6:40 河内神社 晴れ 気温11度
7:00 小堰堤
8:10 大堰堤
8:30 深谷橋(中国道)
9:50 江古(エコ)三角点
11:20 深谷大橋
12:10 ヒノ谷
12:50 オクアシ谷
13:10 ドードーの滝
14:20 初見
15:50 559三角点
16:10 江堂の峠(エドガタオ)
16:55 河内神社
河内神社から宇佐川の左岸を進むと、せせらぎ橋に出る。右岸に渡り、コテージの前を通り川に下りる。少し進むと前方に小堰堤が見えてくる。右岸に堰堤から水路が通っている。堰堤を越えると、左岸に石垣があった。150mほど進むと曲流し、谷に巨石が連なるゴーロに入る。
左岸の山の斜面に角ばった巨石が多く、これが谷に落ちて巨石群がつくられたようだ。巨石群を抜けると、大堰堤が谷を塞ぐ。堰堤の先に中国道の深谷橋が見える。堰堤下の水路を潜る。深谷橋下の左岸の斜面は、崩れそうな岩肌であった。
深谷橋から少し進むと、左岸に15mほどの滝が落ちている。この滝は向峠と中国道の東の山から水を集めた小谷から落ちているようだ。滝から100mほど進むと、左岸から滝が落ちている。この滝はおそらく向峠の水路から落ちているものだろう。さらに進むと右岸から水が滴る高い赤壁の滝が落ちている。
ダイモンジソウ |
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チャノキ |
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そこから少し進むと、左岸に炭焼跡の石積があった。周辺は竹林になっている。左岸に「砂防指定地 深谷川」の標識がある。左右に谷が落ちている所から、左岸の谷を登ってみた。水流で露出した小礫は角ばったものだった。山道が通っていたのそこを進む。向峠から水路が谷へ落ちていた。
柵を越えて進み、江古三角点に出た。広い向峠の大地の北に十王山が迫って見える。向峠の大地は、江古から西側は、緩やかに深谷川に下っているが、東側は平坦である。江古から南東の畦道を通り、中国道西の谷に出た。この谷が深谷橋西の滝に落ちる川のようだ。深く落ちた谷の右岸を進み、ぐるりと回って江古に戻った。
江古から山道を下ると、この道は水路の谷の右岸に下りていた。平凡な深谷川を進む。左岸から落ちるタキガサコは涸れている。初見の北から降りる谷は水量が少ない。深谷大橋の下は両岸狭まり、渕となっている。左岸を上がると遊歩道があった。朽ちた橋の架かる遊歩道は、深谷大橋の下を通り左岸に下りていた。途中「Bコース」の道標があった。
ヒヨドリジョウゴ |
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ミズタビラコ |
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深谷大橋から上流は大岩が多く、歩きにくい谷である。左岸に落ちるヒノ谷は、岩崖を深く削った谷である。進むと右岸から滝が落ちる。オクアシ谷は崖から落ちる懸崖の谷であった。ジャノ谷は小谷。そこから深谷川が左に曲がると、ドードーの滝入口。右岸に巻き道がある。滝はさらに奥へ続いている。
巻き道を上がると、深谷川と車道の間に山道が通っていた。山道には石垣が組まれている。山道に水路管が通っていた。初見手前で山道が薮になったところで、車道に上がった。初見に出て農道を進む。稲刈りはほとんど終わっていたが、稲の残る田もあった。草薮の分水を越えて東側の植林地を進むと林道に出た。草薮の分水の東側に林道が通っているが、西側の奥は薮になっている。
林道は深谷橋に出て、中国道を潜ると六日市農協の建物がある。その奥は山土の採取場になっていた。引き返して薮尾根を登る。1時間ほどで559三角点に出た。そこから20分ほどで江堂の峠(エドガタオ)。石の祠が祀ってある。峠の東側は懸崖である。
津和野街道を下り、石畳を通り、30分ほどで宇佐郷中に出た。願行寺の横を通り、宇佐川に架かる小泉橋を渡る。宇佐川と深谷川の合流点は浅い緩やかな流れであった。
河内神社 |
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アキノキリンソウ |
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キバナアキギリ |
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アキチョウジ |
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ナギナタコウジュ |
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シロダモ |
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ヤブコウジ |
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ママコナ |
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ノブドウ |
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ガマズミ |
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ヤブミョウガ |
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クロコマノチョウ |
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ハクセキレイ |
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シマヘビの幼生 深谷川 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
周辺縄文遺跡
★星坂遺跡(ホシザカ) 田野原星坂
縄文土器・弥生土器
石鏃・石斧(縄文〜弥生)
石包丁・石錘(弥生)
★九郎原T遺跡(クロウバラ) 九郎原溝手
縄文土器(早期・後期・晩期)
石錘・スクレイパー・石斧・石鏃(縄文か弥生)
弥生土器・磨製石剣・石剣状石製品
★九郎原U遺跡(クロウバラ) 藏木九郎原
縄文土器・石斧
★沖番遺跡(オキバン) 六日市九郎原沖番
打製石斧・サヌカイト(縄文か弥生)
★藏木観音堂下遺跡(クラキカンノンドウ) 藏木利光
石匙未製品・石斧
弥生土器
★旧役場屋敷遺跡 藏木藤根
石鏃
★五味田遺跡(ゴミタ) 六日市野中
縄文土器(晩期)
石鏃
★迫遺跡(サコ) 六日市久保田
サヌカイト片(縄文か弥生)
★河内遺跡(コウチ) 注連川河内
石器・打製石斧
★堂面遺跡(ドウメン) 六日市注連川
縄文土器
★田丸遺跡(タマル) 真田田丸
縄文土器
最近の高津川水源における河川争奪の研究によって、その争奪過程が明瞭になっている。古代には高津川水源に、四つの支流が流入していた。詳細は『中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪』(山内一彦・白石健一郎)。以下はその要約である。
高津川水源の北側から深谷川が流入。
東から向峠を通って古高津川が流入。
南の宇佐郷から古宇佐郷川が流入。
南から宇佐郷下流域の河川が星坂に流入=古南宇佐川。
争奪は先ず、古南宇佐川が争奪され、星坂への流入が止まる。
次に、宇佐郷川争奪され、高津川水源への流入が止まる。
次に古高津川が争奪され、向峠への流入が止まる。
最後に深谷川が争奪され、深谷川は宇佐郷で宇佐川に合流。
深谷川右岸の段丘面下約1m のところに挟まれる礫混じり砂質シルト層の14C年代値は3340±40y.BPを示した(地図のLoc6)。
UsY面(茶色線)の構成層に宇佐川源流部起源の安山岩や玄武岩が認められないことなどから、深谷川が形成した扇状地が段丘化したもの(深谷川の向峠付近の両岸)。
深谷川の争奪時期が1万年から3000年前、古高津川の争奪が3万年前と推定されている。
深谷川両岸の黒ボク土(B図)は、4300〜8600年前に形成されたことから、深谷川が宇佐川に争奪されたのは4000年前と考えられる。
星坂に縄文遺跡があることから、縄文人は深谷川の河川争奪の現場を目撃していると思われる。
●宇佐郷(ウサゴウ)
深谷川と宇佐川の合流点の上流の、小堰堤の左岸に段球面があり、縄文期にはここが川の合流点であった。両岸が狭まり、合流点から滝のような川が流れ出ていたと思われる。
上流の宇佐のヤケヤマ谷と寂地川の合流点、ツムギ谷の上流のウサゴエ谷とククリキ谷の合流点も同様の地形がある。
向峠 江古東方向 |
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●向峠(ムカタオ)
向峠へ流れていた古高津川は3万年前、宇佐川に争奪され、塞がる川となった。
●深谷川(フカタニガワ)
宇佐川に争奪された古高津川は、向峠からの流入が止まり、深谷川が大量に砂礫を堆積して扇状地を形成して、向峠西、田野原に広い台地を形成した。
1万年から3000年前、深谷川は古宇佐郷川の旧流路から宇佐郷に溢流して、宇佐川に合流した(『中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪』)とされるが、その時期は4000年前であったと考えられる。
河川争奪前、高津川水源の深谷川は浅い、長い川であった。
新田東付近 |
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●新田(シンタ)
●初見(ハツミ)
河川争奪の時期、現在の高津川水源の広大な低地は大きい湿地であったと思われる。
江古南方向 |
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●江古(エコ)
深谷川左岸の向峠西の391三角点はエコと呼ぶ。深谷川が争奪された後の地名である。星坂のエドガ峠と対比される地名である。古代、江古は深谷川の右岸にあった。
●エドガタオ(江堂の峠・エドウノタオ)
エドガタオの東側は崖になっている。
カシミール3Dデータ
総沿面距離17.4km
標高差331m
区間沿面距離
河内神社
↓ 3.3km
江古三角点
↓ 2.9km
深谷大橋
↓ 2.6km
ドードーの滝
↓ 5.9km
559三角点
↓ 2.7km
河内神社
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