山歩き

傍示峠…大佐山…大井谷…登り谷
2010/8/29

ボウジダオ…935P北…大佐山…オモテ谷…八幡岩…大井谷…ノボリダニ…傍示峠

■大佐山(オオサヤマ)1069m:広島県山県郡芸北町大字荒神原字棒路(点の記) (北広島町)

傍示峠
ガスに覆われたゲレンデ上部
869ピーク
植林地を登る
中央リフト
ゲレンデから南方向
リフト上部と山頂方向
ブナ林を進む
ガスの山頂
3.3mブナ オモテ谷水源
水源を下る
オモテ谷
オモテ谷
樹林に覆われた八幡岩遺跡
モミエキに架かる橋
大井谷上流の里
柏原山
河内神社
傍示峠へ上がる道
堰堤上流
植林地を抜けて峠へ
5:50 傍示峠 晴れ 気温20度
 
シバザクラ

6:35 935P北
7:05 大佐山
9:05 八幡岩
9:55 松本橋 
10:25 バジョウ岩谷 
10:50 新栗の木橋
11:20 傍示峠
 

 傍示峠付近からゲレンデを登る。山腹まで雲が掛かり、山頂への見通しがない。下部リフト終点からササ原を一旦下り、小谷を渡って植林地とアカマツの尾根を登る。再び上部のゲレンデに出た。935ピークの北を通り、スキーコースを進む。マツムシソウが咲いている。 

 山頂方向はガスが掛かっている。最上部のリフト終点から広い山道を進む。ブナの林を抜け山頂に出た。山頂はガスに覆われ全く展望はないが、強風で肌寒いほどであった。ガスが薄くなり、微かに麓の施設が見えた。登山道を西へ進む。ガスの先に八幡原が少し見えた。尾根付近の薮を分けて、オモテ谷水源に下りた。

マツムシソウ

 尾根直下に大きいブナがあった。周囲3.3mで半分朽ち掛けているが、葉をつけている。シダ類に覆われた水源の谷を下る。水流が現われるとワサビの葉があった。鬱蒼とした暗い林を下る。炭焼き跡を過ぎると、右岸に僅かな踏み跡が残っていた。植林地を下る。

 暗い林の中に一本の石柱が見えた。「八幡岩遺跡」とあった。八幡岩遺跡は大石のゴーロとなっており、古くから信仰の対象として祀られていたところと推測されている。すぐ下流に堰堤が見える。山道はオモテ谷左岸からモミエキ右岸に上がり、橋のところに出た。モミエキ左岸に作業道が上がっている。

ツリガネニンジン

 モミエキ左岸の作業道を下る。堰堤の所から舗装された車道に変わる。堰堤の上流がオモテ谷とモミエキの合流点となっている。車道の下に大井谷の里が広がっていた。整備された道の斜面に白いシバザクラが咲いていた。穂を付けた稲田の道を下ると東に柏原山が見える。

 河内神社を通り松本橋に出た。松本橋の北が古墳時代初期の古墳のある千年比丘遺跡(センネンビク)である。浄蓮寺前を通り、長田川左岸の道を進む。バジョウ岩谷の入口に「登り谷配水池」の施設がある。道は舗装路から砂利道、草道に変わる。

 右岸に渡ると新しい広い砂利道になり、新しい堰堤が作られていた。新栗の木橋を渡り、道を進むと植林地に変わり186号線に出た。傍示峠の温度計は26度を示していた。

ワレモコウ
モミジガサ
オタカラコウ
キツリフネ
ベニバナボロギク
ホオジロ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。

 波佐・長田地区の遺跡

 七渡瀬(ナナワタセ)T遺跡遺跡から発見されたのは、縄文時代末期から中・近世にかけての土器、石器、陶磁器でした。

 七渡瀬U遺跡の重要性は、古墳時代初期(いまから約1600年前)の「むら」跡が見つかったことや多数のよそから持ち込まれた土器などが掘り出されたことです。古くから波佐・長田地区の中心街がここにあったことを推定させています。

 七渡瀬U遺跡の「むら」とほぼ同じ頃に造られた古墳が千年比丘(センネンビク)の丘陵の先端で発見されまし た。千年比丘の丘陵上には、この他にも経塚(お経を納めた塚)や中・近世の墓もあるようです。波佐・長田地区の聖地の一つという感じがします。

 千年比丘丘陵の下の水田には長田郷遺跡があります。この遺跡は、弥生時代後期(いまから約1800年前)の土器を中心に縄文時代後・晩期(いまから約3000年〜2400年前)の土器、奈良〜平安時代の須恵器、土錘(網のおもり)や石鏃(やじり)、石斧(石おの)などの石器類が出土しています。また中世頃の青磁(中国から輸入された緑色の上等の焼き物)や兵庫県南部の陶器窯で焼かれた土器(ねずみ色をした硬い焼き物の鉢)も出土しています。他には、ドングリなどの自然遺物も採集されました

 金城町波佐の歴史

 七渡瀬U遺跡では、旧石器時代(約1万年前)のチャートという石片が見つかったことから、波佐地区でも人が住んでいたことが判明しました。

 縄文時代後期(約4千年前)・晩期(約3千年前)の長田郷遺跡の性格から見ると、この頃から定住化も進んでいたものと考えられます。

 周辺の弥生時代の遺跡であるナゴタ遺跡、七渡瀬T・U遺跡などの関連や遠賀川式土器の出土品を見るとき原始農耕へ移行していく過程が理解されます。また、土垂(どすい)の出土品から考えるとき周布川に沿いを遡上したサケ・マスを捕獲しての漁労生活を偲ばせてくれます。石鏃(せきぞく)の出土品から見ると隠岐島の黒曜石を原石としたものと、また、広島県の冠山(吉和村)の安山岩を原石としたものがそれぞれ発見されています。

 古墳時代前期には長田の千年比丘1号墳が造営され、同時代の住居跡が七渡瀬U遺跡にも発見され、生活基盤とお墓がセットで発見された例は珍しいことです。

 奈良時代に入ると、この地域は久佐郷に所属し、「長田」という地名が現れてきます。平安時代には「長田別府」、鎌倉時代には「長田保」という庄園としての名前がありました。この時代の名残として県境の傍示峠という名称が現存しています(『波佐 島根県那賀郡金城町波佐地区における考古学的調査』金城町教育委員会)。


●ナゴダ遺跡(長田川)


 ナゴダ遺跡から弥生期の石斧が出土している。遺跡の所在地は浜田市金城町大字長田で、長田川の中流にある。下流の七渡瀬遺跡には縄文時代の住居跡がある。

 石見弁「なご」は「長い」の意である。長田(ナガタ)は次のように変化したと考えられる。

 

●七渡瀬(ナナワタセ)
 

 石見弁「し」→「せ」の転訛

 〜しなくてはいけない (〜せにゃあいけん)
 〜しないで (〜せんこうに)
 しない (せん)

 七渡瀬遺跡は縄文から近世まで継続した遺跡であり、縄文時代から集落があった。石錘、土錘が出土。

●弋手原(ナワテバラ)
 

 七渡瀬、弋手原は周布川と長田川の合流点付近の字名である。

●大井谷
 

 川尻に長田郷遺跡があり、石錘、土錘が出土。

●傍示峠(ボウジダオ)
 

 『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)に、アイヌ語「pa」の和語対応について次のようにある。

 アイヌ語「pa」湯気 和語は以下。

 hose(ほせ) 湯気
 hoseh(ほせー) 湯気
 hoya(ほや) 湯気(島根県)
 hohke(ほーけ) 湯気(山口県)
 hoke(ほけ) 湯気(京都府)
 hoge(ほげ) 湯気(静岡県)

 出雲弁に「ほせー」「ほけー」(湯気)がある。

 茨城弁「ぼやぼや」は「蒸し暑いさま」の意で「古い意味の火気または熱気などのゆるやかに立ち上がるさま。火事のぼやと同じルーツと思われ茨城に残る古い言葉」とある。

 石見弁「ぼやける」は「にじむ・輪郭がボーッと不明瞭になる」とある。

 アイヌ語「pa-at」(パ・アッ)「paha-at」(パハ・アッ)は「湯気が立つ」の意。

 paha-atu → ha-ya(ma-ya) → ho-ya(mo-ya)

 靄(もや)はアイヌ語「pa-at」(湯気が立つ)が語源と思われる。

 

●ウルシガ谷
 

 傍示峠のすぐ北の長田川右岸にウルシガ谷がある。

 石見弁「うるい」は「雨・おしめり」の意。



 古語「霧らふ」(きらう)は「霧や霞が一面に立ちこめる」の意であるが、万葉集に「霧らひ」「霧らふ」「霧らし」「霧らへ」などがある。

 

●大佐山(オオサヤマ)
 

 大佐山周辺と大佐川上流は黒ボク土であり、縄文期に山焼きが行われ、ススキ草原が広がっていたと考えられる。



 出雲弁「さで」=焚き付け用の枯れ枝や枯れ葉。
 石見弁「さぜぎ」「さでぎ」=枝や葉の部分の薪、細かい枝の薪。

●周布川(スフガワ)
 

 ツルヨシは周布川に多い。

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カシミール3Dデータ

ミヤコグサ

総沿面距離11.9km
標高差664m

区間沿面距離
傍示峠
↓ 2.8km
大佐山
↓ 3.2km
八幡岩
↓ 1.9km
松本橋
↓ 4.0km
傍示峠
  

 


 
長田郷遺跡(金城町長田) 土錘(20〜25)と石錘(26)実測図 『金城町遺跡分布調査報告書T』(金城町教育委員会より)

八幡岩遺跡 
(『八幡岩遺跡』(金城町教育委員会より)
大佐山周辺の黒ボク土(緑・赤) (国土交通省土壌図GIS+カシミール3D) 青線は大佐川

大佐山
波佐周辺図
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より