山歩き

立河内…大将陣山…ヤグラタキ…城将山
2012/11/18

立河内…ジャノ谷…シモジロエ…タツ岩…大将陣山…ヤグラタキ…登山道…オオ峠…804m三角点…城将山…傍示ヶ峠…立河内

■大将陣山(ダイショウジンヤマ)1022.1m:山口県玖珂郡錦町大字須川字中尾(点の記) (山口県岩国市)
■高畑(タカハタ)804m:山口県岩国市錦町深川字島ノ谷(点の記)
■城将山(ジョウショウザン)826m:山口県岩国市錦町中ノ瀬字城将(点の記)
■幸地(コウジ)376m:島根県鹿足郡吉賀町幸地(点の記)(傍示ヶ峠)

大岡山と立河内集落
たちがわち橋を渡る
中山入江観音
口休橋を渡って林道立河内線に入る
工事中の堰堤
新道の水路から落ちるジョウダバタ
雨で急流のジャノ谷
上の堰堤と石積み
ワサビ田跡の長い石積みが続く
シモジロエ落口
シモジロエ右岸の山道を進む
右岸を進むと谷の分岐の植林地に出た
植林地の涸れ谷を登る
ナマスガ溢の標識
タツ岩
植林地の尾根に出た
ササ尾根の先の大将陣山
コナラのクマ棚
ササの大将陣山
タグラタキから見た羅漢山と上沼田
下から見たヤグラタキ
大将陣山直下の懸崖 東西に続いている
大将陣山直下の懸崖から見た成君寺山
植林地の登山道を下る
登山道からササ尾根に入る
851P南の尾根から見た城将山
植林地のオオ峠
804m三角点 高畑(島ノ谷)
城将山の大岩の所に出た
城将山三角点
平家ヶ岳東側
登山口の石垣
6:35 立河内  曇り後晴れ 気温7度
 

7:05 ジャノ谷
7:45 シモジロエ
8:40 タツ岩
9:40 大将陣山
9:50 ヤグラタキ
10:35 登山道
11:05 ササ尾根
13:00 オオ峠
14:00 804m三角点
15:30 城将山
17:10 傍示ヶ峠
17:35 立河内


 立河内三角点の北の車道を出発。北側に大岡山が見え、手前の立河内川に沿って民家が並ぶ。「たちがわち橋」を渡って、立河内川右岸の車道を進む。左岸に中山入江観音の小社がある。口休橋を渡り、林道立河内線に入る。右岸に新道が出来ているが、左岸の旧道を進む。

 周辺が伐採されて、堰堤の工事中であった。旧道は堰堤の下に沈むようだ。ジョウダバタの小谷が新道の水路から落ちている。ホン谷とジャノ谷の合流点手前で、旧道から新道に出た。

 橋を渡って、植林地のジャノ谷に入る。昨日の雨で谷は急流となっている。左岸の山道を進む。堰堤の手前の木橋を渡るが、水は橋の上を流れている。堰堤を越えると、ワサビ田跡の石積みがある。次の木橋を渡って左岸を進むと、石積みがあり、その先に堰堤がある。

ジャノ谷の石積み
ツルリンドウ

 次の木橋を渡ると、右岸に涸れたナガエキが落ちている。植林地の道を進むと、谷に長い石積みが続く。左岸の植林道を進み、シモジロエの谷に出た。落口下流に木橋が架かっている。山道は植林地のシモジロエの右岸を大きく回り、急な谷の右岸に上がっている。

 しばらく右岸を登って谷の分岐に入ると、植林地になる。右の涸れ谷を登る。大分上がった所にナマスガ溢の標識があった。シモジロエの右谷はナマスガエキと呼ぶようだ。谷に大岩があり、そこから水音が聞こえた。左岸に目立つ大岩があった。これがタツ岩のようだった。岩の中央に大きいケヤキが生えている。

ケヤキが生えるタツ岩
コナラの爪痕
尾根に散乱するコナラの枝
コナラのクマ棚

 涸れた小谷を登り、ササ薮を分けて尾根に出た。植林地の尾根からササ尾根を進む。前方に大将陣山が見えてくる。コナラの枝が折られて散乱している。木の上にクマ棚が残り、幹に爪痕があった。尾根にクマ棚が続く。南から上がる登山道と合流し、ササの山頂に到着。出発して3時間ほどであった。

 山頂から10分ほどで東のヤグラタキに下りた。霞が掛かっていたが展望は良い。正面に秀麗な羅漢山が見え、手前眼下に上沼田の集落がある。左手に鬼ヶ城山から冠山への峯峰。右端に城将山と馬糞ヶ岳。

 山頂尾根とヤグラタキの間から下って、ヤグラタキの下に出た。ヤグラタキの下は10mほどの岩壁になっている。そこから大将陣山の下を横切るように進んだ。上に岩が見えたので登ってみた。大将陣山の南面は東西に大岩が続く懸崖となっている。「西中国山地」の地図では南面の懸崖をヤグラタキとしているので、おそらく東面でなく、南面の懸崖がヤグラタキであろう。

大将陣山
下から見たヤグラタキ
マルバノホロシ

 登山道に出て、植林地の山道を下った。阿曽地付近からササ尾根に出た。所々、植林地の尾根になるが、ササの薮尾根が続く。林間から城将山が見える。植林地のオオ峠を通り、尾根に出てから3時間かかって804m三角点に着いた。三角点から少しササ薮を進むと、植林地の尾根道に変わる。804m三角点から1時間半ほどで城将山に着いた。

 山頂の岩に上がると、平家ヶ岳東面への展望がある。その右に鈴ノ大谷山が見える。山頂から急坂を下る。植林地の尾根を通り、ロープの張られた急坂を下る。石垣のある登山口に出た。林道に出ると、谷の右岸に小社の平野神社がある。廃屋のある坂を下って車道に出た。

 オモ川左岸の車道を進み、傍示ヶ峠の三角点に寄った。前方に大岡山が見える。傍示ヶ峠は緩やかに下る。河内神社の前を通り、出発点に帰着。

サルトリイバラ
オオバショウマ
ナンテン
 
登山口の平野神社
ヒノ丸山と民家
林道の廃屋 大野下
左入道 759m三角点
傍示ヶ峠三角点




地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 高津川周辺は古代遺跡が多い。縄文から近世につながる遺跡もある。縄文時代に成立した地名が現代に引き継がれていると考えられる。亀原には古墳時代の亀原遺跡があり、土師器、須恵器が出土している。

 高津川沿いの縄文・弥生遺跡から縄文土器、弥生土器、石鏃、石錘、石斧などが出土している。


 立河内周辺の遺跡

★五味田遺跡(ゴミタ 六日市 野中)
 縄文土器(晩期) 石鏃

★中野遺跡(ナカノ 六日市 野中)
 弥生土器 石鏃

★迫遺跡(サコ 六日市 久保田)  
 サヌカイト片(縄文か弥生)
 須恵器(古墳)

★弥勒遺跡(ミロク 六日市 久保田)
 土師器・須恵器(古墳)

★六日市経塚(キョウヅカ 六日市 観音山)
 経塚 

★中薮遺跡(ナカヤブ 六日市 中薮)
 生産遺跡

★九郎原T遺跡(クロウバラ 九郎原 溝手)
 縄文土器(早期・後期・晩期)
 石錘・スクレイパー・石斧・石鏃(縄文か弥生)
 弥生土器・磨製石剣・石剣状石製品
 
★九郎原U遺跡(クロウバラ 藏木 九郎原)
 縄文土器・石斧

★沖番遺跡(オキバン 六日市 九郎原 沖番)
 打製石斧・サヌカイト(縄文か弥生)

★藏木観音堂下遺跡(クラキカンノンドウ 藏木 利光)
 石匙未製品・石斧
 弥生土器

★旧役場屋敷遺跡(藏木 藤根)
 石鏃



●大将陣山(ダイショウジンヤマ・ダイショウチンヤマ)
 


●大将軍山(ダイショウグンヤマ)
 

 「『防長地下上申』(1749年)須川村の隣村道程の項に大将陣(チン)ヤマとある。わざわざ『陣』という字にチンとルビが振ってあるのはどう解釈したらよいのか。また同書の須川村隣村境目書の項には大将軍山とある」(『西中国山地』桑原良敏)。


●アゾウジ山(大将陣山の島根県の呼称)
 


●ヤグラダキ
 

 ダイショウジン、ダイショウチン、ヤグラタキの地名は、山頂直下の懸崖に由来すると思われる。


●立河内川(タチゴウチガワ) 
 


●ジャノ谷 
 


●カミジロエ 
 

●シモジロエ 
 
 

●ナマスガエキ(カミジロエ上流) 
 


●タツ岩 
 

山頂北端の大岩
山頂北の大岩
山頂北の大岩の上面
下から見た山頂の岩
山頂下の尾根の岩


●城将山(ジョウショウサン)
 s

 城将山に大岩が点在する。ジョウショウはこれらの岩を指していると思われる。

 

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カシミール3Dデータ

総沿面距離18.1km
標高差702m

区間沿面距離
立河内
↓ 4.0km
大将陣山
↓ 4.0km
オオ峠
↓ 3.9km
城将山
↓ 3.6km
傍示ヶ峠
↓ 2.6km
立河内
 

 
 
 
 
ヤグラタキから見た羅漢山と上沼田
ヤグラタキから見た城将山と馬糞ヶ岳(右)
城将山から
        平家ヶ岳                     ジョシガ岳 高岳山 鈴ノ大谷山                 青野山
登路 「電子国土」+「カシミール3D」

 
石見国吉賀郡吉賀郷・野々郷の名主座
 (『山陰地方の名主座について(上)』から)
石見国吉賀郡吉賀郷沢田村 大本申し(大本大当) 大本社 鎮守指月神社

本申祭の朝、当屋がドジョウ二匹を取る。指月神社神前での祝詞奏上の後、同社境内の大元社で土中に埋められた瓶の蓋を取り、なかの水の状況をみる。これには、年占の意味がある。そして、ドジョウを瓶の中に放して蓋を閉じる。
石見国吉賀郡吉賀郷注連川村 七草申し(武者的) 鎮守愛宕神社を拠点として、正月七日に七草申しという儀礼がおこなわれていた。これは、「武者的の神事」とも呼ばれているように、正月に徒歩弓で的を射る歩射神事である。
石見国吉賀郡吉賀郷七日市村 牲(にえ)の申し(牲の舞) 奇鹿神社に、牲(にえ)の申しという神事があった。『吉賀記』の記載によると、鹿大明神において、一二月二日、にえの舞がおこなわれた。これが牲の申しである。
この神事は、七日市村・ 抜舞村・月和田村・田丸村の四ヶ村にわたる一八の名が、順番で六名ずつ勤仕することにより運営されていた。
石見国吉賀郡野々郷津和野   鷺原八幡宮
大歳祭
石見国吉賀郡野々郷上領(木部)   木部八幡宮・木薗神社
 
石見国吉賀郡吉賀郷沢田村「近世初期の大本大当と寄子の名」と地名
 
(『山陰地方の名主座について(上)』から)
西暦 大当名 当人 寄子1 寄子2 寄子3 寄子4 寄子5 寄子6 寄子7 地名
1619 家守 神六 坂本 石原名 河本両名 中原両名 家守      
1620 秋守 庄屋弥二郎 光富両名 広金 大坪 八郎迫 下河内 秋守   光富
下河内
1621 山本 勘右エ門 松院 大坪 木屋河内 六反田 中河原 木崎 山本  
1622 河本 吉蔵 坂本 石原名 河本両名 中原両名 家守      
1623 大坪 八蔵 光富両名 広兼 土居名 八郎名 下河内     光富
下河内
1624 広兼 六郎右ヱ門 松院 大坪 木屋河内 六反田 中河原     松院
1625 来佐木 四郎右ヱ門 坂本 石原名 河本両名 中原 家守      
1626 六反田名 与右ヱ門 光富両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内     光富
1627 中原 六日市弥三郎 大坪 木屋河内 秋守 遠給 山本     六日市
恩給
1628 松影名 十郎右ヱ門 坂本 石原名 川本両名 中原 家守 松影    
1629 松影 六日市神右ヱ門 光富両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内     六日市
光富
1630 八郎迫 善五郎 大坪 木屋河内 秋守 中河原 遠給 山本   恩給
1631 中河原 作右ヱ門 坂本 石原名 川本両名 中原 家守 遠給   恩給
1632 中原 久左ヱ門 光富両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内     光富
下河内
1633 新田 弥助 大坪 木屋河内 秋守 中河原 遠給 山本   恩給
1634 中河原 神祇 石原名 松影 中河内 中原 家守 坂本   中河内
1635 石原名内 助三郎 光富両名 広兼 土戸 八郎迫 下河内     光富
1636 光富 彦右ヱ門 大坪 木屋河内 秋守 中畠 恩給 山本   光富
恩給
1637 石原名 七内 石原名 松影 中河内 中原 家守 坂本   中河内
1638 光富 善助 作右ヱ門 神右ヱ門 弥三郎 十左ヱ門 弥四郎 弥二郎   光富
1639 下河内 十内 善右ヱ門 市助 六右ヱ門 弥三郎 弥七朗 八蔵   下河内
1640 明森 又十郎 弥七 十左ヱ門 吉蔵 助十郎 七内 大郎助    
1641 坂本 大郎助 勘右エ門 弥作 矢左ヱ門 助三郎 助蔵 六兵衛    
1642 光富 市助 六左ヱ門 弥四郎 弥次郎 善助 善右ヱ門 喜三郎   光富
1643 木屋河内 弥三郎 助八 助蔵 文蔵 吉蔵 弥七 弥三郎    
1644 光富 弥三郎 神祇大夫 助十郎 七内 大郎助 助三郎 善五郎   光富
1645 山本 助十郎 又十郎 神左ヱ門 六左ヱ門 弥四郎 弥二郎 善助    
1646 家森 弥七 市助 弥三郎 助八 善右ヱ門 助蔵 六兵衛 弥七  
1647 河本 吉蔵 助十郎 七郎兵衛 鬼清 助三郎 善五郎 又十郎 吉蔵  
1648 大坪 助八 源右ヱ門 弥作 弥左ヱ門 六左ヱ門 弥二郎 善助 助八