5:55 一軒家 晴れ 気温12度
6:40 焼山川入口
7:35 源流の森入口
(ノタノグイメガマの谷)
8:20 林道終点
9:00 林道始点(簡易トイレ)
9:35 飯ノ山貯水池堰堤
10:05 飯山集落
11:15 鬼ヶ城山
11:50 稗原峠
11:55 ようたあ林道
12:55 松の木峠
13:10 54番鉄塔
14:05 一軒家
一軒家から186号線を進む。吉和川右岸のスギ林の中に、中国電力頓原造林地の看板が見える。幟町村バス停の先の釣堀のあるタキガ谷(清水原川)の落口は、岩礁になっており、小堰堤に魚道が作られている。
イシデラ付近の左岸は広い平坦地で、ビニールハウスが並んでいる。道路沿いにウツギの白い花が咲き乱れている。上頓原バス停を過ぎると、広い頓原地区に入る。
頓原の水田は田植えを終えたばかりであった。この辺りで唯一の茅葺民家の裏山が伐採されていた。新焼山橋の上流で、吉和川と焼山川が合流している。
レンゲツツジ |
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イボタノキ |
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焼山川右岸の道を進むと、レンゲツツジが咲いている。ハウチワカエデが実を付ける。焼山川の下流付近には、旧石器から縄文の出土物がある。縄文土器や石鏃、黒曜石石鏃、スクレイパーなどが出土している。
横打橋を渡ると、東側の奥に古い墓が見える。その先に間伐作業道冠支線が入っている。タタバ川に入る林道に新道が開設されているようだ。タタバ橋を渡る。この辺りのカラマツ林にアカマツが入り込んでいる。
太田川源流の森の碑がある。天然林として、ミズナラ、コナラ、シバグリがある。碑の先がクロウツ谷に架かるユルギ橋。源流の森入口を通り過ぎて、一の渡出橋まで進む。この辺りはイチノワタデと呼ぶ地名である。
ギンリョウソウ |
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コツクバネウツギ |
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引き返して源流の森に入る。この林道はノタノグイメガマの谷に入っている。入口付近の支流は、沼のようになっている。源流の森展示林がつくられ、広葉樹35種類が植林されている。
向井谷の山の南側の林道を進む。木には古い名札が残っている。向井谷山方向に上がる山道がある。南側の水源に入る山道を過ぎると林道終点。山道を進み、飯ノ山貯水池東端に出ると、道が分かれる。ちょうど地図上の破線道が貯水池左岸と右岸に分かれる所である。
ヤマボウシ |
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ヤマグワ |
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右岸の山道を進み、途中で岸に出てみた。貯水池の東側は湿地帯で、その先に植林されたマツ林が見える。貯水池の中ほども、東側と同様の湿地帯だった。
山道から簡易トイレの並ぶ広場に出た。林道を進むとバンガローがある。さらに進むと広島学院林間学校の看板があった。この辺りの貯水池東側の三角点は西天徳(テントク)と呼ぶ。貯水池の南側には天徳造林地があるので、貯水池周辺はテントクと呼ぶ地名のようだ。
貯水池沿いに進み、堰堤に出た。堰堤の説明板に「飯ノ山貯水池」とあった。貯水池の水は下流の栗栖川発電所に送られている。貯水量1,790,000uとあった。
ヤマウグイスカグラ |
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モリアオガエル |
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堰堤出口から飯山川右岸の道を進む。左岸にHRC専用飛行場の看板がある。水溜りの上の枝にモリアオガエルが数匹絡み合い、その下に泡状のたまごが下がっていた。186号線に出て、旧道のイワヤ橋を渡る。
飯山集落に入ると、鬼ヶ城山が見える。集落から林道に入る。植林地下に水田跡の石垣が残る。コアジサイがたくさん咲いている。平岩で休憩する。前方は岩山で、三ツ岩と呼ぶ。突起状の岩が続いている。
シロモジの多い植林地の山道を登る。オニガジョウの大岩の端に出て、集落から1時間ほどで山頂。北へ下る。植林地を通り、30分ほどで稗原峠。山道を進み、5分ほどでようたあ林道に出た。
ウリカエデ |
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コガクウツギ |
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途中、林道から鉄塔道に入る。76番鉄塔の下に安山岩が転がっていた。75番鉄塔にも安山岩があった。広島県側は遺跡調査の記録があるが、山口県側のものは見たことが無い。鬼ヶ城山から1時間半ほどで松の木峠。
峠から冠山登山道を進む。赤いドラムカンの所から東に出てみると、登山道と送電線の間にケーブルが布設されていた。このケーブルは松の木峠に下りている。伐採した木をケーブルで下ろしているようだった。
54番鉄塔から山道を下る。53番鉄塔から北東に向かって、新しい林道が延びていた。冷水の出る小谷で一休み。そこは黒ボク土で、安山岩が転がっていた。フカ谷と伴蔵川合流点にあった木橋は鉄橋に変わっていた。そこから高速道の換気塔を通って一軒家に出た。
サルナシ |
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ハウチワカエデ |
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ミヤマガマズミ |
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オオバアサガラ |
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ササユリ |
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ウワミズザクラ |
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マムシグサ |
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■地名考
「黒ボク土は、主として火山灰を母材とし、良好な排水条件における母材の風化と平行して有機物が集積したことによる黒い表層をもつ土壌である」(農業環境技術研究所HP)。
従来、黒ボク土は火山灰土として説明されてきたが、山野井は縄文人が山焼きによってつくりだしたことを明らかにした。
「日本の土 地質学が明かす黒土と縄文文化」(2015/2/27発行 山野井
徹)の紹介文につぎのようにある。
「日本列島を覆う表土の約2割を占める真っ黒な土、クロボク土。
火山灰土と考えられてきたこの土は、縄文人が1万年をかけて作り出した文化遺産だった。
30年に及ぶ地質学の研究で明らかになった、日本列島の形成から表土の成長までを、風成層の堆積と、地すべり・崩壊などの侵食との関わりで、考古学、土壌学、土質工学も交えて解説する」。
「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。
冠遺跡群D地点(松の木峠)の黒ボク土は、Ysi-2、Ysi-1である。
冠遺跡D地点の黒ボク土=松の木峠付近
(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から
黒ボク土層厚は約70cm
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冠遺跡群D地点(795m標高)は松の木峠の国道沿いの東側にあり、堆積物に含まれる火山噴出物の分析が行われた。
D地点周辺の植物珪酸体分析は次のようになっている。
「この時期にはススキ属、キビ属などが生育する草原植生が成立したと考えられ…これらのイネ科植物は陽当たりの悪い林床では生育が困難であり、ススキ属やチガヤ属の草原が維持されるためには定期的な刈り取りや火入れ(焼き払い)が必要である。このことから当時は火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が考えられる」(『冠遺跡群[』2001)。
周辺の黒ボク土は、縄文人の山焼きによって形成されたと考えられる。
■周辺の縄文語地名(アイヌ語地名)
●鬼ヶ城山(オニガジョウヤマ)
onne-kamuy-so
オネ・カ・ショウ
大きい・神・岩
「オオカミジョウ(羅漢山)は狼の住んでいる洞穴のある岩」(「西中国山地」)とある。
焼山川下流沿いに焼山1号〜4号の四つの遺跡がある。縄文土器や石鏃が出土している。
▲焼山1号遺跡(旧石器・縄文)
土器片・安山岩・黒曜石
▲焼山2号遺跡(旧石器・縄文)
安山岩
▲焼山3号遺跡(縄文)
安山岩石鏃・黒曜石石鏃
▲焼山4号遺跡(縄文)
縄文土器・石鏃・石錘・スクレイパー・楔形石器
●ゆるぎ橋(クロウツ谷)
●クロウツ谷
音変化例(e … o)
くれー(黒い) … くろ
くれ(ちょうだい) … くろ
ヤガテ → ヤガト(長野)
ケナス → コナス(静岡)
●ヨコウツ谷
西中国山地地形方言
「ウツ」 狭い谷、獣の通路
●タタバ川
●ノタノグイメガマノ谷
ノタノグイメガマの谷の入口は湿地である。西中国山地地形方言に、「ヌタ」「ノタ」「ノダ」があり、湿地の意である。
西中国山地に「メガ」「グイメガ」を含む地名に以下がある。
女鹿平山・米加比良山(メガヒラ)
グイメガ峠(鬼石山)
メガネ峠(春日山)
女鹿原(畳山)
●イチのワタデ(一の渡出橋)
西中国山地に以下の地名がある。
一の渡(イチノワタリ・大平山)
二の渡(ニノワタリ・大平山)
閂渡(カンヌキワタリ・向真入山)
ワタリの谷(立岩山)
倉渡瀬橋(クラワタセ・春日山)
七渡瀬(ナナワタセ・大佐山)
ワタン谷(横川川)
月和田(ツキワダ・盛太ヶ岳)
八幡原(ヤワタハラ・苅尾山)
「一のワタリ、二のワタリは、水流の渡渉点の名称である」(「西中国山地」)。
万葉集(大伴旅人・万葉集・巻三・335)
我が行きは 久にはあらじ 夢(イメ)のわだ
瀬にはならずて 淵にてありこそ
私の旅はそんなに長い旅にはならないだろうと思う。夢のわだよ・・・浅瀬などにはならず、深々とした淵のままでいておくれ・・・
(わだ=淵)
●頓原(トンバラ)
頓原付近は Ebe
土壌で、縄文期に沼のような地形であった。周辺は黒ボク土(Ysi−1・Ysi−2)で野焼きが行われたが、頓原は沼のため野焼きは不可能であった。
カシミール3Dデータ
総沿面距離21.3km
標高差401m
区間沿面距離
一軒家
↓ 5.2km
ノタノグイメガマの谷(源流の森入口)
↓ 6.5km
飯山
↓ 2.7km
鬼ヶ城山
↓ 4.3km
松の木峠
↓ 2.6km
一軒家
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