途中から、笹薮を西へ進み、大ブナのある巨石に寄る。巨石の傍に大きいブナが生えている。そのブナから少し下りた所にもう一つ巨石がある。

 登山道へ戻り、1021ピークの丸瀬山へ出る。「大丸瀬山頂の南面に飛岩という二個並んだ巨石がある。またこの山についての弘法大師の開山の伝承は、島根県側では広く知られており『瑞穂町史』にも紹介されている」(「西中国山地」)。「西中国山地」の地図にも丸瀬山の南面にトビ岩と記されている。現在は丸瀬山北の986三角点を、トビ岩と呼んでいるようだ。

ミヤマハハソ
ハクウンボク

 丸瀬山から東面を下る。分岐に出ると、南方向に「阿佐山スキー場山頂」、北方向に「とびいわ」の道標がある。オオカメノキが青い実を付けている。点々と大きいブナがある。丸瀬山から50分ほどで、日が照り付けるゲレンデ端に出た。製氷用冷凍機の施設の影で一休みした。

 ゲレンデを進む。ゲレンデの東側に展望があるが、霞んでいる。草地にニガナが多く咲いている。ケーブルを巻く巨大なドラムがゲレンデに転がっている。ヤマハンノキが実を付けている。ミヤコグサが群生している。日の射すゲレンデを登る。

 振り返ると、丸瀬山と小丸瀬が見える。その後は霞んでいる。スギ林の縁にヤブデマリが咲いている。暑さを逃れて、西側のスギ林に入り、登っていると山道があった。ハスノハイチゴの花が咲いていた。スキー場施設の所からゲレンデに出る。丸瀬山が頭が見える。

ハスノハイチゴ
ナナカマド

 同形山のリフトトップの影で一休み。目の前にあるナナカマドが咲いている。展望所へ下って行くと、サワフタギが咲いている。大岩の上の展望所のツルアジサイが咲き始めている。先週と比べて、今日は霞んで展望が悪い。

 ゲレンデを下る。ジグザグに下ると、ツチダキから下る山道がある。コミネカエデが咲いている。大きい葉が目立つハリギリがある。オオバアサガラの花がまだ残っている。トチノキの花がまだあった。ジグザグ道を下る。見上げると展望所が見えた。

 ブナが実を付ける。ジグザグ道からゲレンデに出る。ヤグルマソウが咲く。カツラの大木まで下る。カツラの木からウリハダカエデの葉がたくさん出て、実を下げていた。幹の周りに、ツルアジサイが咲いていた。クマシデが実を付ける。ケヤキの葉全体にコブが付いている。オオバヤシャブシに実。ヤマザクラの実を頬張ると、苦くて酸っぱい。

カツラの大木
コミネカエデ
ブナの実

 カタラ谷入口で一休み。冷たい水で顔を洗った。スキー場の建物施設から車道に出る。道は猪子谷川を下る。ウリノキが咲き始めている。川沿いにオヒョウがある。北側に遠く見える尾根上に作業道が通り、山肌が裸になっていた。キリの花が残っている。

 カレキヨウ谷入口に看板があり、枯木尾谷川と書かれている。郷路橋を渡る。川沿いの田んぼは、田植えを終えたばかりだった。鉄穴興首の碑の前を通る。「鉄穴興首と讃えられる人も出でし猪子山」と標柱にある。

 「この石碑には中屋善右衛門と一之谷清左衛門という二人の名前が書かれています。この二人は鉄穴流しの技術に優れており、指導する立場にあったようです。市木 のたたら製鉄の礎を築き村の繁栄に貢献した二人を頌徳して建立されました」(「広報おおなん2016.4」)とある。スキー場から1時間半ほどで瑞穂ICに帰着。

ウリノキ
オヒョウニレ
サワギク
カツラの大木に生えるウリハダカエデ
エゴノキ
オオカメノキ
ウツギ
コバノフユイチゴ
ヤマボウシ
ギンリョウソウ
タツナミソウ
ツクバネソウ
ニガナ
ヤマハンノキ
ミヤコグサ
サワフタギ
タンナサワフタギ
ケヤキの虫こぶ
ツルアジサイ
イワガラミ
オオバヤシャブシ
ヤマザクラ


地名考

 
 「丸瀬山は島根県側ではよく知られた山である。初見は『石見風土記』(736年・天平8年)にさかのぼる。観音寺原の村人は、1021m峰を大丸瀬、その北西尾根上の937m独標を小丸瀬と呼んでいる。大丸瀬山の南面にトビ岩という二個並んだ巨岩がある。またこの山についての弘法大師開山の伝承は、島根県側では広く知られており『瑞穂町史』にも紹介されている」(「西中国山地」桑原良敏)。

 「通道。従邇摩郡堺南北安芸国山県郡三石山。或丸瀬山通五十五里一百歩。正西美濃郡通り二十里計」(『石見風土記』)。

 丸瀬山、三石山は古代に遡る地名と思われる。


 「島根県内で確認されている製鉄関連遺跡はおよそ1500か所。そのうち石見部が約1000か所を占めているそうです。さらに、邑智郡内では邑南町が500か所、市木地区は80か所を数えます。いかに邑南町、そして市木地区に製鉄関連遺跡が多いかをイメージしていただけ るものと思います。

 瑞穂インターチェンジ付近には、6世紀後半頃に創業された国内最古級の今佐屋山遺跡が発見されており、古代よりたたら製鉄によって、この地域の産業が支えられていたことが分かります。

 たたらは、砂鉄を原料、木炭を燃料にした製鉄技術です。鉄鉱石ではなく、いわゆる真砂土(風化した花崗岩) の中に含まれる砂鉄を活用したもので、日本独自に発達したと言われています」(「広報おうなん」2016年4月)。


 今佐屋山遺跡の説明板によると、わが国で発見されている製鉄炉は、1400年前の古墳時代後期のものが最古で、今佐屋山遺跡もこの頃のものだと言う。500年代後半には、小規模な鉄生産が行われていた。

 丸瀬山の山名が、『石見風土記』(736年)に記されていることから、736年以前に、丸瀬山の地名が確立していたと思われる。遺跡の東に丸瀬橋がある。鉄生産に従事した人々と丸瀬の名は関連あるのだろうか。


 どういう人々がこの地で鉄の生産を始めたのか。

 雲南市三刀屋町六重の丘陵上の六重城南(むえじょうみなみ)遺跡1号墳から、古墳時代中期(およそ1500年前)に造られた、1号墳の周溝から、県内ではとても珍しい遺物が出土した。

 「鉄鐸とよばれるこの遺物は、扇形と考えられる薄い鉄板を、円錐形になるように曲げてあり、その内側に舌(ぜつ)とよばれる鉄製の棒が吊るしてあります。鉄鐸の長さは5pにも満たないものですが、振ると音が鳴るようになっていました。正に銅鐸ならぬ、鉄鐸とよばれるゆえんです。
 さて、この鉄鐸は、全国でも24の遺跡でしかみつかっていません。朝鮮半島では21遺跡で確認されていますので、その起源は、日本ではなく、朝鮮半島にあることがわかっています。つまり、六重城南遺跡1号墳から出土した鉄鐸は、朝鮮半島から持ち込まれた可能性が高いことになります。そして、鉄鐸の性格としては、祭祀に用いられた用具ではないかと考えられています」(雲南市HPから)

六重城南遺跡1号墳出土遺物
(雲南市HPから)

鉄製品奥から
鉄鐸、鉄斧、鉄鎌、鉇(ヤリガンナ)、錐、鑷子(セッシ)状鉄製品

鉄鐸(テツタク)

 『古語拾遺』(807年)に、筑紫・伊勢に天目一箇命(あめのまひとつのみこと:忌部五部神)を祖とする忌部があったと記し、この神に刀・斧・鉄鐸・鏡などを作らせたという記述がある。

 今佐屋山遺跡は、箱形炉で、島根県内では確認例は少なく、松江市玉湯町の玉ノ宮遺跡、雲南市掛合町羽森遺跡などで認められる。今佐屋山遺跡は玉湯の製鉄遺跡と関連があるかもしれない。

 出雲風土記、意宇郡に忌部神戸(インベカンベ)があり、忌部の由来が記されている。

 「忌部神戸 郡家の正西二十一里二百六十歩(正西21里260歩)の所にある。国造(こくぞう)が神吉詞(かんよごと)を唱えに朝廷に参上する時に、潔斎に用いる清浄な玉を作る地である。だから、忌部という」(『出雲風土記現代語訳HP』)

 「忌部神戸 郡家正西廿一里二百六十歩。國造、神吉詞奏、 参向朝廷時、御沐之忌玉作。故云忌部」(原文・前同)。

 六重城南遺跡1号墳から出土した鉄鐸は、朝鮮半島から持ち込まれた可能性が高いことになり、鉄鐸の性格としては、祭祀に用いられた用具ではないかと考えられている(雲南市HP)が、その後、今佐屋山の製鉄鈩によって、鉄鐸などの鉄製品が自家製造された可能性はないのだろうか。


 丸瀬山は、弘法大師開山の伝承がある。

 空海(774‐835年)は、讃岐国で生まれ、平安時代初期の僧。弘法大師で知られる真言宗の開祖である。幼名は佐伯眞魚(さえきのまお)。788年に平城京に上り、中央の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。

 佐伯部は古代日本における品部の1つで、ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を侵攻する際、捕虜となった現地人(蝦夷・毛人)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。

 忌部氏は古事記には「五伴緒」として現われ、古代豪族である。佐伯部は「声を発する呪術を行なう集団である」ともいわれる。一説には弘法大師・空海も忌部氏の流れであると言われている。蝦夷・毛人とつながりある人々が、丸瀬山のふもとに暮らしていたとも考えられる。


 「名字由来net」によると、丸瀬姓は、島根・鳥取・奈良・和歌山・石川に多い。忌部姓は、島根・福井・鳥取・奈良・京都に多い。丸瀬、忌部の姓は、日本海側と奈良に関係あるように思われる。

丸瀬姓の分布(270人)
島根・鳥取・奈良・和歌山・石川に多い
(名字由来netより引用)

忌部姓の分布(210人)
島根・福井・鳥取・奈良・京都に多い
(名字由来netより引用)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

カシミール3Dデータ

総沿面距離16.6km
標高差884m

区間沿面距離
瑞穂IC
↓ 4.4km
丸瀬山
↓ 2.5km
同形山
↓ 3.5km
瑞穂スキー場
↓ 3.2km
郷路橋
↓ 3.0km
瑞穂IC
 

薊小屋三角点から寒曳山を望む                                             ↓
薊小屋三角点から同形山を望む                                  ↓
巨石と大ブナ 丸瀬山北
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)