山歩き

立野…黒ダキ山…バーのキビレ…十方山
2012/3/3

県道…下山林道…黒ダキ山…仏石…十方山南西尾根…下山林道峠…バーのキビレ…十方山…三ツ倉…瀬戸滝登山口…県道

■黒ダキ山(クロダキヤマ)1084.7m:広島県廿日市市吉和細見谷(点の記) (廿日市市)
■十方山(ジッポウザン)1319m:広島県佐伯郡吉和村吉和西(点の記) (廿日市市)

立野キャンプ場入口
細見谷橋
カンジキの跡が続く林道
テンガタキ谷
黒ダキ山登山口
ブナの尾根を進む
陽の差す尾根に出た
小松原橋から上がる尾根の合流点
ゴロシのタキの尾根
白く煙る十方山 ゴロシのタキから
煙る女鹿平山
三角点標柱が覗く黒ダキ山
仏石
十方山南西尾根の雪壁
十方山南西尾根
南西尾根から見える黒ダキ山
五里山と1158P
下山林道手前から見た十方山
下山林道峠
五里山と1158P 下山林道峠から
三ツ倉と市間山 林道峠北の尾根から
焼杉山と旧羅漢山
広見山
バーのキビレ
展望地から見た女鹿平山、冠山、黒ダキ山
点在するスギ
昭和59年遭難碑
十方山北のピーク
十方山と奥三ツ倉
十方山と立岩山
北の十方山
亀裂の走る尾根
立岩貯水池と立岩山
やわらかい雪の南の尾根を下る
尾根分岐のブナ
コノタギシ
岩のピークの三ツ倉
十方山を仰ぐ昭和10年遭難碑 三ツ倉
3:45 県道沿い 晴れ 気温0度
 

4:00 立野キャンプ場
5:55 黒ダキ山登山口
7:20 登山道の尾根
7:50 ゴロシのタキ
8:35 黒ダキ山
9:05 仏石
9:40 十方山南西尾根
10:15 下山林道峠
11:10 バーのキビレ
12:40 昭和59年遭難碑
13:00 十方山
13:55 コノタのギシ
14:50 三ツ倉・昭和10年遭難碑
17:00 瀬戸滝登山口
17:30 県道


 ノーマルのため、立野キャンプ場へ降りる手前の、296号線の広い所に駐車。そこから暗闇の県道を進む。15分ほどで立野キャンプ場。キャンプ場は雪で埋まっているが、その先のあまご養殖場まで除雪されている。雪の細見谷橋を渡ったところでカンジキを履く。

 下山林道にカンジキの跡が続いていた。林道には雪の無いところもある。林道を流れる水流が雪を融かしていた。林道はテンガタキ谷へ深く入り、回り込むと間もなく黒ダキ山登山口。ここまでキャンプ場から2時間。カンジキの跡は林道の奥へ続いていた。

 登山口にある縄を使って這い上がる。尾根筋の下の方は雪が疎らであった。空が白み始めた。ツガの多い尾根を進む。背後に女鹿平山が見える。ブナ帯に入る。雪の上にヤドリキの橙の実がたくさん落ちていた。ツガの木の間に黒ダキ山が見える。林の間から陽が差し始めた。右手にテンガタキ水源の東の尾根が迫ってくる。

アカマツの食痕=エビフライ


 登山口から1時間半ほどで陽の差す尾根に出たが、冷たい東風が強い。アカマツとブナの林を進む。ここにもカンジキの跡があった。尾根の東側の雪庇に割れ目が入り、いまにも崩れそうであった。アカマツ林の下にマツボックリの食痕がたくさん落ちていた。「エビフライ」と呼ばれるものである。ニホンリスにこのような食痕がみられるが、広島県では絶滅したとされている。

 右手に三ツ倉と十方山登山道の尾根が見える。赤い灰皿の地点に出た。小松原橋から上がる尾根との合流点である。灰皿の先から尾根が細くなっており、東側は懸崖である。ここをゴロシのタキと呼んでいる。セト谷のサイガ原の先の小谷を登るとゴロシのタキと呼ばれる大きい岩壁に阻まれる。

 ゴロシのタキのある尾根は十方山とセト谷を見渡せる絶好の展望地となっている。十方山は白く煙り、風が強く舞っているようだった。セト谷水源に時々陽が指す。前方に黒ダキ山が見え、十方山南西尾根の山腹に林道の跡が見える。女鹿平山方向は濃いガスが掛かる。

ヤマグルマ
木片やキノコが散らばる 黒ダキ山手前


 黒ダキ山の山名の由来である懸崖が見え、その上にアカマツの林がある。尾根の東側に実をつけたヤマグルマがあった。朽木の下に木片やキノコが散らばっていた。アカゲラの仕業だろうか。尾根に上がってから1時間ほどで黒ダキ山。赤い灰皿が見えないが、三角点の標柱が頭を出していた。カンジキの跡が南の尾根から上がっていた。

 周辺の山はガスが掛かり見えない。風を避けて南面でコーヒータイムとした。急な斜面を下る。ノウサギの足跡が続く。ノウサギはアセビの根元をかじっていた。30分ほどで仏石。ブナ林を進む。雪の融けたブナの根元をを見ると、雪の深さは1.5mほど。十方山南西尾根に出た。尾根の雪壁は背丈ほどあった。昨年の2月19日より大分深かった。雪に深く腕を突っ込み、腹ばいになってよじ登った。

ノウサギの食痕
ブナに付いたコケが散らばる
ミズナラの瘤


 十方山南西尾根の雪壁の上を進む。ブナに付いたコケの類が雪の上に散乱していた。林の間に黒ダキ山が見える。西に五里山、1158ピークが見える。昨年はクマ棚が多かったが、今年は一つも無い。ミズナラの下に木片が散乱し、その木の枝の上の方に大きな瘤があった。下山林道へ下る途中、十方山が正面に見える。尾根に上がってから30分ほどで下山林道の峠。

 西側に五里山から京ツカ山へと続く雪の尾根が見える。五里山の先に大神ヶ岳、千両山が見える。この辺りにはオオバヤシャブシが多い。一服して尾根に上がった。ミズナラの下に木片が散乱し太い腐った枝片が落ちていた。木片を割ってみると、キクイムシの一種と思われる虫が出てきた。クマゲラはこの虫を狙っていたようだ。

オオバヤシャブシ
朽木の虫
ブナの爪痕


 三ツ倉の先に市間山が見える。左手に焼杉山、旧羅漢山、恐羅漢山が見える。風が止み静かなブナ林を進む。ブナに古い爪痕が残る。峠から1時間ほどでバーのキビレに降りた。東に立岩山が見える。尾根を進む。ヤドリギが枝ごと落ちていた。昨年はこの辺りもクマ棚が多かったが、今年はひとつも無かった。ウリハダカエデの実が残っていた。

 この辺り、昨年は折れたブナの木が多かったが、昨年より雪が多いと思われるが、今年は折れた木が一本も無かった。展望地に出た。ガスが抜け広い展望が広がる。女鹿平山から冠山、五里山へと続く尾根が前方にある。この辺りから上の林はブナよりもミズナラ方が多い。気温10度で暑くなってきた。樹林の背丈が段々と低くなり、所々、スギやマツ、ツガが点在している。

ヤドリギ
ウリハダカエデ


 林を抜けて平原に出た。間もなく昭和59年の遭難碑に到着。ここだけ雪が融けていた。左手に向半四郎、半四郎、広見、焼杉、旧羅漢、恐羅漢山の山々の尾根が続く。十方山の左のピークが見え、右のピークの道標が見えてきた。出発から9時間余りでようやく山頂に到着。

 立岩山の先の瀬戸内海は今日は見えない。十方山平原を取り囲むように1000m越えの山々がある。朝の荒れた天気とは裏腹に、多少風はあるが、静かな山頂であった。一服して下山。登ってきた足跡を辿って一本道を下る。遭難碑の先に冠山が見える。東側の岩壁に亀裂が走っていた。立岩貯水池は氷が融けて青かった。

ツルアジサイ
樹上に残る巣の跡


 やわらかい雪坂を下る。1時間ほどで尾根の分岐。左の尾根は大谷川の入り口に下りている。分岐にブナの大木があり、この辺りの西側をコノタギシの呼ぶ。山頂から2時間ほどで、岩のピークの三ツ倉に到着。山頂に向かって、昭和10年の遭難碑が立てられている。

 三ツ倉から山頂への最後の展望を眺めて下山。林の間から立岩貯水池が見える。カラ谷水源を渡り、右岸を降りる。水場から左岸を下る。雪の消えた所でカンジキをはずした。山頂から登山口まで4時間ほどであった。県道はすでに除雪されていた。

 ニイハタ谷は滝のように頭の上から落ちていた。雪解け水の吉和川は白く波立。ナガ谷は急坂を下り落ちる。

フウリンウメモドキ
 

 
三ツ倉から見た十方山
キリイシのタキ
十方山登山口
十方山登山口
ニイハタ谷
ナガ谷落口
吉和川





地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。

 『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。

 従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。

 クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。

 植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。もう1つは分解される前に燃焼に よって炭化することである。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。

 筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。

 クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる

 さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』


 十方山は北東から南西に延びる尾根の西端にある山である。この尾根には「Ysi-1」(吉和1統)と呼ぶ「黒ボク土」が形成されている。東端はサバノ頭周辺、西端はバーのキビレの西にある。

 黒ボク土は長年に亘る縄文人の山焼きによって形成された。「Ysi-1」と呼ぶ黒ボク土であることから、同じ地域の縄文人によって、同じ時代に継続的に山焼きが行われ、黒ボク土が形成されたと考えられる。


●十方山(ジッポウザン) 
 



●十方山(シツハウサン・十方山古名) 
 



●十方辻(ジッポウツジ) 
 


 サバノ頭から十方山へ長い尾根が続いている。この尾根の末端にあるのが十方山で、山頂は平たい笹の平原となっている。『芸藩通志』(1825年)には「シッハウサン」とある。十方山には北と南の二つのピークがある。


 「『ツジ』が山頂を表わす地形方言であることは、藤原与一氏の調査で明らかにされている。十方山頂の平坦地に、十方辻と名のつく所があるように考えるのは誤りである」(『西中国山地』桑原良敏)。

 「つじ」=「山の頂上」としているのは、兵庫・島根・岡山・広島・山口・香川・大分・福岡・長崎などである。石見弁では、「つじ」=「てっぺん」の意で、「山のつじ」の用例がある。

●バーのキビレ
 

 バーのキビレの西側が黒ボク土で山焼きが行われていた。サバノ頭から十方山に続く長い尾根の西端にある黒ボク土であり、尾根の西端のススキ原であった。


●三ツ倉(ミツクラ)
 

 サバノ頭から十方山の尾根には三つの「三ツ倉」がある。「前三ツ倉」「中三ツ倉」「奥三ツ倉」である。瀬戸滝から上がる十方山登山道に「三ツ倉」がある。


●黒ダキ山(クロダキヤマ) 
 


●クロダキ谷 
 


●立野(タチノ) 
 


●テンガタキ 
 


●仏石(ホトケイシ) 
 



●ホトケ谷 
 



●コノタのギシ(コノタノギシ) 
 


●セト谷 
 


●カラ谷 
 


●セト滝 
 


●セトのリュウズ 
 


●大休ミ 
 
 (セト滝の上をオオヤスミと呼ぶ)

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カシミール3Dデータ

総沿面距離18.8km
標高差811m

区間沿面距離
県道
↓ 1.0km
立野キャンプ場
↓ 2.9km
黒ダキ山登山口
↓ 2.3km
黒ダキ山
↓ 1.7km
下山林道峠
↓ 1.3km
バーのキビレ
↓ 2.4km
十方山
↓ 2.6km
三ツ倉
↓ 2.7km
十方山登山口
↓ 1.9km
県道
 

 
 
サバノ頭から十方山につづく尾根の黒ボク土(カシミール3D+国土交通省土地分類基本調査土壌図)
 赤茶色が「Ysi-1」(吉和1統)の黒ボク土
 
アカマツの食痕=エビフライ
(ゴロシのタキから)
十方山とセト谷水源
十方山南西尾根の雪壁
(十方山南西尾根から)
五里山と1158ピーク
(下山林道峠へ降りる手前から)
十方山と南西尾根
(下山林道峠から)
                 千両山                            大神ヶ岳      立岩山(赤谷山)      
尾根のブナ
(南西尾根展望地から)
             女鹿平山                                       冠山
                                                   黒ダキ山               南西尾根
(十方山から)
京ツカ山・五里山の尾根
(十方山から)
女鹿平山と冠山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より