7:00 二軒小屋 気温11度 霧
8:00 十方山登山口
8:15 水越峠
8:35 ケンノジ谷
9:05 トチ谷
10:15 焼杉山
10:50 ケンノジキビレ
11:20 1271P
11:45 旧羅漢山
12:15 恐羅漢山
13:05 早手キビレ
13:25 夏焼峠
14:10 牛小屋
14:50 二軒小屋
7時前に小雨が止んだ。2週間前の二軒小屋は雪の山だったが、すでに除雪されていた。サバノ頭は低く雲が垂れている。横川川は雨と雪融け水で増水している。除雪されているのは二軒小屋の少し先までで、林道にはまだ雪がたくさん残っていた。
道沿いのミツマタがもう花を付けていた。やわらかいシャーベット状の雪道を進む。法面にはフキノトウがたくさん頭を出している。ウマバノ谷から滝のように水が落ちている。八百ノ谷も白濁している。進むにつれ林道には壁のような雪が残っていた。
両岸に雪が覆う横川川は白濁して勢いよく流れる。雪の林道を進み、1時間ほどで十方山登山口。登山口の少し先でカンジキを履く。旧羅漢山の道標が雪の中から現れている。水越峠は薄霧が立ち込めていた。気温は7度だった。
ミツマタ |
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法面のフキノトウ |
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八百の谷 |
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イノシシの足跡 ケンノジ谷 |
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林道の斜面にフキノトウが出ている。林道崩壊箇所はまだそのままだった。水越峠から20分ほどでケンノジ谷入口。ケンノジ谷にイノシシの足跡が入っている。堰堤に流木が溜まり、水が溢れていた。ケンノジ谷もいつもより水量が多い。ケンノジ谷の気温は3度だった。
水量が多く、渡渉地点で右往左往し、トチ谷合流点の少し上流を渡る。トチ谷左岸を進む。雪の下は空洞になっている所が多い。雪のスギ林を登る。ここにもイノシシの足跡が入っている。トチ谷水源を通り、3.8mブナの所に出た。ブナの小枝の出が悪い。幹に空洞があった。
4.2mブナを通り、広い尾根に出る。尾根はまだ深い雪に覆われていた。霧が切れて、少しの間、細見谷方向が見えた。ここにもイノシシの足跡があった。北へ下る。オオカメノキの冬芽が一斉に膨らみ、花芽が見える。1201ピークを過ぎると、霧が明けて、旧羅漢山が見える。この尾根にはオオカメノキが点々とある。
トチ谷のイノシシの足跡 |
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焼杉山のイノシシの足跡 |
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オオカメノキ |
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キハダの実 |
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焼杉山から30分ほどでケンノジキビレ。鞍部から少し進むと、キハダの実が落ちている。枝にも実がたくさん残っている。雪が覆うリョウブの林を登る。1271ピークへ進み、登山道のあるスギ林に入る。1300m付近の展望地に出るが、霧で見通しがない。
数羽のカケスが枝から枝へ飛び回り、騒がしい。焼杉山から1時間半ほどで旧羅漢山。雪の中から道標がすっかり現れ、この20日ほどで1mほど雪が減っていた。周辺は霧で全く展望がなかった。靴跡やスノーシューの跡を辿って鞍部へ下る。
ガスの中にブナが高く立っている。スギ林を通り、登りに入ると細かい霧雨になった。ガスが一段と濃くなった。ガスが覆う恐羅漢山に到着。旧羅漢山から30分ほどだった。濃いガスの尾根を北へ下る。ガスの中から大きいブナが現れる。靴跡やスノーシューの跡が続いている。
ブナの写真を撮りながら下る。1200mを下った辺りに、朽ちたブナから若いブナが伸びている木があった。さらに下ると大きいトチノキがあった。早手のキビレ手前に大きいミズナラがあった。早手のキビレに道標があり、台所原まで40分とある。
ヤハチのキビレを過ぎると小樹林帯に変わる。伐採跡のようだ。幹についたコケが剝ぎ取られていた。1131三角点から夏焼峠へ下る。恐羅漢山から1時間余りでナツヤケのキビレ。砥石郷山への道標がある。南へ踏み跡が続く。所々、雪が融けて、木の遊歩道が見える。「石」の道標が雪の中から現れていた。
雪が覆う森林セラピーのデッキを過ぎ、スギ林を抜ける。雪が融けた木の階段を下り、コウハチゴヤの谷を渡る。「国有林野貸付地」のプレートが貼ってある。雪が無くなった所でカンジキを外す。雪の残るカヤバタゲレンデの横を通る。
夏焼峠から45分ほどで牛小屋の車道に出た。入口に夏焼尾根コースの道標がある。道路沿いにフキノトウがたくさん顔を出している。40分ほどで二軒小屋に帰着。
朽ちたブナから若い幹が伸びる |
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コウハチゴヤ水源の朽ちたブナの若枝 |
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ダンコウバイ |
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フキノトウ |
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オオカメノキ |
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オオカメノキ |
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キハダ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
「日本語とアイヌ語、このふたつの言語がともに共通の祖先から流れ出た姉妹語である」(『日本語とアイヌ語』片山龍峯)。
「かなり規則的に和語の語根に対応することを見れば、アイヌ語と和語は、太古、同源であるか、強い借用関係にあったとも推定される」(『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)。
「言葉、文法など、日本語、アイヌ語、朝鮮語の間に似ている点が多いことには驚きます。そのことは、氷河時代における東北アジア人の日本海両側廻りでの流入。縄文草創期における鹿児島からの拡散。縄文全期を通じた列島・半島間の往来。縄文晩期における半島経由の渡来。黒潮や対馬海流が、列島と半島南部とに等しく南からの人や物を運んだこと。などが要因となっていた」(『縄文語の発掘』鈴木健)。
「日本語、アイヌ語、さらには朝鮮語には、音韻上、文法上の特徴において、あるまとまりがあるみれれるといってよいであろう。あるまとまりがみられるということは、これらの言語には、共通の基盤があることを思わせる。
…日本語、朝鮮語、アイヌ語の共通の基盤を、『古極東アジア語と名づけることにする』」(『日本民族の誕生』安本美典)。
「およそ1万〜2万年前には『古極東アジア語』の行われた地域は、日本海を内海としたかこみ、地つづきであった。日本海も結氷のため、渡りやすい部分が多かったであろう。そのことは、『古極東アジア語』は、環日本海語として、あるていどの統一性をもっていた可能性も大きい。音韻体系、文法体系、基礎語彙における共通性をもっていたとみられる。
その後、日本列島が大陸から離れるにつれ、古日本語(日本基語)、古朝鮮語、古アイヌ語は、船による移動などで、たがいに接触をつづけながらも、しだいに方言化し、さらには、異なる言語となっていった。この三つの言語のいずれかから、いずれかが派生したという関係では、なさそうである
古日本語(日本基語)の系統をひく言語は、その後稲作などの渡来とともに、長江(揚子江)下流域からのビルマ系言語などの影響をうけ、倭人語(日本祖語)が成立する」(『研究史 日本語の起源』安本美典)。
「栃内(とちない) 東北の北の方によくある地名。金田一先生は、栃とまたたびは日本語なのかアイヌ語なのか分からない、といっておられた。似た例ではアイヌ語のカリンパ(桜皮)と、『万葉集』などに出て来る古語カニハ(桜皮)が甚だ似ていることも周知の通り。アイヌ語と日本語の古い交流の謎として次の代の研究課題であろう。とにかくこの栃内はアイヌ語地名。トチ・ナイ(栃の・沢)と読むべきだろう」(『東北・アイヌ語地名の研究』山田秀三・草風館)。
カシミールで検索すると、栃内(岩手県遠野市・北上市・紫波町)・栩内川(青森県)があるが、北海道には無い。
「西中国山地」には「トチ」「トシ」を含む地名は20ほどある。いずれも谷名である。
オオトチ・オオドチ・オトジロウ・カミトチヤマ谷・ゴウロドチ・コブドチ谷・シモトチヤマ谷・トチゴヤ谷・トチサコ・トチ谷・トチノキエキ・トチノキエゴ・トチノキ谷・トチバシ谷・二本ドチなど。
匹見町の石ヶ坪遺跡では、縄文中期の九州系の並木式・阿高式土器が相当量含まれ、後期では瀬戸内系の中津式土器が多数を占め、九州系の鐘崎式土器も相当量含まれる。水田ノ上遺跡の配石遺構は東日本の環状列石状の遺構に類似し、関東から東海地方および九州地方との交流によってもたらされた文化といえる。中国山地脊梁地帯を東西につなぐ文化の伝播ルートが存在したと考えることができる(『中国山地の縄文文化』)。
「トチナイ」はアイヌ語地名であるが、「トチ」の呼び名は東西の縄文文化をつないだ時代に東北からもたらされたのであろうか。
食糧として保存されたトチの実
石見山間部に人々が住み始めたのは旧石器時代にさかのぼる。堀田上遺跡では2〜3万年ぐらい前の石器が出土した。郷路橋遺跡では、食料用のトチの実を蓄えた跡を残す6000年前のムラが見つかっている。
丸瀬山・阿佐山東の郷路橋遺跡 |
郷路橋遺跡
ごうろばし |
縄文 竪穴住居・土坑・柱穴
中世 掘立柱建物
近世 掘立柱建物・土坑・溝
縄文 縄文土器(早期・前期・後期・晩期)・剥片・石斧・敲石・磨石・石皿・種実(トチ)
中世(陶磁器)
近世(陶磁器)
トチの実の貯蔵穴
(島根県HPから)
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トチの実
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匹見町のヨレ遺跡(匹見町半田)から食糧として保存されたトチの実が出土した。縄文時代から「トチ」に関する呼び名があったと考えられる。
島根県HP『山々に囲まれた生活』
(匹見町の遺跡に見る縄文の暮らしと祈り)から |
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食糧として保存されたトチの実(匹見町・ヨレ遺跡出土) |
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石ヶ坪遺跡から石皿(いしざら)、磨石(すりいし)が出土している。アクヌキしたトチの実やドングリを石皿や磨石などを使い粉状にして調理したと考えられる。
「匹見町の広見・三葛・戸村・矢尾等の奥山には、2m幅の板が採れるほどの栃の大木があったが、昭和30年前後に伐採した。
栃の実は秋になると農家の各戸で多量に拾い、中では2〜3俵にも及ぶ者がいた。実は皮殻に皺が寄るまで乾して貯え、暇の時に炒って干し、入用の時はたいて煮た上食べもした。この実で栃餅を作った。その製法は皮剥ぎで水に浸した固い実の殻をとり、庖刀で小さく刻んだものを流れの水に漬けて一週間位置いた後、二〜三日灰水に入れて置くと苦味がとれる。この時餅米や粟と一緒にセイロウで蒸して餅に搗く」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。
トチノキの語源
トチノキの語源については横山健三氏の「トチノキの呼び名について」に詳しくある(以下は『トチノキの呼び名について』から)。
○「大同類聚方」(806〜809)
「止知乃美」(トチノミ)
「度知之美之」(ドチノミノ)
「止智久留味」(トチクルミ)
「止智久留免」(トチクルメ)
「止知久美」(トチクミ)
○「新選字鏡」(892)
「橡・詳爾反木実止知」
○「類聚名義抄」(1100年代)
漢字の「橡・木+太・杼(予木)・朽・栩・木+宁」にトチの和訓
「朽」の漢字に「朽・トチ・十千・義攷」とある
「十千」(その実の多いこと)
○トチの方言
トジ(青森・秋田・宮城)
トジノキ(青森・秋田)
トンジ(青森・秋田)
トツ(秋田)
トツノキ(岩手・宮城)
「大同類聚方」には「袁々波差乃美」(大麻の実?)があるので、「止知乃美」は「トチの実」であろう。
『本草和名』(918)では「橡実」に「和名都留波美乃美」とあり、「つるはみ」は万葉集に六首あり、「クヌギ」のことであると言う。
『倭名類聚抄』(934)では「杼」に「和名止知」とある。
以上から800年代の初めには「トチ」の呼び名が確立していたと考えられる。その後、トチの呼び名に「橡」「栃」「栩」「十千」などの字が当てられた。
東北の「トチナイ」地名がこれより古い地名であれば、「トチ」はアイヌ語であるとも考えられる。
アイヌ語では『知里真志保著作集』植物編に以下のようにあり、北海道南部幌別の言葉である。
tochi (to-chi) トチ 果実(トチの実)
tochi-ni (to-chi-ni) トチニ 茎(トチの木)
『この茎で臼・杵などの家具を作った。果実は乾し貯えておき、目や傷の薬に使った。使う時は水に漬けて柔らかくし、それを割ってその浸出液で眼を洗ったり傷を洗ったりした』(『知里真志保著作集』・平凡社)。
マタギ文化の中にトチノキの利用がある。木材としてのトチノキ、トチ餅などの食料や薬用としての利用もある。西中国山地にはマタギ言葉と思われるヤマダチ、ケンノジ、マドなどの地名、三葛の熊祭りのようなマタギの狩猟文化を受け継いだと思われる慣習もあった。トチを含む地名なども、マタギ文化とともに受け継がれたのかもしれない。
万葉集に「橡」を含む歌が五首、「つるはみ」が一首ある。「橡」は「つるはみ」と読み、クヌギのことである。「つるはみ」は樹皮やドングリ、帽子(殻斗)で染めた色のことであると言う。
1311 「橡の衣は」
1314 「橡の解き洗ひ衣の」
2965 「橡の袷の衣裏にせば」
2968 「橡の一重の衣」
3009 「橡の衣解き洗ひ」
4109 「都流波美のなれにし衣になほしかめやも」
万葉集の六首は、上記のように「つるはみ色の衣」の意味で使用され、「橡」は「衣」の枕詞になっている。
カシミール3Dデータ
総沿面距離14.5km
標高差544m
区間沿面距離
二軒小屋
↓ 3.4km
ケンノジ谷
↓ 1.8km
焼杉山
↓ 3.3km
恐羅漢山
↓ 2.2km
夏焼峠
↓ 3.8km
二軒小屋
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