6:55 三宮神社 晴れ 気温11度
7:35 林道終点?
8:20 作業道終点
11:20 大将陣山
12:05 923P
13:35 827三角点
14:35 755三角点
15:40 星坂峠
16:10 水源公園
16:35 厳島神社
16:50 樋口橋
17:25 三宮神社
三宮神社の駐車場をお借りして出発。沖番遺跡の地点から九郎原の車道を入る。刈られた田を過ぎると高速道を潜る。この辺りが九郎原T遺跡の地点である。林の中の林道に入る。林道溝手線の標識がある。
林道がクロウ谷の左岸を通る。右岸のレホバタの谷は涸れた植林地である。左岸の三郎付も涸れ谷である。三郎付落口付近の上流右岸は懸崖となっている。林の中に滝に見えたのは堰堤であった。
ホホノキ谷を過ぎると林道終点のように見えるが、林道が左岸に回りこんでいるようにも見える。林道の薮を抜けると小ゴルジュに出た。両岸が切り立っている。右岸を巻いて抜け、谷へ下りると左岸に山道が通っていた。
ジンジソウ |
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チゴユリ |
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岩の谷を進むと小滝があり、両岸狭まり右岸を巻く。谷に出ると左岸に作業道が上がっていた。下流にあった林道が左岸を巻いて続いていたようであった。谷にクマの寝床のような草の跡があった。
植林地の中に文字の消えた標識があった。カナヤマノエキの左岸に山道が入っている。谷を少し進むと石積があった。ワサビの葉が残っていた。キコリノエキ落口が明るかったので、林道でも通っているかと上がってみると、ガレ場であった。絶えず崩れた石が出るのか、草薮となって木が生えないので明るい。
谷のさらに上部にも石積がある。涸れた谷にも石積があった。かっては水があったのかもしれない。小滝を越えてさらに進むと、山頂直下にも石積があった。完全に涸れた谷で、ワサビの葉も残っていなかった。
中がクリーム色のクマ糞 |
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オトコヨウゾメ |
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石積の先にクマ糞があった。表面は黒いが中はクリーム色であった。クリを喰っていたようだ。谷にはクリのイガが落ちている。最後の石積を通り、谷の水源に入る。そこにもクマ糞があった。糞の中はやはり白い。谷跡が消え、ササ山に入る。出発から4時間半ほどで笹薮の山頂に出た。
笹薮を北へ進む。ヤグラダキ分岐を過ぎた尾根に、クリの木の枝が散乱していた。見上げるとクリの木にクマ棚があった。さらに進むとクマの寝床跡があった。クマ棚が多い尾根を進む。笹薮の928ピーク、火防線尾根を通り、ヒキジノオ手前で、急に笹薮が消えた。中尾造林地の看板があった。
しばらく尾根を進むと、また笹薮となる。またクマの寝床があった。山頂から2時間ほどで827三角点。点名は長浴。ヤブ尾根を進む。クリの木に小熊のような小さい爪痕がある。尾根に大きいアカマツがある。755三角点は薮の中にあった。点名は柏谷、所在地は柏谷西ヶ平。三角点の南側を西ヶ平と呼ぶ。
クリの木の小さい爪痕 |
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ツルリンドウ |
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尾根を少し進んで、県境の急な植林地を下る。大分下りた所で山道に出た。墓所を通り、星坂峠の車道に出た。山頂からここまで4時間余りであった。須川吉賀線は通行止となっていた。峠で一休み、急な眼下に高速道が走る。左手の山の間に羅漢山が見える。
星坂峠を下ると、番所跡の道標に出る。星坂の低地の畑の先に小五郎山が見える。往還道のエドガタオの下に民家がある。その左手の民家の横に星坂縄文遺跡がある。車道を進むと高津川水源低地の先の、小五郎山の右手に茅帽子山から冠山にかけての山並みが見えてくる。
水源低地の中に小島神社(妙見神社)がある。そこは水源に浮かぶ小島である。高速道は小島の北を通り、田野原の出崎を切って西へ延びる。水源公園の先に白旗山南の尾根が見える。オクノ谷下流は涸れ谷であった。
田野原の広地を通り、新田野原橋から見た高津川は草の川床であった。厳島橋の下の一ノ谷も草川だった。ヒグチ谷の奥に山並みが見える。明治23年開校の藏木小を通り、樋口橋に出た。ヒグチ谷は草の川床だった。藏木橋の下の高津川は涸れ川。重則橋の下は水溜りがある。車道下のクロウ谷は涸れ谷。
周辺の三角点
向峠の391m三角点 宇佐郷江古(エコ)
向峠の480m三角点 向峠
田野原の489m三角点 田野原
星坂の559m三角点 星坂
高鉢の524m三角点 防方(すぼう)
十王山の872m三角点 十宝(じゅっぽう)引揚
827m三角点 長浴
755m三角点 柏谷西ヶ平
ミヤマガマズミ |
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シロダモ |
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ヤマハッカ |
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アケボノソウ |
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ナワシログミ |
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キバナアキギリ |
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カラスウリ |
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マルバルコウソウ |
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ヨウシュヤマゴボウ |
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イヌホウズキ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
周辺縄文遺跡
★九郎原T遺跡(クロウバラ) 九郎原溝手
縄文土器(早期・後期・晩期)
石錘・スクレイパー・石斧・石鏃(縄文か弥生)
弥生土器・磨製石剣・石剣状石製品
★九郎原U遺跡(クロウバラ) 藏木九郎原
縄文土器・石斧
★沖番遺跡(オキバン) 六日市九郎原沖番
打製石斧・サヌカイト(縄文か弥生)
★藏木観音堂下遺跡(クラキカンノンドウ) 藏木利光
石匙未製品・石斧
弥生土器
★旧役場屋敷遺跡 藏木藤根
石鏃
★星坂遺跡(ホシザカ) 田野原星坂
縄文土器・弥生土器
石鏃・石斧(縄文〜弥生)
石包丁・石錘(弥生)
★五味田遺跡(ゴミタ) 六日市野中
縄文土器(晩期)
石鏃
★迫遺跡(サコ) 六日市久保田
サヌカイト片(縄文か弥生)
★河内遺跡(コウチ) 注連川河内
石器・打製石斧
★堂面遺跡(ドウメン) 六日市注連川
縄文土器
★田丸遺跡(タマル) 真田田丸
縄文土器
最近の高津川水源における河川争奪の研究によって、その争奪過程が明瞭になっている。古代には高津川水源に、四つの支流が流入していた。詳細は『中国山地西部、錦川水系・宇佐川における河川争奪』(山内一彦・白石健一郎)。以下はその要約である。
北側から深谷川が流入。
東から向峠を通って古高津川が流入。
南の宇佐郷から古宇佐郷川が流入。
南から宇佐郷下流域の河川が星坂に流入=古南宇佐川。
争奪は先ず、古南宇佐川が争奪され、星坂への流入が止まる。
次に、宇佐郷川争奪され、高津川水源への流入が止まる。
次に古高津川が争奪され、向峠への流入が止まる。
最後に深谷川が争奪され、深谷川は宇佐郷で宇佐川に合流。
深谷川右岸の段丘面下約1m のところに挟まれる礫混じり砂質シルト層の14C年代値は3340±40y.BPを示した(第4図のUsY面のLoc6)。
UsY面の構成層に宇佐川源流部起源の安山岩や玄武岩が認められないことなどから、深谷川が形成した扇状地が段丘化したもの(深谷川の向峠付近の両岸)。
深谷川の争奪時期が1万年から3000年前、古高津川の争奪が3万年前と推定されている。
星坂に縄文遺跡があることから、縄文人は深谷川の河川争奪の現場を目撃していると考えられる。
●向峠(ムカタオ)
向峠へ流れていた古高津川は3万年前、宇佐川に争奪され、塞がる川となった。
●深谷川(フカタニガワ)
宇佐川に争奪された古高津川は、向峠からの流入が止まり、深谷川が大量に砂礫を堆積して扇状地を形成して、向峠西、田野原に広い台地を形成した。
1万年から3000年前、深谷川は古宇佐郷川の旧流路から宇佐郷に溢流して、宇佐川に合流。
河川争奪前の時期、深谷川は浅い、長い川であった。
●新田(シンタ)
河川争奪の時期、現在の高津川水源の広大な低地は大きい湿地であったと思われる。
●江古(エコ)
深谷川左岸の向峠西の391三角点はエコと呼ぶ。深谷川が争奪される直前の地名である。星坂のエドガ峠と対比される地名である。古代、江古は深谷川の右岸にあった。
●エドガタオ(江堂の峠・エドウノタオ)
●大将陣山(ダイショウジンヤマ・ダイショウチンヤマ)
「『防長地下上申』(1749年)に大将陣(チン)山とある。わざわざ『陣』という字にチンとルビが振ってあるのはどう解釈したらよいのか。また同書の須川村境目書の項には大将軍山とある。
大将軍山(ダイショウグンヤマ)
●アゾウジ山(大将陣山の島根県の呼称)
●ヤグラダキ
●クロウ谷
●レホバタ
カシミール3Dデータ
総沿面距離15.0km
標高差690m
区間沿面距離
三宮神社
↓ 3.8km
大将陣山
↓ 5.1km
星坂峠
↓ 2.9km
厳島橋
↓ 3.2km
三宮神社
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