5:10 立野 晴れ 気温−4度
7:30 下山林道終点
9:45 黒ダキ山
10:15 仏石
10:50 十方山南西尾根
11:25 下山林道峠
12:15 バーのキビレ
13:50 十方山
15:10 三ツ倉
17:10 瀬戸滝登山口
17:40 立野
296号線は立野キャンプ場入口まで除雪されている。ところどころ凍っている林道をキャンプ場へ下りる。立野キャンプ場はまだ雪の中であった。除雪された雪の山を上がり細見谷橋に降りる。橋を渡ったところでカンジキを履いた。右岸のあまご養殖場が明るく照らされている。一ノ谷のカーブミラーは雪で埋まっていた。
6時半頃、薄明るくなり始める。細見谷の奥の山が見える。下流側に女鹿平山が見える。テンガタキの谷側に入り込み、黒ダキ山登山口を通る。細見谷右岸の1023ピークに陽が射し始める。ノウサギの足跡の傍に皮剥ぎが見られる。大岩の所で下山林道は右へカーブする。雪の黒ダキ山が見える。無雪期にはこの辺りは薮であるが、林道はまだ奥へ通っている。林道が黒ダキ谷へ下りると、林道終点である。
ノウサギの食痕 |
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終点まで2時間余りかかった。クロダキ谷を渡り、急な尾根に取り付く。倒れた巨木を越えて細見谷に下りる主尾根に出た。右手に黒ダキ山登山道の尾根が見え、黒ダキ山の懸崖のマツが見える。アカマツが入り込むツガ林を進む。展望地に出た。黒ダキ山の西に緩やかな尾根が細見谷に落ちてる。右から五里山、小郷山、千両山が続く。ここからは千両山が形良く見える。正面奥に冠山、手前に細見谷直上の1023ピークの峯が障壁を作る。左手に女鹿平山。
展望地から先は細い岩場となっている。ここからも展望が良い。ノウサギの足跡を追って山頂出た。出発から4時間半ほどであった。山頂にある赤い灰皿は埋まって見えない。林の先に十方山、冠山が見える。一休みして仏石へ下った。山頂から20分ほどで仏石。ブナ林を進み、何層にも積み重なった雪の十方山南西尾根に這い上がった。南側のブナにクマ棚がある。
ブナのクマ棚 赤土谷水源尾根付近 |
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ブナの爪痕 |
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周辺のブナにクマ棚が多い |
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尾根を進むと、左手に1158ピーク、五里山、小郷山、大神ヶ岳、千両山、右手に立岩山の峯が見える。ブナにクマ棚がある。枝にはブナの実が残っている。尾根に続くどのブナにもクマ棚があり、真新しい爪痕が残っていた。1142ピークから下山林道峠の西端に下りた。峠から五里山の峯がくっきりと見える。
一休みしながらオオバヤシャブシの実を見ていると、根元の方で動くものがあった。小さいネズミだった。小木を登りながら、さかんに木の芽や皮を食べていた。木に登るヒメネズミであろうか。峠から尾根に上がると、やはりブナのクマ棚が続いていた。長く山を歩いているが、ブナのクマ棚がこんなに続くのは初めてであった。今年はドングリが凶作であったと思われる。ミズナラのクマ棚は全く見かけなかった。今年のクマはブナによって生き延びることができただろうか。
オオバヤシャブシ |
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木に登るネズミ |
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木の皮を食べるネズミ |
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木の皮を食べるネズミ |
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木の皮を食べるネズミ |
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木の皮を食べるネズミ |
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芽を食べるネズミ |
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芽を食べるネズミ |
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芽を食べるネズミ |
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左手にボーギノキビレと広見山が見える。峠から30分ほどバーのキビレに下った。ここにもブナのクマ棚がある。キビレから西に広見山、東に立岩山が見える。空のブナの実がたくさん落ちていた。クマ棚の続く尾根を歩いていると、1100mを越えた辺りから、折れている木が多くなる。クマの仕業かと思ったが、折れた木が余りに多すぎる。おそらく雪の重みで折れたと考えられる。例年に無い今年の雪の多さを物語っている。
後を振り返ると、五里山の峯から冠山へかけて、一望に見渡せる地点に出た。背の低い木から潅木帯に変わり、十方平原の西端に出たようだ。潅木の中に一本、スギが高く伸びていた。雪の中から覗く昭和59年の遭難碑の所に出た。ケルンの横を通り、出発から8時間半ほどで山頂に到着。
ブナのクマ棚 下山林道峠北 |
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ブナの爪痕 |
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ブナのクマ棚 |
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山頂は風が強いため積雪は少なく、ササが覗いている。今日は風も無く、見通しが良い。立岩山に人が居れば見えそうである。暖かいお茶で一服し、スノーシューのトレースを辿って瀬戸滝登山口へ下った。立岩貯水池は真白に凍っていた。コノタギシへ下る尾根にも折れた木が散在していた。1時間ほどで三ツ倉に上がった。昭和10年の遭難碑は雪に埋まっていた。
山頂から3時間余りで登山口に出た。駐車場に轍があった。雪深い道をよく車が入ったものだ。お陰様で轍の跡を楽に進むことが出来た。小松原橋は雪で埋まっていた。吉和川に雪のテーブルが出来ていた。12時間ほどの雪山歩きはようやく終わった。
折れた木が多い 1150m付近 バーのキビレ北 |
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折れた木 |
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折れた木 |
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ツルアジサイ |
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イワガラミ |
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除雪されたあまご養殖場に入る道 |
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十方山登山口付近 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。
『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。
従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。
クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。
植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。もう1つは分解される前に燃焼に
よって炭化することである。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。
筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。
クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる
さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう
な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』
十方山は北東から南西に延びる尾根の西端にある山である。この尾根には「Ysi-1」(吉和1統)と呼ぶ「黒ボク土」が形成されている。東端はサバノ頭周辺、西端はバーのキビレの西にある。
黒ボク土は長年に亘る縄文人の山焼きによって形成された。「Ysi-1」と呼ぶ黒ボク土であることから、同じ地域の縄文人によって、同じ時代に継続的に山焼きが行われ、黒ボク土が形成されたと考えられる。
●サバノ頭(サバノアタマ)
サバノ頭は十方山までの長い尾根の先頭・先端にある山である。
●十方山(ジッポウザン)
●十方辻(ジッポウツジ)
サバノ頭から十方山へ長い尾根が続いている。この尾根の末端にあるのが十方山で、山頂は平たい笹の平原となっている。『芸藩通志』(1825年)には「シッハウサン」とある。
「『ツジ』が山頂を表わす地形方言であることは、藤原与一氏の調査で明らかにされている。十方山頂の平坦地に、十方辻と名のつく所があるように考えるのは誤りである」(『西中国山地』桑原良敏)。
「つじ」=「山の頂上」としているのは、兵庫・島根・岡山・広島・山口・香川・大分・福岡・長崎などである。石見弁では、「つじ」=「てっぺん」の意で、「山のつじ」の用例がある。
●バーのキビレ
バーのキビレの西側が黒ボク土で山焼きが行われていた。サバノ頭から十方山に続く長い尾根の西端にある黒ボク土であり、尾根の西端のススキ原であった。
十方山の南に下りる尾根の末端部を「コノタのギシ」「コノタギシ」と呼んでいる。
カシミール3Dデータ
総沿面距離17.2km
標高差811m
区間沿面距離
立野
↓ 5.2km
黒ダキ山
↓ 1.7km
下山林道峠
↓ 3.8km
十方山
↓ 2.5km
三ツ倉
↓ 4.0km
立野
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