7:20 大向長者原林道終点 気温3度 曇り
7:50 押ヶ峠
8:10 カーブミラー
8:30 祠
9:10 トリゴエ谷
11:40 京ツカ山
14:05 広見林道
14:10 甲佐家跡
15:45 御境
16:05 判城橋
16:20 大向長者原林道終点
R488から落葉が覆う十方山林道に入る。ヤマダチ谷の曲流に沿って林道を進む。林道はヤマダチと分かれ小谷に入る。30分ほどで押ヶ峠。
押ヶ峠から林道は下りになる。しばらく進むと東側が開け、十方山の尾根が見える。林道は西側の谷へ深く入る。谷の奥に滝が見える。折り返して東へ進むとカーブミラーがある。そこから植林地を下る。10分足らずで下の林道へ下りる。
林道はオシガ谷を渡り、さらにスキヤドウの谷を渡る。オシガ峠から40分ほどで山ノ神の祠。ここから下の細見谷を見渡すことができる。林道は細見谷に下る。対岸に細い水路のシダワラ谷が見える。ヘイフリ谷は小滝となって落ちている。
アキノキリンソウ |
|
カネヤン原を過ぎると細見谷左岸に滝となって落ちるタケワキ谷が見える。ノブスマ谷落口付近は広い川原になっている。出発から2時間ほどでトリゴエ谷入口。
岩の多いトリゴエ谷に入る。川原が広くなるところにハイイヌガヤとシダが多い。中ほどに滝がある。水源が近づくと笹薮が覆う。上部には一昨日の雪が残っていた。ブナ帯を通り、笹薮を分けて2時間半ほどで山頂。
三角点は笹薮の中だった。15分ほど密集した笹を刈った。笹薮の広い山頂は展望はない。潅木とササの薮の尾根を北西に下る。朽木に緑色のカワラタケが密集していた。ミズナラにクマ棚がある。下には枝が散乱していた。
カワラタケ |
|
半四郎山、広見山を見ながら、ササ尾根を下る。途中からアカマツが多くなる。大分下って、植林地の境界尾根に入る。大きいクマの糞があった。枝で突付くと中はクリーム色。ドングリやクリを食べた糞だった。古い糞ではなかったので、暖かい今年はまだ冬眠していないクマがいるようだった。
植林地が終わると、尾根端は崖になっていた。幹や枝を伝わりながら広見川に下りた。ちょうど半四郎山登山口の反対側辺りだった。左岸を進むとワサビ田跡があり、そこに石垣道が入っていた。石垣の下には水路跡があった。
左岸を進み、広見林道おの橋のところに出た。広見川の滝横を通り、R488号線の甲佐家跡に出た。長い登りの国道を進み、2時間半ほどで御境。峠付近にアキノキリンソウがまだ残っていた。国道にブナの実の殻がたくさん落ちていた。判城橋手前の墓所を通り、御境から30分ほどで出発点に帰着。
ツルリンドウ |
|
ヤマグルマ |
|
ミヤマシキミ |
|
シシウド |
|
ヤブコウジ |
|
オタカラコウ |
|
マサキ |
|
|
■地名考
三葛の熊祭り
「三葛地区には『熊祭り』が行われていたともいい、昭和57年(1982)ごろ大谷瀧次郎(故人)から聞き書きしたものを列記しておく。それは熊を捕った場合、その狩猟具の槍などを用いて熊の周りを囲むように七本立てなければならない。数が足りない時は木棒でも立てて補う。熊の月ノ輪の部分はお天道様には向けてはならず、頭を正面に向けて舌を切り取って供える。そして『籠宮の乙姫様に肴を差し上げんと思って討ったら、天の犬をあやまって捕ってしまいました。どうぞ許してください』そして『アブラウンケソー』と三回唱えたという。なぜ熊祭りをしなければならないかというと、熊野権現様のご幣が一本ずつ倒れるから、そのお使いである熊を供養しなければならないからであるという…熊を山の精霊としてとらえていることは確かであり、おそらく根底には山の神自身であったのではないかと思う」(『匹見町誌・遺跡編』)。
「当町地方の猟師が、大グマを射とめた時には、アブラウンケン・ソワカと、呪文を唱えた…東北地方のマタギは、大グマを射とめた際、アブラウンケン・ソワカと三度唱えたという。当地方のはこうした呪文の片言が、たまたま残存しているものらしい。クマを捕獲すると、天候が険悪になるものと、百谷辺では信じられておる。現在ではクマの数は、次第に減っていく運命にあって、当町では道川の三ノ谷や、三葛の伊源谷に、クマの穴があって住んでいるらしい」(『石見匹見町史』)。
昭和57年(1982)ごろ行われた三葛の熊祭り
(『匹見町誌・遺跡編』より)
|
|
熊捕り
匹見における熊捕りの歴史は、江戸末期の前後に槍で突く猟が行われている。
安永7年(1778)2月21日、両道川村庄屋藤井又四郎の報告。
一、旧冬大雪之節、鹿狩ニ出候前面、熊ニ出合一匹取申候而、肝取置干揚、此度奉拵上候。
一、熊取候ものは、当村之内芋原組百姓、仁介、権六、長左衛門忰清七。
嘉永5年(1852)7月5日、下道川村の弁蔵は、字押ヶ谷という畑で、偶然熊に出くわした。かねがね近辺の者から熊取りの依頼を受けていた弁蔵は早速、猪槍を持ち出して、まんまと突きとめた。
万延元年(1860)6月、三匹の熊を捕獲し、無届のまま、隠して置いた広見河内村百姓、馬之助・百合松・紋兵衛・庄兵衛・善作・新兵衛・梅右衛門・磯助は、法度を犯したかどで、五人組の作次郎と、連蔵とを通じて、同村の庄屋へ理由を述べて訴え出た。
慶応4年(1868)5月9日、下道川村の百姓、惣太郎・恵之助・貞之助・文吉・豊吉外五人は、同村亀井谷山へ明松を取りに行った時、不図熊に出くわし、その内壱頭を打捕り、直に切り崩し、御用当番斉藤六左衛門へ届出、生胆の買い上げを、民政所に願う(『石見匹見町史』)。
熊捕りを行ったものは百姓であるが、享和元年(1801)代官山崎岡右衛門は熊猟について「熊はお上から仰せ付けが無い場合には、渡世の狩人以外には捕獲を見合すよう」と訓戒している。
「渡世ニ致候、山猟狩人は格別之儀」(享和元年代官)(以上『石見匹見町史』)。
当時匹見に、猟を生業とする猟師がいたことがわかる。江戸期の猟師が三葛の熊祭りを行う猟師へと受け継がれたとも考えられる。
マタギは「ヤマダチ」(山立・山達)とも言う。
万葉集に「狩り立たたし」「狩り立たせる」「狩り立たし」などがあることから、「ヤマダチ」が和語であれは、「山の猟に行く」の意が考えられる。
東北方言では「キ」→「チ」の転訛が多い。沖縄方言にもみられる。
マタギ → マタチ のように転訛した。
熊祭りの風習が残っていた三葛や生業の猟師が古くからいた匹見には、猟に関連した地名が残ったと考えられる。五里山に上がるヤマダチ谷もその一つではないか。
●ヤマダチ谷
マタギ語に見られるアイヌ語語彙
マタギ言葉 |
アイヌ語 |
西中国山地
地形方言 |
ヘダ・セタ・セダ
犬 |
seta セタ
犬 |
|
チャペ・チャベ
猫 |
cape チャペ
猫 |
|
バッケ・ハケ・ハッケ
頭 |
pake パケ
頭 |
|
サベ・サンペ
心臓 |
sanpe サンペ
心臓 |
|
ワカ・ワッカ
水 |
wakka ワッカ
水 |
|
サッピ
火 |
ape アペ
火 |
|
ワシ
雪崩 |
upas ウパシ
雪 |
|
カド
天気 |
kanto カント
天気 |
|
シナリ
縄 |
sina シナ
荷負縄 |
|
マギリ
小刀 |
makir マキリ
小刀 |
|
ホノ
小さい |
pono ポノ
小さい |
|
ホロ
大きい |
poro ポロ
大きい |
|
ノサ
幣 |
nusa ヌサ
幣 |
|
シトギ
団子 |
sitoki シトキ
餅 |
|
ホロケ
老爺 |
poro-kur
ポロクル
老人 |
|
オハシリ
汁 |
ohaw オハウ
汁 |
|
ヤヂ
湿地 |
yaci
湿地 |
|
ウジ
獣道 |
ut ウツ
肋骨・枝沢 |
ウツ
狭い谷・獣の通路
ウト
小さな谷 |
クラ
岩場・崖 |
kura クラ
崖 |
クラ
断崖・岩場 |
ヒラ
斜面 |
pira ピラ
崖 |
ヒラ
尾根の側面
山の傾斜面 |
東北・沖縄方言の「キ」→「チ」の転訛
語彙 |
東北方言 |
駅 エキ |
イチ |
北 キタ |
チタ |
君 キミ |
チミ |
今日 キョウ |
チョー |
機械 キカイ |
チカイ |
|
|
語彙 |
沖縄方言 |
(阿児奈波 779年)
沖縄(1719年)
オキナワ |
(倭急拿 1534年)
ウチナー |
清ら キヨラ |
チュラ(美ら) |
カシミール3Dデータ
総沿面距離20.1km
標高差501m
区間沿面距離
大向長者原林道終点
↓ 6.2km
トリゴエ谷
↓ 2.0km
京ツカ山
↓ 1.9km
広見林道
↓ 7.2km
御境
↓ 2.8km
大向長者原林道終点
|