6:00 虫送峠 晴れ 気温13度
8:40 作業道終点
9:20 嶽
10:30 ヒノキ谷鞍部の林道
11:25 ヒノキ谷山タタラ跡
12:25 鳥落橋
13:35 古代八幡湖遠望地
14:35 二川キャンプ場
15:15 臥竜山登山口
15:50 虫送峠
県境の虫送峠から作業道に入る。風化した岩層の横を通り、県境尾根の西側の作業道に上がる。林道の西側に小谷が入っている。785m付近で西側の尾根が開削されている。開削面に角礫が続いている。
開削地点から小ピークに向かう作業道に角礫が覆っている。ピーク付近の東側の壁は、40cmほどの表土の下に1.3mほどの砂礫層がある。大きい岩や小礫が壁から突き出ている。
西側の土壁にオオナメクジが居た。18cmほどの長さで、這った跡がクモの巣のように白く光っている。食べかけのキノコの回りにも、ベタベタの跡が残っていた。
ピークから作業道は一端下り、その先に角礫の道が続いている。途中、作業道の西側に黒土の広い面がある。30cmほど掘ってみがた、黒土だった。南側の谷の先に高岳が見える。785m付近から砂礫層に挟まれたシルト層が現れる。
土壁に18cmほどのオオナメクジ |
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オオナメクジがキノコを食べた痕 |
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ミヤマガマズミ |
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ビッチュウフウロ |
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表土と砂礫層90cmの下に30から50cmのシルト層、その下に厚い砂礫層がある。シルト層は波打っている所や、間に砂礫層が挟まれている所がある。シルト層は上部は白く、下側は褐色に変色している。790m付近で薄いシルト層が、作業道の下に入る。この付近は谷が作業道の西側に通っている所である。
そこから上は砂礫層の単層が続く。砂礫層の表層に大きい礫が見える所がある。さらに上の小谷の出口には亜円礫が集まっている。小谷右岸の尾根筋の表層を岩が覆う。土石流の跡か。さらに上の谷の出口も亜円礫で、表層を石が覆う。
作業道の分岐を下に入ってみた。終点の尾根は表層まで岩に覆われていた。引き返して、赤土がむき出しの作業道を進む。頭上に大岩が見える。転がり落ちてきたものか。ミヤマガマズミが真っ赤な実を付ける。作業道はウツナゴヤ谷の奥へ続いている。
ママコナ |
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オタカラコウ |
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964ピーク西の鞍部の谷筋に露頭が見られる。岩盤に横筋が3層見え、真ん中に立てに白い筋が走る。断層なのか、土石流の跡なのか。横筋が立筋に切られているように見える。
砂礫層に岩盤が露出する所があった。作業道はウツナゴヤ水源に下りていた。左岸は削られ、岩がむき出しになっている。道は右岸に渡り、奥の左岸で終点だった。作業道は嶽の直下まで延びていた。大雨が降れば、作業道は土石流と倒木の通り道となって流れ下るのではないか。
終点から伐採された尾根を登り、薮尾根に入る。尾根を登っていると、ちょうど9時に号砲が響いた。マラソン大会が始まったようだ。40分ほどで嶽山頂。三角点は笹薮の下だった。
薮尾根を下る。1時間ほどでヒノキ谷水源の林道に出た。ちょうど10時30分で、再び号砲が響いた。林道は猛烈な薮と化していた。薮が途切れたところで一休み。林道は所々、水路になっている。30分ほどで林道の分岐に出た。植林地の林道を進み、桧谷山タタラ跡の分岐に出た。土壁の法面に朽ちたハシゴが立ててあった。タタラ跡に向かって草原が延びている。嶽の南側の谷にもタタラ跡が多い。この辺りは砂鉄の山であった。
ヤマジノホトトギス |
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タンナトリカブト |
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車道に出てヒノキ谷を見ると、大きい角礫の中に亜円礫が混ざる。木束原川右岸の車道を進む。柴木川に近付くと道の両側に駐車した車が続いていた。山すそにトリカブトが咲く。鳥落橋の下は亜円礫が多い。
照りつける日が暑い。愛宕鎮守社の浸命水で一休み。冷水が美味しかった。カキツバタの池にハスの花が咲いていた。八幡小を左に折れ、三島会館の陰で一休み。ここは苅尾山から掛津山への展望地である。ナナカマド、カンボクが赤い実をつける。
尾崎谷湿原の入口から東へ折れると、古代八幡湖遠望地の看板がある。「湖が出来たのは洪積世で、初期の湖底は現在の地面より高く、臥竜山(苅尾山)の西壁が滑り、止水退水がくりかえされ現在の地面が出来た。現在の水田面は最後の湖底堆積面で、厚みは数メートルにも達している」とある。
明元寺、新川橋、杉田屋橋を通り、本坪川右岸の道を進む。杉田屋橋下は亜円礫を敷き詰めたような川床になっている。右に折れて本坪川左岸の道に進むと、野花の館がある。新中野橋を渡って、二川キャンプ場まで進む。
南へ向きを変えるとツリフネソウが多い。霧ヶ谷湿原を通り、高原の自然館に出る。臥竜山登山口周辺は、旧石器、縄文の遺物が出土した所で、旧八幡湖の湖岸であった。191スキー場に向かって真っ直ぐ進む。川底に大きい礫が多い。橋田屋橋を渡り、虫送峠に帰着。
カキツバタとハス |
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ゲンノショウコ |
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ナナカマド |
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ツリフネソウ |
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カンボク |
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ツノハシバミ |
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アケボノソウ |
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千町原 |
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臥竜山登山口 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
『日本語とアイヌ語』(片山龍峯)、『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)では、「和語」と「アイヌ語」を比較し、つぎのように述べている。
「日本語とアイヌ語、このふたつの言語がともに共通の祖先から流れ出た姉妹語である」(片山)。
「かなり規則的に和語の語根に対応することを見れば、アイヌ語と和語は、太古、同源であるか、強い借用関係にあったとも推定される」(鳴海)。
「日本語、アイヌ語、さらには朝鮮語には、音韻上、文法上の特徴において、あるまとまりがあるみれれるといってよいであろう。あるまとまりがみられるということは、これらの言語には、共通の基盤があることを思わせる。
…日本語、朝鮮語、アイヌ語の共通の基盤を、『古極東アジア語と名づけることにする』」(『日本民族の誕生』安本美典)。
古代八幡湖
「八幡盆地は標高750〜800mで、西中国山地の中でも最も標高の高い盆地である。周囲は1000mを越す山々をめぐらし、かなり広い面積を占めている。
湖成段丘が780m〜810m標高にあることより、古八幡湖の水面は、800mから810m標高であった。
盆地内の泥炭層の花粉分析から…古八幡湖は二度に渡って出現した。
氷期または晩氷期に出現していた第一古八幡湖。第二古八幡湖の水が柴木川へ流出して、現在の状態になった」(「西中国山地」桑原良敏)。
「八幡盆地は、周囲の高位平坦面より300〜500mも低く、南北8km(樽床ダムまで)・東西1〜4kmのひろさですが、標高760mの長者原をさかいにして、その南は回春による浸食が進みつつあります。長者原より北の部分は、浸食が進まず、平坦で水田以外に、ところどころ湿原があります。山麓の760〜800mのところには礫・砂・粘土の若い堆積物が残っていて、湖水の形成と消滅がここでくりかえされたことをしめしています。
湖水の成因は、臼木谷断層とこれ平行に走る臥竜山西側山麓の断層の活動により、地溝状に陥没したものと思われます。湖成層は第四紀のもので、湖成段丘に残っている旧期のものと、水田下に発達している新期のものとに二分することができます。
旧期の八幡湖成層は…ところによっては最上部に、三瓶火山灰と類似の淡黄褐色の浮石質火山灰が入っていることもあります。
旧期湖成層の分布は、本坪谷・上西・菅原・大林・長者原周辺の丘陵部で、さらに木束原・樽床堰堤の東西両側の県道沿いにもみられます。
湖成層の高度分布から…旧八幡湖の…湖面の高度は795m以上あったはずです。…虫送峠は765m…木束原西の休峠(木束峠)は785mです。虫送峠や休峠の高度が八幡湖面の高度より低いことは、日本海にそそぐ山陰側河川の谷頭浸食が、瀬戸内海にそそぐ柴木川にくらべて、非常に急激であったことをしめしています」(『広島の地質をめぐって』)。
波打つ・砂礫が混ざるシルト層 |
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虫送峠北の作業道の790m標高付近の前後に、砂礫層に挟まれたシルト層がある。作業道上に角礫が覆っていることから、砂礫層の下は角礫層であったと思われる。これは、古代における川跡と考えられる。シルト層が波打ち、砂礫が混ざるのは、水流の影響があったと思われる。
作業道上でシルト層と角礫層があるのは、この付近だけであった。
古代に虫送峠は、標高790付近にあった。古代八幡湖の水は峠を越えて、匹見川に流れていた。
スミ川水源の芸北100年農場の奥の、滝の平牧場の790m標高の作業道に、白と褐色のシルト層があり、シルト層の下に20cmほどの黒い層がある。
虫送峠作業道の790m付近にも、白・褐色のシルト層の下に黒い層がある。
旧湖成層は、「千丁原から西方の大林へ流出する渓流の北西側の崖で、高度795m、石英斑岩の基盤の上に不整合に厚さ2mの礫層があり、礫種は石英斑岩・流紋岩で10〜25cmの円〜亜円礫です。礫層の上に厚さ1.4mの粘土層があり、さらに上に厚さ15cm程度の浮石質火山灰層が水平に分布しています」(『広島の地質をめぐって』)。
ウマゴヤ谷落口下流、苅尾山登山口西の右岸の崖、795m標高付近に白いシルト層がある。
以上のことから、旧期の古代八幡湖の湖面は795mよりも上にあったと思われる。旧期の古代八幡湖は、虫送峠北の790m付近から、匹見川に流れていた。
八幡高原には尾崎谷湿原、奥尾崎谷湿原、本坪谷湿原、木束原湿原、長者原湿原など、古代八幡湖が陸化して形成された湿原が点在する。
芸北100年農場に入る分水界から北西に、長さ1km、幅300mほどの細粒黄色土壌(Aky)がある(土壌図)。
「本土壌は…残積あるいは洪積世堆積である」(都道府県土地分類基本調査『木都賀・三段峡』)。
滝の平の790m標高に、白と褐色のシルト層があることから、Aky土壌は、旧期古代八幡湖が形成した洪積世堆積であると考えられる。Aky土壌は、千町原、水口谷、霧ヶ谷にも分布する。
現在、柴木川とスミ川の分水界は、芸北100年農場の南にあるが、古代八幡湖の時代には、Aky土壌分布域の北側にあったと考えられる。
カワヨシノボリ斑紋型が八幡盆地に生息することから、匹見川と八幡盆地が古代にはつながっていたことを裏付けている。
「カワヨシノボリ斑紋型(ハゼ科の淡水魚)が太田川水系内で確認されたのは八幡盆地だけであり、八幡盆地近隣の河川で分布しているのは別水系となる高津川水系匹見川のみである。また、匹見川と八幡盆地との間は不完全な分水嶺となっている虫送峠があり、これは川が流れていた痕跡とされる風隙と思われ両地域を連絡する河川がかつて存在したことを予測させる…
…カワヨシノボリ斑紋型が分布する高津川水系匹見川の上流にあった八幡盆地域の水域は侵食を進めた太田川水系柴木川による河川争奪(あるいは古八幡湖の氾流)の結果により太田川方向へ流路変更が行われたと考えられる。
このため、太田川水系の中でも八幡盆地域には旧匹見川に由来するカワヨシノボリ斑紋型が特異的に分布しており、三段峡などの障壁の存在は他の太田川水系とも水域的に隔離されてカワヨシノボリ無斑型の侵入を阻んでいたものと考えられる。この八幡盆地周辺の河川争奪に関する著者の推定する仮説の概略については図5に示す」(『八幡高原(広島県芸北町)のカワヨシノボリ』吉郷英範)。
古代八幡湖の範囲
800m標高面=水色
5万分地形図+カシミール3D |
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古代八幡湖は湖成層の位置から、南端は樽床ダムに達する、かなり大きな湖であったと考えられる。八幡湖は虫送峠、樽床ダム付近、木束峠、あるいはスミ川水源のいずれかを越えていたと思われる。
第一古八幡湖は虫送峠を越え、第二古八幡湖は柴木川を下った。これがどのような過程を辿ったのか、興味あるところである。
●八幡原(ヤワタハラ)
八幡原周辺には旧石器時代から人々の出入りがあった。
「樽床遺跡群は、人工湖である聖湖に面した丘陵を中心に立地している。旧石器〜縄文時代を中心とする遺物が採集され、旧石器時代の遺物は、縦長剥片素材の基部加工ナイフ形石器、掻器や整った形態の縦長剥片が多数採集されており、石材は黒曜石、安山岩などだが、黒曜石の割合が高く、理化学分析では島根県隠岐産という分析結果が出ている。
出土石器は後期旧石器時代後半期に位置づけられるものと思われ、隠岐からの距離は直線で約200kmあることや石器群の特徴が山陰・北陸地域と関連を持つことなどから、今後の調査・研究の進展が期待される」(「広島大学埋蔵文化調査室」)。
縄文・旧石器時代を通じて、八幡原や樽床に隠岐や姫島(大分県)産の黒曜石を持ち込んでいた人々は、広い海を知っていた人々である。
カシミール3Dデータ
総沿面距離20.1km
標高差224m
区間沿面距離
虫送峠
↓ 3.2km
嶽
↓ 4.5km
鳥落橋
↓ 3.5km
古代八幡湖遠望地
↓ 3.9km
キリガ谷湿原
↓ 5.0km
虫送峠
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