3:50 保矢ヶ原 曇り時々晴れ後雨 気温2度
8:20 島大林道
8:40 488号線
10:40 五里山
11:30 1064P
12:30 1158P
13:30 京ツカ山
15:25 広見林道入口
16:50 ゲンカ橋
18:20 保矢ヶ原
裏匹見峡レストパークから夜道の488号線を進むと10分ほどで小河橋。そこからアカ谷左岸に赤谷林道が入る。小河橋を渡り小尾根に取り付く。薮尾根を1時間ほど登ったところで、北側から山道が通っていた。鉄塔道のようだ。しばらく登ると階段道となり、41番鉄塔に出た。高圧線の下の尾根の鉄塔道を進む。
38番鉄塔の横を通り進むと、山道は751ピークの北を通る。6時半前には白み始める。北側に鈴ヶ岳の峯が見える。山道の上の尾根に石垣が見えたので登ってみた。尾根の石垣は右側が古い石垣、左側がコンクリートブロックの石垣であった。石垣の上はアカマツの尾根になっていた。なぜ、ここだけ石垣があるのか見当がつかなかった。
尾根を進み、北側の山道と合流、頭上の高圧線の下のヒノキ林の中に山道が通っていたので進んでみた。所々、雪で寸断されているが、国道へ出る山道があるようだ。鉄塔道を離れて34番鉄塔に登った。南側に鉄塔の並ぶ小郷山が、東側に五里山が見える。そこから島大林道に出た。
雪の上の幹の破片 |
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丸裸にされた幹 |
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細い幹の破片が雪の上にたくさん散らばっていた。幹は無残に丸裸にされていた。キツツキの仕業のようだ。林道を進み、20分ほどで488号線に出た。林道の入口に「島根大学農学部附属匹見演習林」の看板がある。国道を渡り、島大林道を進むと島大演習林の看板があり、それによると演習林は、北の942ピークから五里山の北に至る島大林道周辺に広がる広大なものであった。
島大林道から尾根に入った。鉄塔の横に「水防情報システム匹見中継局」がある。そこから広見山、五里山が見える。974ピークを経て次の鉄塔に出ると、クリの木にクマ棚があった。尾根を東に進むと、クリの木のクマ棚が多い。周辺のブナにクマ棚は無かった。尾根の南側は植林地となっている。
島根大演習林の区域 |
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クリの木の爪痕 |
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クリの木の爪痕 1064P北 |
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クリの木のクマ棚が続く。1100m付近から折れた枝が目立つようになる。積雪が原因と思われる。1124ピーク南の展望地に出た。千両山、大神ヶ岳、小郷山の峯がくっきりと見えるが、南側は霞んでいる。この辺りから地図上にある五里山の峯に入る。潅木帯を進む。尾根上の数少ないクリの木にクマ棚があった。
ブナ林の峯を下ると前方に1158ピークが見えてくる。展望地から五里山と十方山、1158ピークの左に広見山と半四郎山が見える。一旦、鞍部に下り、1064ピークに登る。東側は植林地。少し下って1158ピークへの登りとなる。クリの木のクマ棚がある。積雪で折れた枝も多い。細見谷の先に女鹿平山が見える。
潅木帯の平原に入る。後ろを振り返ると五里山が大きく見える。黒ダキ山は右手にすぐ近くに見える。平原の1158ピークの右手に十方山の長い尾根がある。左に旧羅漢山の白い雪山がある。さら左に広見山と半四郎山。
1158ピークに着くと京ツカ山から旧羅漢山の長い峯が見えるようになる。右手に十方山の尾根を見ながら進んでいると、スノーシューの跡が僅かに残っていた。1076鞍部に下る。この辺りのブナにもクマ棚は無かった。先週登った十方尾根はブナの木がクマ棚だらけであったが、こちらの尾根には全く見られなかった。
京ツカ山のアセビ |
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スノーシューの跡は京ツカ山の東側に続いていた。京ツカ山のアゼビは赤い花芽を付けていた。出発から9時間余りでようやく京ツカ山に到着。一服して西の尾根を下った。潅木帯からヒノキの植林地に変わる。広見山、半四郎山、向半四郎を右手に見ながら下る。
大分下った所でユズリハの葉が食われていた。雪の上にノウサギの糞があったが、ノウサギの仕業だろうか。2時間ほどで広見林道入口に下った。そろそろ除雪しているのではと思っていたが、国道はまだ1mほどの雪で埋まっていた。
雪の国道を進む。国道沿いのクリの木にクマ棚があった。地主墓を過ぎると雪の中に広見小学校跡があった。雪解け水の豊富な広見川は青白く泡立っている。所々、雪崩が国道を塞ぎ、滑れば広見川に落下しそうである。
鈴ヶ岳の峯が見えてきた。裏匹見峡の最奥地点まで達すると、ようやくそこから除雪されていた。カンジキを外していると雨が降り始めた。小河橋手前の小谷に中電の鉄塔に入る標柱を確認した。3時間ほどの長い国道歩きであった。
葉を食われたユズリハ |
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ユズリハ |
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イヌシデ |
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アカシデ |
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488号線カーブ地点 広見林道入口 |
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488号線のクマ棚 |
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雪の中の広見小学校跡 |
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水量多い広見川 |
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雪の広見川 |
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雪崩で埋まる国道 |
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鈴ヶ岳下の岩壁 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。
『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。
従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。
クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。
植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。もう1つは分解される前に燃焼に
よって炭化することである。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。
筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。
クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる
さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう
な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』
恐羅漢山から五里山に続く長い県境尾根に黒ボク土がある。広島県側は「Ysi-1」(吉和1統)の「黒ボク土」で、島根県側は「Azo-1」(安蔵寺1統)「Azo-2」(安蔵寺1統)の黒ボク土である。
国土交通省土地分類基本調査土壌図では各県毎に整理されており、県境を挟んで土壌がある場合、その呼び名が違う。下記の土壌図の説明にあるように、県境尾根には「黒ボク土」と「厚層黒ボク土」がある。厚層黒ボク土があるのは島根県側だけである。
黒ボク土は長年に亘る縄文人の山焼きによって形成された。匹見地域は西中国山地の中でも突出して縄文遺跡が多い。厚層黒ボク土はより古い黒ボク土であり、最初に山焼きが行われた尾根と考えられる。県境尾根の山焼きは匹見縄文人が行ったと考えられる。
●京ツカ山(キョウツカヤマ)
●バンキチエキ
●ボーギのキビレ
黒ボク土は山焼きによって形成された。山焼きの後にはワラビなどの根茎類が生え、その後ススキ草原に変わっていく。昭和54年の植生調査では、京ツカ山、五里山、御境周辺がススキ群団となっている。
「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する」
「わらび掘りのあとへは、必ずシズラの苗を補植し、毎年山を焼くことが肝要であった。こうして漸く七〜八年を経過すると、再び掘り取ることが出来、放任して置くと十四〜五年も経過してやっと蕨が生えはびこるのである…
わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。
「蕨粉を取り除いたからの内、わらびの外側の長い繊維を『しずら』といっておる。これは非常に強靭で且つ腐りにくい点は、シュロの比ではない。だから江戸時代には土蔵の壁を塗る時、これを『すさ』として時に使用した。内石の俵正義氏方では100年以上経過した土蔵を取り壊したが、その際塗りこめた『しずら』は尚依然として変化もみせていなかったという」(『石見匹見民俗』)。
「縄文人は、ワラビの繊維を利用して、ワラビの縄をつくっていたふしがあります。 ふつうワラビは、食用と考えますが…桜田遺跡というところからは、ワラビの繊維で出来たカゴが、出土しているといいます」(「青森県・縄文ファンHP」)。
●広見川(ヒロミガワ)
広見は裏匹見峡の奥にある。裏匹見峡は崖の中の谷であり、滝が多く、水流は渦を巻いている。
●保矢ヶ原(ボヤガハラ)
広見川と赤谷川の合流点付近を保矢ヶ原と言う。「ボヤガハラ」と呼ぶようだ。
平安時代の「延喜式」に村上の鮭の記録がある。延喜式には、「楚割」(そわり)、「背腸」(せわた)、「鮭内子」(こごもり)、「氷頭」(ひず)等の、鮭の加工品の名前が記録されている(「イヨボヤ会館HP」から)。
匹見川、紙祖川には、かつてサケ・マスが遡上していたから、広見川にも上がっていたと考えられる。保矢ヶ原から3km西の紙祖川の石ヶ坪遺跡から網用の石錘が108個出土している。匹見縄文遺跡の中でも突出して石錘の出土が多い。広見川下流の下手遺跡、広見川・匹見川合流点下流の平田遺跡で石錘の出土がある。
この石錘は鮭漁などに使用されたと考えられる。
広見川と赤谷の合流点は好漁場であった。昭和40年4月23日の毎日新聞に裏匹見峡のヤマメ釣場が掲載されている。第一に挙げられているのは保矢ヶ原の夫婦淵観音巌である。
カシミール3Dデータ
総沿面距離22.1km
標高差806m
区間沿面距離
保矢ヶ原
↓ 5.2km
488号線
↓ 2.8km
五里山
↓ 3.2km
京ツカ山
↓ 2.4km
広見林道入口
↓ 8.5km
保矢ヶ原
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