6:15 千両橋北 気温21度 曇り
6:25 三坂八郎トンネル
6:50 トンネル上部の県境
7:30 1109P
8:45 1111P
9:20 高井山
10:40 781P
11:50 広高林道
12:45 休憩地点出発
13:35 県道42号線
14:00 三葛小学校跡で休憩
14:30 三坂八郎林道
15:25 コウイ谷
16:45 大神ヶ岳登山口
17:20 千両橋北の出発点
千両橋北の駐車地点から出発。気温21度で曇っている。道路沿いにウバユリが咲いている。斜面のヒヨドリバナにアサギマダラが舞降りて来て吸蜜している。10分ほどで三坂八郎トンネル。トンネル東側のイワイ谷水源に入る。急なスギ林を進む。倒木が多い。
倒れた大きいブナがある。水源の谷に下りると、スズメバチが一匹飛び回って離れない。谷からスギ林の小尾根を進む。スズメバチはようやく離れていった。25分ほどトンネル上部の県境尾根に出た。林間から大神ヶ岳の尖った懸崖が見える。
ヒヨドリバナのアサギマダラ |
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県境尾根に薮は無い。気温19度で涼しい風が吹き抜ける。スギ林の尾根を進む。トンネル上部から40分ほどで1109P。1109Pまで行ってしまうと少し引き返さないといけない。大杉谷水源が1109Pの西を通り、県境を越えて北に入り込んでいる。
植林地の尾根が続く。スギの根元にヒヨドリバナが一本咲いていた。植林地を抜けて1109Pから75分ほどで、展望のある1111P。東側に三坂山、千両山、雲の掛かる坊主山、冠山が見える。ピークにはホツツジ、リョーブが咲いていた。
1111Pから尾根は広葉樹の林に変わる。前方に高井山が見える。去年のクリのイガが落ちている。タンナサワフタギがまだ緑の実を付けている。古い溜糞が残っている。タヌキのものか。開けた所にリョーブが咲いている。西から上がるコウイ谷の鞍部を過ぎると高井山山頂。
ホツツジ |
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タンナサワフタギ |
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山頂は薮となりつつある。南側に広高山、寂地山の峯が見えるが雲が掛かっている。山頂から南側の薮を下る。前方が見えずあらぬ方向に下る。ようやく地形を確認し東よりに修正する。下る尾根を確認したところで一休み。
広葉樹林下の笹は深くない。南東方向から南方向の尾根を下る。781ピーク付近に溜糞があった。そこからさらに下るとアカマツが多くなる。710m付近から南西側は伐採地跡の薮になっている。眼下に三葛の里が見え、ヒロコウ谷に水田が見える。
ちょっと迷ったが、薮をそのまま下った。背丈を越える潅木と蔓と棘が進行を阻む。ナタで蔓を切りながら下る。ようやく薮を抜けて岩の所に出た。薮を抜けるのに30分ほどかかった。岩から下を見ると、南のコウイ谷右岸に山道が見える。ほどなく広高林道に下りた。
良形のヤマメ ヒロコウ谷 |
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コウイ谷右岸に入る山道はきれいに刈られていた。林道を少し下ると谷へ下りる道があった。ヒロコウ谷の取水口に出た。取水口から右岸の取水壁の側溝に水が流れている。谷で一休みしていると、釣り人が川を上がってきた。米子から来た方はゴギを狙っているという。ヒロコウ谷は釣り人の間ではよく知られているようだ。
上流に流し込むとすぐ、20cmほどの良形のヤマメが釣れた。40分ほど休憩して林道に上がった。薮尾根から見えた谷の右岸の水田まで下った。ここから先ほど下って来た薮尾根を見渡すことができる。牛尾原橋を過ぎた所にウバユリが多く咲いていた。
浄土真宗本願寺派正円寺を過ぎると、天狗を祀る「狗院社」(グインシャ)がある。河内橋を渡って殿屋敷遺跡に出る。
ヒメコウゾ |
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殿屋敷遺跡から縄文後期・晩期(3000年前)の土器・石器とともに、中・近世の遺物も出土した。また遺跡には大谷氏のものと伝わる宝篋印塔と五輪塔が置かれている。大谷平内(1570−72)は天正3年に益田元祥に滅ぼされた地侍で、殿屋敷は大谷氏族の住居址であった。
遺構は四周を柵で囲んで警固されていた。山間の僻地でありながら、土豪とまではいえないものの地侍級がいたということは不思議である(『匹見町誌』)。
殿屋敷遺跡から少し進んで河内神社へ入る道を過ぎると、入口に墓石がある。そこから民家横の小道を少し入ると五輪塔がある。これをコウリン屋敷石造物と呼んでいるようだ。
ウバユリ |
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マツボックリのエビフライ=ムササビの食痕 |
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新井屋畑を通り、県道42号線に出た。標識の温度計は26度を表示していた。県道を進むと陣ヶ原、杜ノ谷の遺跡がある。少し三葛側に入ると中ノ坪遺跡がある。さらに少し進むと、石垣のある古い山道が東側にあった。中ノ原遺跡を過ぎ、安蔵寺山登山口を過ぎて、三葛小学校跡(夢ファクトリーみさき)で一休みした。
三坂八郎林道入口付近の県道は工事中だった。林道に入るとアブが纏わりついてきた。油断すると手の甲にも留る。ミサカ谷の滝を過ぎると山側に作業道が入っていた。川沿いにはワサビ畑を作りつつあった。林道沿いにオオキツネノカミソリがたくさん咲いている。
シミズ谷には道が入り、ワサビの看板がある。スギオ谷には作業道が入っている。スギオ谷とコウイ谷の中間の小谷には山道が入っていた。コウイ谷手前に車が1台。林道上にマツボックリのエビフライが点々と転がっている。
タテイワ谷落口まで来ると、林間から尾根上に立岩が見える。三坂八郎林道入口から2時間余りで大神ヶ岳登山口。トンネルに入るとアブは付いて来なかった。しかしトンネルを抜けると広島県のアブがやって来た。しかし数は少ない。ほどなく出発点に帰着。
オオキツネノカミソリ |
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キツリフネ |
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三坂橋のウワミズザクラ |
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紙祖川沿いのネムノキ |
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トラノオ |
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クマノミズキ |
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ミツバウツギ |
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クサアジサイ |
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■地名考
「三葛地区には『熊祭り』が行われていた…昭和57年(1982)ごろ大谷瀧次郎(故人)は…熊を捕った場合、その狩猟具の槍などを用いて熊の周りを囲むように七本立て…『アブラウンケソー』と三回唱えた」(『匹見町誌・遺跡編』)。
「アブランケソワカ」「アビランケインソワカ」は阿仁・仙北・鳥海・雄勝のマタギ言葉で、「阿毘羅吽欠蘇婆訶」と表わし、マタギたちが山で唱える呪文で、地水火風空を意味するサンスクリット語。大日如来の真言の呪文である(『マタギ 消えゆく山人の記録』)。
マタギの成立は平安時代とも鎌倉時代とも言われている。「山立根本巻」(1193年ごろ)によると、清和天皇(850−881年)の頃、日本全国の知行を許されたとされている。マタギの成立が900年頃とすれば、マタギ系の人々が三葛へやってきたのはそれ以降ということになる。マタギが唱えるサンスクリット語の伝来は天平年間(729−749年)と見られている。
島根県邑智郡市山村で、正月十五日に「アブラウンケイソバノカワ」と書いた札を田畑に立てる。この日はアブラウンケイという神の祭日だという。田畑の害をする鳥獣を追払う日でもある。アブラウンケンソワカという唱え詞が変形したものである。
高知県西部の山村では、村中総出の狩を「庄屋マトギ」という。
四国の山地で狩猟のことをマトギという。
高知県では文化十四年鹿持雅澄の記録に、幡多郡でシシガリをマトギといったことがみえているが、今も十川村(高知県幡多郡)あたりでこの語を聞くことができる。
四国山脈寄りの高岡郡梼(ゆず)原村でもマトギは郷士の男子の、秋から冬への楽しみの一つと数えられていた。
愛媛県宇和郡の山地にもまだこの語(マトギ)はかなり広く使われているらしい。この地方では大がかりの山狩をいい、主として猪、鹿、兎などをとるためのもの。的射の訛という説もある。猟人のことをマトギという土地もあり、ヤマオイ、殺生人とも呼ぶ。
瀬戸内海に向った地方ではもう耳にすることがないが、香川県で獣をとる者をマトウの者というのは、その名残りかもしれない。(以上「国立歴史民俗博物館」HP)
狩人(かりうど)のことを東北地方ではマタギというが、それに近い言葉のマトギが、四国の西南部、愛媛(えひめ)と高知の国境付近の山間に今ものこっているのは、一方の言葉が他方へ流入していったものではなく、もとは広く分布していたものが、狩猟(しゅりょう)の盛んな両地方に残存し、他は消えてしまったものではないかと思われる
(『庶民の発見』宮本常一)。
椎葉村(宮崎県)では昭和33年までオコゼ祭りをして獲物祈願を行う習慣があった。修験者や修験の作法を熟知した庄屋などに祈祷してもらうことによって、猟師たちは獲物の肉を捧げ、獲物の穢の除去や慰霊のための作法や呪文を習得していった(『民俗宗教テクストの儀礼の形成』立松敦)。
東北地方のマタギは、山の神にオコゼの干物を祀る慣わしがある。椎葉村の慣習はマタギの慣わしに繋がっている。マタギの成立が900年ごろとすれば、それ以前に、狩猟を生業とする集団はどのような人々だったのか。
『日本書紀』によれば、日本武尊(倭建命)が東征で捕虜にした蝦夷を、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送った。それが佐伯部の祖であるとの起源を伝えている(景行天皇紀51年8月条)、
また、猪名県(いなのあがた=北摂地方)の佐伯部の者が、仁徳天皇が秘かに愛でていた鹿をそれとは知らずに狩って献上したため、恨めしく思った天皇によって安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「安芸国渟田(沼田郡沼田郷=現在の竹原市)の佐伯部」であるとも伝えている(仁徳天皇紀38年7月条)。
古墳時代の中頃(5−6世紀)には、東国人の捕虜を上記5ヶ国に移住させ、佐伯部として設定・編成した。
『常陸国風土記』(713年)には、昔、土着民である「山の佐伯、野の佐伯」が王権に反抗したことが記されている。
佐伯部は中部地方以東の東日本を侵攻する際、捕虜となった現地人(蝦夷・毛人)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもので、東日本の土着民を佐伯と呼んでいたものである。
斉明天皇5年(659年)に膽振鉏=伊浮梨娑陛(いふりさへ)がある。胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。
配流された東国人(佐伯)は、俘囚(ふしゅう)、夷俘(いふ)などと呼ばれた。
『延喜式』(927年完成)によると、律令国家68カ国のうち、35カ国に俘囚が居住している。『延喜式』には、俘囚の食料費が記録されている(下図=俘囚稲=束)。俘囚料とは、「各国が春に一定数量の稲(本稲)を農民に強制的に貸し付け、秋の収穫時に三割の利息(利稲)を徴収するという公出挙(くすいこ)、税の一種であって、その利息の稲をもって俘囚などの食料や禄料(ろくりょう・支給物品購入費とする)に
あてることにしたもの」であり、35カ国の俘囚料の合計109万5509束は、4565人ほどの俘囚を養うことができる数であるという。
しかしこれは諸国にいる蝦夷種の民の実数ではない。現に俘囚の名のもとに俘囚料の給与を受けている数である。俘囚は内地へ移ってから二代間給与を受けるが、孫には及ばない。蝦夷種でも、古くから移って、もはやこの給与にあずからぬものが多数いる。日向は、「延喜式」では俘囚料一千百束を計上してあるに過ぎない。少くとも承和十四年(847年)までは十万七千六百束以上を計上しており、それだけの人の子孫はどこかになければならない。
「延喜式」に計上してある数はただその当時の実数で、35国以外にも、かつて多数の俘囚の移されたところも多かったであろう(「蝦夷の馴属と奥羽の拓殖」HP)。
延喜式 主税の項の俘囚稲
(俘囚一人辺り年72束で計算)
(俘囚数を3割で計算しているが、4割、5割であるかもしれない) |
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814年、出雲では俘囚による荒橿(あらかし)の乱がおこる。遠胆沢公母志が、意宇(おう)郡・出雲郡・神門(かんど)郡の3郡にまたがる大規模な乱を起こした叛俘(謀叛を起こした俘囚)を討った功績で外従五位下を授けられた。俘囚の反乱は俘囚によって鎮圧された(『類聚国史』892年)。
延喜式によると、出雲の俘囚数は54人だが、3郡にまがたる大規模な反乱は、さらに多くの俘囚が移配されたことを物語っている。814年ごろには多くの蝦夷系の人々が生活していたと考えられる。
厳島神社と佐伯鞍職(さえきくらもと)
推古元年(593年)、佐伯鞍職は市杵嶋姫命の神託により厳島神社を創建し、初代神主となった。佐伯鞍職は蝦夷系の子孫ともいわれている。
延喜式に安芸国の俘囚稲はないが、『類聚国史』には「安芸国俘
囚長吉弥佐津吉に外従八位下、俘囚吉弥軍麻呂に外少初位下を授ける」とあるので、俘囚が移配されていたことがわかる(831年「広島県史年表」)。
また猪名県(いなのあがた=北摂地方)の佐伯部の者が、安芸国渟田(ぬた)に移されたのが「安芸国渟田(沼田郡沼田郷=現在の竹原市)の佐伯部」であるとも伝えている(仁徳天皇紀38年7月条)。
万葉集に「佐伯」を含む歌が二首ある。
佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも
(佐伯山 ウツギの花を持った
愛しいあの娘の手を握れるなら
それでウツギの花が散っにしても)
佐伯山は広島市佐伯区の鈴ヶ峰といわれている。
もう一首は大伴家持の歌で「陸奥国で金が出たという詔書を寿いだ歌一首と短歌」である。その部分につぎのようにある。
「大伴と佐伯の氏は、先祖の立てた誓いに、孫は先祖の名を絶やさず、大君にお仕えするものだと言い継いできた名誉の家なのだ。梓弓を手に持って、剣大刀を腰にしっかりとつけて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の警護はわれらをおいてほかに人はあるはずがないとさらに誓い、その思いはつのるばかりだ…」。
古く東征の時代に俘囚となった蝦夷系の人々が広く西日本に移配されたことがわかる。マタギ文化が現在も西日本に残っていることは俘囚の時代までさかのぼるのかもしれない。
カシミール3Dデータ
総沿面距離19.0km
標高差651m
区間沿面距離
千両橋北
↓ 3.4km
高井山
↓ 4.9km
三葛
↓ 2.6km
三坂橋
↓ 8.1km
千両橋北
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