6:40 あゆみ橋 晴れ 気温18度
ミヤマハコベ |
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6:55 澄川橋
7:10 かじか橋
7:35 法師ヶ谷入口
8:10 大津橋
8:45 秋冷橋
11:00 県道54号線
13:10 国道488号線
13:30 嶽城跡
13:50 あゆみ橋
澄川トンネル手前のあゆみ橋東から出発。橋の上流に澄川集落があり、下流は持三郎である。大きいエノキが橋の上に枝を伸ばしている。橋を渡ってトンネル手前から階段を下り、左岸沿いの道を進む。道路沿いにシャクが咲く。この辺りの匹見川は岩礁となっている。澄川診療所を過ぎると澄川橋。右岸は川原石で覆われている。橋の南に長蓮寺がある。
匹見下公民館を過ぎると、澄川小学校・中学校の寄宿舎跡があり、売却・貸付予定物件となっていた。鳥獣犬慰霊之碑辺りから字名を田屋ノ原(タヤノハラ)と呼ぶ。匹見川が三出原でくの字に曲がる辺りである。高台は旧澄川小学校である。階段を上がって澄川トンネル出口のかじか橋に出た。
コウゾの雌花 |
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コウゾの雄花 |
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国道は嶽城跡遺跡を貫いて通り、能登川を渡ると能登集落へ入る道がある。この辺りから国道南側をアガリノ原、アガリと呼ぶ地名で、現在は水田となっている。前方に叶松城跡の小山が見え、その左手に澄川発電所の水路が下りている。澄川発電所は上流の千原から取水している。国道を進むと土井ノ原に渡る殿居橋がある。橋の向こうに澄川八幡宮がある。左岸に寺ノ前遺跡、畷(ナワテ)遺跡がある。
「出雲電気株式会社では昭和6年7月工事に着手、落合の取入口から、澄川叶松山附近に、長さ12キロの水路を設け、叶松山の頂上から二本のパイプで、落差100mの水を落し、出力9.700kwの水力を起こすこととした。完成は昭和7年7月。
澄川発電所が村の財源となり、匹見下村では昭和26年度中に、千万円以上の土木工事業を行なう分限の村となった」(『石見匹見町史』)。
キシツツジ |
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大崎橋の手前に小さい祠があった。法師ヶ谷が右岸から下りている。谷に林道が上がっている。澄川郵便局を過ぎると叶松城(カノウマツ)の説明板がある。関ヶ原の戦い後、廃城となった。土井ノ原バス停を過ぎると波田へ抜ける県道54号線があるが、全面通行止めとなっている。川沿いのコウゾが雌花を付ける。匹見川は南へ下る。ミツバウツギが咲き始めている。川沿いはケヤキが多い。
豊川発電所水利使用標識の看板がある。堰がありU字の魚道が作られている。ここから下流の豊川発電所に水を送っている。砕石場を南に見て、国道を西へ進む。金山城跡は砕石場の南にある。石谷川から豊川発電所に送る水路橋を過ぎると大津橋に出る。川沿いの岩場にキシツツジが咲く。山全体に竹が侵入している。匹見川が北西に真っ直ぐ延びると両岸が迫り、長沢トンネルに出た。
トンネル手前右岸から長沢溢川が落ちる。長沢溢川に架かる橋を秋冷橋(シュウレイバシ)と呼ぶ。長沢溢川落口はコンクリート岸となり、魚は遡上できない。長沢溢川左岸に索道が上がっている。右岸の道を進むと堰堤で行き止まり。谷を水路トンネルが横切っていた。トンネルを越えると谷歩きとなる。
谷は背の高いササが多く、笹薮となっている。ワサビの葉が残る。イノシシの足跡が点々とある。スギ林に出ると、倒木が谷を塞ぐ。橋を渡って左岸のスギ林を進む。炭焼き跡の石積みが残る。左岸に下りる小谷からスギ林を上り、県道54号線に出た。豊川発電所に向って送電線が延びる。ところどころ、長沢溢川から山道が上がっている。ナワシログミの実を口に含んだが、非常に酸っぱかった。ウラジロガシの枝が折られている木が多い。クマの爪痕が残っていた。
野間山から銚子山への展望がある。眼下に大津橋を見下ろす。2時間ほどで国道に出た。小川橋を渡り嶽城跡に寄ってみた。城跡は能登川左岸の尾根の先端部にあり、小高い丘になっている。丘の上に小社が祀ってあった。この付近の小字名を「ダケ」と呼んでいる。匹見川右岸を通りあゆみ橋に帰着。
澄川にコウゾを剥ぐ時の歌がある。
「こうぞをはぐ時の歌」
澄川 大谷類一(明治31年生まれ)
明けたそうなぞ 東がしらむ
お寺がたには 六つの鐘
むかい通るは せじゅうろうじゃないか
笠がよく似りゃ せじゅうろうであれば
お伊勢まいりは みなせじゅうろう
(『島根県美濃郡匹見町昔話集』 島根大学昔話研究会)
アオナラガシワ |
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オニグルミ |
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ナワシログミ |
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コバノガマズミ |
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ツクバネウツギ |
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ミツバウツギ |
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ナガバタチツボスミレ |
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ニョイスミレ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と考えられ、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
西中国山地周辺では、匹見川沿いに縄文遺跡が集中している。匹見川の最も下流にある縄文遺跡が匹見町澄川の遺跡である。長尾原、嶽、アガリ、田屋ノ原、寺ノ前のほかに、少し上流の澄川持三郎にコフケ、山根ノ下、舟戸、芝、小田原、さらに上流の匹見町広瀬竹ノ原に沖ノ田の縄文遺跡がある。
国土交通省の土壌図によると、澄川の匹見川周辺は「Kma 粗粒灰色低地土壌」であるが、遺跡発掘地点の土層図では発掘場所ごとに土層の違いがある。
土層図を比較してみると、縄文遺物包含層は黒褐色土にあるという共通点がある。
黒ボク土は縄文期の山焼き、野焼きによって形成された土壌であり、燃焼炭=微粒炭を多く含むことによって黒くなる。
「地層中に微粒炭が少ない堆積物 が『褐色ローム質土』であり、微粒炭が多くなるにつれて岩質が『黒褐色ローム質土』、 『暗褐色クロボク土』となり、最も多い『黒色クロボク土』に至ることが判明し、さら
にこの順で可溶腐植の含有量も高まる関係が明らかになった」(『黒土と縄文時代』山野井徹)。
縄文(弥生)遺物包含層が黒褐色を示すことは、野焼きが長年に亘って継続されたと考えられる。野焼き、山焼きは焼畑による穀物栽培が考えられるが、匹見町の遺跡から穀物を収穫する道具である石包丁や根刈り具の出土がない。
土堀具である打製石斧の出土が多いことから、ワラビ、ゼンマイ、タケノコ、ジネンジョ、クズ、オオウバユリなどの根茎類を採取していた考えられる。
「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する…
わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。
縄文時代、野焼きは根茎類の採取に欠かせないものであったと考えられる。
澄川の縄文遺跡の出土遺物
(畷遺跡は弥生遺跡) |
遺跡名 |
石錘 |
打製
石斧 |
石鏃 |
長尾原
ナゴウバラ |
(土錘8) |
6 |
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嶽城跡
ダケジョウ |
2
(近世土錘9) |
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アガリ |
3
(土錘3) |
3 |
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田屋ノ原
タヤノハラ |
3 |
9 |
6 |
寺ノ前
テラノマエ |
3
(中世土錘2) |
6 |
3 |
畷
ナワテ |
(土錘1) |
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匹見川の縄文遺跡から石錘が多く出土する。紙祖川の石ヶ坪遺跡から108個の石錘が出土している。石錘は網漁に使用された。
「最も顕著に発見されるのは、植物の繊維でつくられた漁網に吊るす石錘(せきすい)・土錘(どすい)という錘である。前者は石製のもので、細長の扁平な河原石を代用したものが多い…通常は長さ5〜7cm、重さは70〜100グラム程度…土製のものは筒状で、弥生時代に登場し、近世まで踏襲されている」(『匹見町史・遺跡編』)。
縄文時代、漁網はサケマス漁などに使われたと考えられる。
「鮭は大正年間までは、相当さか上がっていたが、昭和に入ると次第に少くなり、現在では影をひそめた。鱒は大正年間ころまでは、非常に多く、下道川までさか上がった。どの淵を臨んでも一〜二尾は発見され、所によると十数尾もいた」(『石見匹見町史』)。
「本地区(石ヶ坪)では…河川にはハエ・アユ・ゴギ・ヤマメ・ケガニなどが生息
し、昭和の中ごろまではサケ・マスといった冷水魚が遡上していたといわれるなど、自然豊かな環境下にある地区でもある(『市内遺跡詳細分布調査報告書X[』益田市教育委員会)。
匹見町縄文遺跡の地域別石錘数
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地域
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石錘数 |
澄川(匹見川下流) |
11 |
道川・出合原(匹見川上流) |
8 |
紙祖(紙祖川下流・主に石ヶ坪遺跡) |
143 |
三葛(紙祖川上流) |
17 |
広見川下流(下手遺跡) |
1 |
後谷(石谷川・広戸遺跡)
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31 |
遺跡調査区の土層構成
匹見川右岸
■長尾原遺跡(縄文・弥生 姫島産黒曜石)
(標高160m 縄文文化層3層 厚さ10〜40cm)
1層 暗灰色粘質土(耕作土)
2層 灰褐色礫土(客土)
3層 黒褐色〜暗褐色砂質土
4層 黄褐色砂土
5層 黄灰色礫土(河床礫)
■嶽城跡遺跡(縄文・中世・近世 西九州の黒曜石)
(標高177m 縄文文化層3層 厚さ5〜30cm)
1A層 灰色土(耕作土)
1B層 黄灰色土(耕作土)
2層 灰褐色土
3層 黒褐色土
4層 黄橙色粘質土
5層 黄灰色砂礫層
■アガリ遺跡(縄文早〜中期・中世 異形石器)
(標高154m 縄文文化層3〜4層 厚さ20〜35cm 4層から炭化物)
1層 暗灰色粘質土(耕作土)
2層 灰褐色砂礫土(客土)
3A層 暗橙色土(酸化鉄層)
3B層 黒褐色土
4A層 灰橙色砂質土(酸化鉄層)
4B層 暗〜黄褐色砂質土(やや粘質性)
5層 黄灰色砂礫層(河床礫)
匹見川左岸
■田屋ノ原遺跡(縄文中期〜弥生後期 線刻石)
(標高164m 縄文包含層3層 厚さ40cm 炭化物)
1層 暗灰色土(耕作土)
2層 橙褐色土(酸化鉄の含浸による)
3層 黒褐〜暗灰色砂質土(10〜20cm大の角・円礫を含む)
4層 黄灰〜黄褐色砂質土(人頭〜50cm大の円礫を含む)
■寺ノ前遺跡(縄文前期〜晩期・中世・近世)
(標高151m 縄文文化層4層 厚さ6cm)
1層 黒灰色粘質土(耕作土)
2層 灰褐色小礫土(客土)
3層 橙褐色砂質土(酸化鉄層)
4層 黒褐色砂質土(やや粘質性)
5層 黄褐色砂土
6層 黄灰色砂礫層(河床礫)
■畷(ナワテ)遺跡(弥生)
(標高158m 弥生包含層5層 厚さ10cm)
1層 暗褐色粘質土(耕作土)
2層 赤橙色土(酸化鉄の含浸)
3層 暗灰色土(小礫を多く含む)
4層 橙褐色粘質土(酸化鉄の含浸)
5層 黒褐色粘質土
6層 黄橙色粘土
●アガリ(アガリ縄文遺跡)
アガリ遺跡から異形石器、田屋ノ原遺跡から線刻石が出土。
「この場所(配石)では、石皿状の平板な石に何か硬い物で傷つけた線刻の痕跡が認められた。」
「配石遺構は特殊遺構の一種であって、自然石を意図的に配置、配列して、祭祀ないし葬送の儀礼を執り行ったと思われる遺跡である…
匹見町では西にあたるアガリ遺跡でも、小土坑の中央に立石を配置した遺構が知られている。この遺跡からは砂地に掘り込んだ土坑が何基か検出されたが、そのうち1号土坑は自然石を垂直に立て配置しているから確実な配石遺構といえる…
…時期的には三葛の中ノ坪遺跡の直前の遺構となる。中ノ坪遺跡にせよ、アガリ遺跡にせよ古い時期の立石は、柱状というよりも板のような扁平な石が好まれたようである」(『匹見町史・遺跡編』)。
打製石斧の出土は周辺で土堀作業を行っていたと考えられる。
●三出原(サンデバラ 古名=サナテハラ・佐奈平原)
●田屋ノ原(タヤノハラ)
田屋ノ原遺跡から石錘が出土している。周辺で石錘を使った網漁が行われていたと考えられる。
●土井ノ原(ドイノハラ)
●畷(ナワテ)
寺ノ前遺跡から打製石斧が出土。
カシミール3Dデータ
ヒメレンゲ |
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総沿面距離17.3km
標高差197m
区間沿面距離
あゆみ橋
↓ 5.0km
大津橋
↓ 2.2km
秋冷橋
↓ 2.3km
県道54号線
↓ 5.1km
国道488号線
↓ 2.7km
あゆみ橋
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