5:40 柴木 晴れ 気温15度
8:10 横川出合
9:20 二軒小屋
10:00 十方山登山口
11:15 十方山
12:00 中三ツ倉
13:20 風小屋林道終点
13:45 那須小学校跡
16:15 上本郷古道
16:55 那須横川分岐
17:10 柴木林道入口
18:15 柴木
霧が降りる三段峡を出発。昨日の雨で、龍ノ口の姉妹滝は少し水量が増えていた。石樋の先に見える天狗岩の上はまだ曇っている。がけ崩れのあった関付から下ると、対岸に見える二谷の水量が多い。
向山の山頂は薄雲がかかっている。天狗岩付近の懸崖が崩れ、谷にアカマツが横たわっていた。渓谷のオオバアサガラが咲き始めている。葭ヶ原の下流に釣り人が入っていた。葭ヶ原の池の上の小枝にモリアオガエルが白い泡状の卵を生んでいた。先週は無かったので、この雨後に生んだようだ。
柴木から2時間半ほどで横川出合。横川川左岸の旧道を進む。幸橋を渡り、右岸を進むと、モリガ谷落口上流に釣り人。モリガ谷の先に「津島弥五郎の碑」がある。
コアジサイ |
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オオバアサガラ |
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「約四百五十年前 銀山城の落城により横川の郷士 津島弥五郎は 当地に逃れ住み開拓したがついに追手を受けて非業の最期を遂げた 爾来当地を横川と称す 昭和五十九年九月 右有縁者之を碑刻す」とある。
横川集落名の由来は津島弥五郎の出身地であるという。旧道から新道に出ると、魚切滝がある。この滝は横川断層上にある。古屋敷橋を渡ると二軒小屋。少し進むと、舗装が終わり砂利道になる。
林道横のスギが伐採され、法面にコンクリートが吹き付けてある。その辺りは車道が広くなっていた。大規模林道工事は中止になっていたと思っていたが、まだ続いているのだろうか。
横川出合から2時間ほどで十方山登山口。一休みして山道に入る。冷たい風が吹き抜ける。気温は11度であった。スギ林の根っこむき出しの登山道を登る。植林地から広葉樹に変わり、尾根に出る。1時間余りで十方山山頂。
女鹿平山右の羅漢山が見えるが、その右の冠山は雲がかかっている。北方向に半四郎山と向半四郎山の頭がのぞく。ユキザサの咲く尾根道を進む。20分ほどで奥三ツ倉。ナナカマドが咲いている。
モリアオガエルの卵 葭ヶ原 |
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ヤマグルマ |
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中三ツ倉には大岩があるが、道標のある奥三ツ倉の南側にも巨石がある。ブナ林を通り、藤十郎に出る。長い坂を下り、風小屋林道終点に着く。那須川沿いにヤマザクラの実がたくさん生っていた。小学校跡の那須ギャラリー手前から、アナグマが現れた鉄橋を渡る。
那須に入る二つの古道がある。左岸沿いに大古屋に出る道と上の山腹を通り、上本郷に出る古道。川沿いの古道を進むと、がけ崩れで寸断されている。さらに進むと、薮が覆い被さっている。薮の間から那須集落を一望できる。
薮を迂回して、植林地の中の古道に出た。石垣の残る幅広の道で、馬道であったようだ。石垣は所々、崩れている。日当たりの良い南面は薮が覆うようになる。何度か薮を迂回した。古道が大古屋の南東尾根に向かう辺りから、上にある山腹の上本郷への古道に上がる。
ツルアジサイ |
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ハウチワカエデ |
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下の古道から30分ほどで赤い境界目印のある上の古道に出た。進むと吉和郷町有林の看板がある。昭和35年にスギを植林している。林の間から鍋山が見える。北側に作業道が通っている。
那須から3時間ほどで、石柱のある那須横川分岐に出た。横川への古道を進むと、クロヤマ谷の水音が聞こえてくる。山道は恐羅漢公園線の落石防止ネットの内側を通り、車道に出る。車道から柴木林道に入る。オオマキ峠を下って、集落に入ると、東側に高鉢山が見える。内黒山登山口を通り、1時間ほどで柴木に帰着。
アカモノ |
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ユキザサ |
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タンナサワフタギ |
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ネジキ |
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ナナカマド |
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ギンリョウソウ |
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ヤブウツギ |
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ユキノシタ |
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ヤブデマリ |
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シライトソウ |
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ヤグルマソウ |
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エンレイソウ |
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■地名考
「黒ボク土は、主として火山灰を母材とし、良好な排水条件における母材の風化と平行して有機物が集積したことによる黒い表層をもつ土壌である」(農業環境技術研究所HP)。
従来、黒ボク土は火山灰土として説明されてきたが、山野井は縄文人が山焼きによってつくりだしたことを明らかにした。
「日本の土 地質学が明かす黒土と縄文文化」(2015/2/27発行 山野井
徹)の紹介文につぎのようにある。
「日本列島を覆う表土の約2割を占める真っ黒な土、クロボク土。
火山灰土と考えられてきたこの土は、縄文人が1万年をかけて作り出した文化遺産だった。
30年に及ぶ地質学の研究で明らかになった、日本列島の形成から表土の成長までを、風成層の堆積と、地すべり・崩壊などの侵食との関わりで、考古学、土壌学、土質工学も交えて解説する」。
「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。
『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。
従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。
クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。
植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ
は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。
もう1つは分解される前に燃焼に
よって炭化することである。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。
そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。
筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。
クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。
すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる
さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう
な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』
恐羅漢山、十方山尾根の周辺の黒ボク土は、土壌図ではYsi-1である。冠遺跡群D地点(松の木峠)の黒ボク土は、Ysi-2、Ysi-1である。
冠遺跡D地点の黒ボク土=松の木峠付近
(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から
黒ボク土層厚は約70cm
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冠遺跡群D地点(795m標高)は松の木峠の国道沿いの東側にあり、堆積物に含まれる火山噴出物の分析が行われた。
D地点周辺の植物珪酸体分析は次のようになっている。
「この時期にはススキ属、キビ属などが生育する草原植生が成立したと考えられ…これらのイネ科植物は陽当たりの悪い林床では生育が困難であり、ススキ属やチガヤ属の草原が維持されるためには定期的な刈り取りや火入れ(焼き払い)が必要である。このことから当時は火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が考えられる」(『冠遺跡群[』2001)。
恐羅漢山、十方山尾根周辺の黒ボク土は、松の木峠の黒ボク土と同様のものであり、縄文人の山焼きによって形成されたと考えられる。
■周辺の縄文語地名(アイヌ語地名)
恐羅漢山の山名は幾つかある。
オソラカン山
オソラカン辻
ソカヒ山
大亀谷山(道川)
旧羅漢山(横川・匹見町史)
匹見羅漢(匹見町)
西中国山地の地名に以下がある。
羅漢山(ラカンザン)
空山(ソラヤマ)
ザザラのタキ(岩崖・細見谷上流)
●恐羅漢山(オソラカンザン)
●ソカヒ山(ソカヒヤマ・恐羅漢山古名)
●旧羅漢山(キュウラカンザン)
●オサラカンサン
恐羅漢山周辺は黒ボク土で、ススキ原であった。
十方山、五里山へ続く京ツカ山の尾根は黒ボク土であり、古代、ススキ原であった。十方山は次の呼名がある。
ジッポウザン
ジッポウツジ
シッハウザン
●十方山(ジッポウサン・古名シツハウサン)
●京ツカ山(キョウツカヤマ)
黒ボク土は山焼きによって形成された。山焼きの後にはワラビなどの根茎類が生え、その後ススキ草原に変わっていく。
「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。」
「わらび掘りのあとへは、必ずシズラの苗を補植し、毎年山を焼くことが肝要であった。こうして漸く七〜八年を経過すると、再び掘り取ることが出来、放任して置くと十四〜五年も経過してやっと蕨が生えはびこるのである…
わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。
「蕨粉を取り除いたからの内、わらびの外側の長い繊維を『しずら』といっておる。これは非常に強靭で且つ腐りにくい点は、シュロの比ではない。だから江戸時代には土蔵の壁を塗る時、これを『すさ』として時に使用した。内石の俵正義氏方では100年以上経過した土蔵を取り壊したが、その際塗りこめた『しずら』は尚依然として変化もみせていなかったという」(『石見匹見民俗』)。
「縄文人は、ワラビの繊維を利用して、ワラビの縄をつくっていたふしがあります。
ふつうワラビは、食用と考えますが…桜田遺跡というところからは、ワラビの繊維で出来たカゴが、出土しているといいます」(「青森県・縄文ファンHP」)。
匹見や吉和の縄文遺跡から土堀道具である石斧が多数出土している。
カシミール3Dデータ
総沿面距離33.6km
標高差986m
区間沿面距離
柴木
↓ 9.6km
横川出合
↓ 8.8km
十方山
↓ 5.9km
那須小学校跡
↓ 5.5km
柴木林道入口
↓ 3.8km
柴木
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