6:20 清谷橋 晴れ 気温19度
オニユリ |
 |
6:30 三子山登山口
7:20 大岩
7:55 作業道
8:10 尾根
8:20 三子山
8:40 北峯
8:55 岩乗
11:10 車道
11:40 清谷橋
石谷川に架かる清谷橋を出発。橋のたもとに三子山の標識がある。水田とワサビ畑のある清谷川沿いの車道を進む。ほどなく三子山登山口の道標がある。民家横の青い橋を渡り、裏手の山道を進む。民家の裏にマムシグサが栽培されていた。小谷の左岸の登山道を登る。
登山道は植林地、松林を通り、小尾根を越えてヒウラケ谷上部に出る。オオキツネノカミソリがまだ咲いていた。山道は大きい杉と大岩の横を通り、谷に沿って登っていく。水源の植林地を通り、涸れた谷を進むと作業道に出た。「三ツ子山登山道 あと1km」の道標があり、作業道は草で覆われている。
オオキツネノカミソリ |
 |
作業道の所から間もなく尾根に出た。尾根に匹見登山口の道標があった。尾根を南へ進み10分ほどで三子山。林で展望はない。
「匹見川の枝谷・石谷川を登ると、石谷の西側に急峻なこの山が立っている。山は三つのピークがほぼ等間隔に南西から北東方向に連なった長い形をしている。尾根の西側は日原町の滝谷で町境になっている。北東端のピークから少し進むとイワノリと呼ばれている展望のきく岩稜の小ピークに立ち、真下には三八豪雪の後、消滅した小平集落の谷が静かに眠っている。近年、和共の清谷から地元の人の協力で三子山縦走の登山道が整備され、広島や山口方面からも四季を通して多くの登山愛好家が訪れている。南西端のピークには、日原町日浦からも登れるようになり清谷ルートと合流している。
毎年6月末、石谷地区の人たちが登山道の下刈りをするころには、頂上で大小のチョウが乱舞する不思議な光景が繰り広げられている」(『匹見町誌・現代編』)。
キバナコスモス |
 |
少し休憩して道を引き返す。次のピークに三子山北峰の道標があるが展望はない。尾根をさらに北へ進むと、岩尾根に変わり、伐採された展望地に出た。
東側にハビ内谷林道が見え、その先に右側から香仙原、安蔵寺山、立岩山、大神ヶ岳の大展望が広がる。引き返して東の谷へ下った。雑木から植林地に入る。西から落ちる谷に出ると水流が現われる。さらに谷を下るとワサビ田跡の古い石積みが残っていた。
左岸に踏み跡があり、下っていくと右岸に渡っていた。薄い植林地の踏み跡を進む。踏み跡は谷の南の尾根を通り、竹やぶを過ぎた途中で消失。谷へ下りて車道に出た。左岸入口に墓所があった。
石谷川沿いの車道を進むと、すぐに橋が架かり、ヒウラケ谷川とあった。右岸に廃屋がある。石谷川にはツルヨシが群生している。日の照りつける車道を進む。和共橋を渡り、清谷に帰着。
「バビ大森林の伐採」(石見匹見町史)
「明治三十二年八月三十日、紙祖の斉藤常治は山崎庄太に対し、バビ山六百町歩の毛上を売り渡した。伐採樹木はホウ・ボカ・ションボ・ノブの四種で、代価千二百円向う五ヵ年の約定で伐採をはじめた。翌三十三年三月二十日、紙祖の横山乙吉と斉藤永吉は、ハビ山の所有林六百町歩の椎茸木・松・白木を除く、栗・杉・槻・桜四種の樹木を伐採することにつき、匹見住斉藤吉之亟と、代金千二百五十円で契約を結んだ。期限は明治三十三年四月二十日から向う十ヵ年、明治四十三年四月十九日迄の約束であった。当時山出し・川流し・流木に際しては、売渡人は一切の責任を負わないという約束であった。
明治三十三年七村道調査委員を設置し、次の伐木を決議した。
大字紙祖字ハビイ一九九六番 六百町歩 立木の内 杉・栗・桜・槻
伐採期限 明治四十四年三月限り」
ヤブデマリ |
 |
ゴマダラチョウ |
 |
■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
藁蛇神事(わらへびしんじ)
「田原地区の田原大元神社で旧暦8月1日(新暦9月1日)の例祭に行われる神事であったが、近年は8月の末日近くに行われるようになった。
同神社は明治13年、鹿足郡内にあったという御殿村から御神体を移して建立された。神事の特徴は、地区民総出でワラを持ち寄り長さ5m、太さ15cmの大蛇を左巻きに編んでつくり、神社の背後にある古椿の神木に巻きつけておく。
祭礼は祝詞奏上の後、その大蛇の頭部に一本の幣を刺して、神事を終える。大蛇を祭る風習は珍しく、この地にだけ伝わっているが、由来ははっきりしない。かつて神事の代表を務めていた藤原清重は『豊作物を野山の獣から守るために、地区の守り神として大蛇を祭ったと伝え聞いています』と新聞社の取材に話している。
この神事を以前、町文化財専門委員会が詳しく調査したが、『へび形のものは竜蛇として捉えられ、それはおそらく水神の化身ではないか。この地域は山間地では珍しく水田が多いので、稲作のために必要な水を確保するため竜神としての大蛇をまつるようになったのでは。水田耕作と結びついた行事であったことが推測できる。信仰と農事とが結びついた貴重な民俗行事といえる』として五十七年、町の無形文化財に指定した」(『匹見町誌・現代編』)。
「内石地区には大元神社で八朔の日に藁蛇(ワラヘビ)神事という龍蛇形のものを祀ることが行われているが、これは水の精霊の化身を祀ることによって、収穫前にしての災害などを防ごうとした行事である。水神的祭祀であることは間違いないが、大元神社で行われているということをみると、古くは祖霊信仰に発し、それがしだいに作神信仰に変異していったということが読みとられて、匹見の立地や信仰形態の推移が濃縮されている祭祀であるように思われる」(『匹見町誌・遺跡編』)。
藁蛇神事は内石川左岸の支流に入ったところで行われている。藁蛇は古椿の大木に下から巻きついて、上の幹分かれから頭を出している。ちょうど、蛇がとぐろを巻いたような様子になっている。
田原大元神社の祭神は水分神(ミクマリノカミ)・保食神(ウケモチノカミ)・大山祇神(オオヤマヅミノカミ)の三神である。水分神の象徴として河童、蛇、龍などがある。
わら蛇は「豊作物を野山の獣から守るための守り神」であると伝えられている。
藁蛇神事の行われる所から1.5km南の内谷の広戸A遺跡(縄文中期・後期)から蛇行文のある縄文土器が出土している。蛇文や蛇行文の縄文土器は全国で出土しており、縄文人と蛇は深い結びつきがある。縄文土器は煮沸、貯蔵、祭祀具などに使用されたが、蛇は守り神であったと考えられる。
内谷、内石地域は縄文、弥生、古墳、中世から現代まで継続して人々が生活してきたところであり、わら蛇神事は縄文時代にその起源があるのであろうか。
阿高・中津式土器の蛇行文
(『広戸A遺跡調査報告書』)
滑石を含み、口端に貝の押圧文。胴部に縦方向の蛇行文を描き、淡赤〜灰褐色を呈する。凹線で施文し厚手である。 |
 |
石冠
広戸遺跡北東7kmの匹見町広瀬の竹ノ原調査地点(沖ノ原遺跡)から石冠が出土している。
「平成14年(2002)に試掘したとき、奇妙な石器が出土した。握りこぶしを重ねたような丸石で、高さが6.6cm、幅が8.7cmある。見ようによっては正月の鏡餅のような二段重ねの丸玉となっているし、縄文の遺物でいえば、寸たらずの石棒のようにも見える。要するに丸石の中央を掘り窪めて、抉った石である。表面はざらざらしており、気泡が多く柔らかい石である。
この石器によく似た呪術具として縄文時代には石冠があって、使用時期も一致している。石冠は、磨製石器の一種で、人骨の頭部から出土したことが理由になって命名されたが、冠帽のように身に着けるものではなく、石棒にちかい遺物である」(『匹見町誌・遺跡編』)。
石冠 499.7g
『沖ノ原遺跡調査報告書』 匹見町広瀬竹ノ原地点
|
 |
鏡餅は蛇がトグロを巻いた姿であるとの説がある。土器を取り巻く蛇、椿の大木に巻きつく藁蛇など「蛇がトグロを巻く」ことに霊力を見ていたのかもしれない。
「カガミ」は「蛇身」(カカミ)と言われているが、蛇のアイヌ語に「tanne-kamuy」(タンネ・カムイ)がある。「長い・神」の意である。「カガミ」はアイヌ語では、
ka-kamuy (カ・カムイ)「ひも・神」 と表わせる。
ka-kamu の転訛(カカミ)。
アイヌ語地名「tus-pet」(ツシペッ)は「蛇・川」の意であるが、「tus」は「綱」「縄」の意で、蛇の忌み言葉である。「ツチノコ」の「ツチ」も蛇の古語であるが、アイヌ語「ツシ」と似ている。
蛇のアイヌ語に以下がある。
tus-kor-okokko (トシコロコッコ)
ツシ・コロ・オコッコ
綱・を持つ・ばけもの
茨城弁では「蛇のとぐろ」を「つぐら」と呼ぶ。
アイヌ語で以下のように表わすことができる。
tus-kur ツシ・クル 「綱の・神」
tus-kur トシ・クル 「綱の・神」
tu-kuru の転訛。(トクル・ツクル)
石見弁・出雲弁で蛇は「くちなわ」と呼ぶ。アイヌ語では以下のよう表わすことができる。
kuchi-noye クチ・ノイェ 「ひも・をねじる」
kuchi-noi の転訛。
アイヌ語に tus-noye ツシノイェ 「綱・をねじる」がある。
けつ状耳飾り(右半分の表裏面)
『新槇原遺跡発掘調査報告書』
(匹見町教育委員会より) |
 |
|
広戸遺跡の北500mの所にある土井田遺跡から「けつ状耳飾」が出土した。けつ状耳飾りは匹見では、三葛の中ノ坪遺跡、出合原の新槙原遺跡から出土した三点だけである。
けつ状耳飾りは耳たぶに開けた穴に垂れ下げたイヤリングである。耳飾の着装者はシャーマンなどの儀礼執行者に限られていた。
アイヌ語 tusu-kur(ツスクル)は、「神おろしする・人」「巫女」「シャーマン」など意がある(『沙流方言アイヌ語辞典』)。
以下は『アイヌのツス(tusu)とツスクル(tusu-kur)』(三田村成孝)からの抜粋である。
「北海道のアイヌ民族の間にツスといわれる憑依現象がある。このツスをする人のことをツスクルというのである。ツスクルは自身に憑いている憑神により巫力を与えられる」
「ツスの構造・機制に於いて最も重要なものが憑神(turen-kamuy)である。憑神についてAA媼は竜神様、KM媼は天神様が自分の憑神だと言っていた」
「ツスクルは、ユーカラにはヌプルペ(nupur-pe)として出て来る。ヌプルとは畏敬すべき・おそるべき・尊きの意味の語」
「精神的基盤がツスに繋がるものがあるとされているイム(imu)……知里氏はイムの意義について、一般的な軽い意味、一種のヒステリー反応、巫者が異常意識に入って反射的に行う跳躍の三つを区別している」
「金田一氏も『そう云うことで、よく子供などが祖母をからかって、皆が哄と笑っている。之を気の毒に思ってみていると、アイヌの方ではそうやって皆に笑われ、面白がられ、いとしがられるのは蛇がさせるのであって、興がって物など恵まれるから結局幸福なのだと。あれは、自分が蛇につかれてイムーをするという潜在意識を持っていて、一つは誘発されて、一つは習慣的に、半ば意識してやることでないかと思う』と述べている」
「AA媼は若い時の経験として『私が十六の時に、大川に大水が出たんです。その時は、同じ年の十六になる娘とネキひろいに行ったんです。そしたら、水たまりさね。こんな蛇が上に浮かんでいて、この位の太さなんです。私の手のひらよりまだ頭が大きいんです。こんな太いやつがいる。それ見れ、それ見れと一緒の娘に言っても言っても全然見えないんです。一緒の娘が見えないもんだから、それそれそれと言っている内に蛇が怒って私をぼってきたんです。こんな足がついていて、頭からこんな位の所に足がついているんです。白いきれいな骨なんです。そんなのがのぼってきたんです。うちの婆ちゃん(母)は竜神さんなんです。こんな蛇が、こんな頭して、足こんなになってぼってきたっていうと、うちの婆ちゃんが火の神さんに一人しかない娘だから、何とかこの娘を助けて下さいと一生懸命お願いしたんです』」
「AA媼は、自分の家は代々ツスの家系で、自分は五代目だといっていた」
アイヌのツスクルは家系であるから、代々ツスの具体的な内容を聞かされて受け継がれてきたと考えられる。その際、憑神として蛇が登場することが多かったのではないか。ツスは縄文の巫女に通じるものがあると思われる。
「蛇体の神」をアイヌ語で次のように表す。
rap-us-nupur-kur (ラプシヌプルクル)
「羽・生えている・霊力ある・神」(竜蛇)
「ツスクルは、ユーカラにはヌプルペとして出て来る」が、tus-kur(ツシクル)と表わせば、「綱・神」「蛇・神」の意である
「けつ状耳飾の巫女」は「藁蛇神事」のような祭事もおこなうシャーマンであったのかもしれない。
巳を戴く神子(少女土偶)
(長野県藤内遺跡=縄文中期
井戸尻考古館HPから)
巫女(ふじょ)と推測されている |
 |
|
★蛸のアイヌ語
at-kor-kamuy アッコロカムイ ひも・持つ・神
★蜘蛛のアイヌ語
tus-e-rikin-kur トシエリキンクル つな・で・登る・神
tus-e-rikin-mat トシエリキンマッ つな・で・登る・女
ka-e-rikin-mat カエリキンマッ 糸・で・登る・女
ka-e-rikin-kur カエリキンクル 糸・で・登る・神
●ハビ山
石見弁・出雲弁「ハミ」はマムシの意であるが、蛇の古語、方言に「ハミ」「ハビ」「ハンビ」「ハム」「バンブ」などがある。古語は「ヘミ」と呼ぶ。
ハビ山は「蛇山」「マムシ山」の意で、その地名は「藁蛇神事」に見られる蛇信仰に由来があるのかもしれない。
●松尾(マツオ)
松尾はハビ山北の地名である。
●内谷(ウツタニ)
●内石(ウツイシ)
匹見町石谷は明治期の村名、内石村(ウツイシ)と内谷村(ウツダニ)が合併して、両村の末字をとって「石谷」の地名が成立した。両村とも「内」を「ウツ」と呼んでいる。
カシミール3Dデータ
クズ |
 |
総沿面距離9.0km
標高差514m
区間沿面距離
清谷橋
↓ 3.5km
三子山
↓ 0.8km
岩乗
↓ 2.6km
石谷川
↓ 2.1km
清谷橋
|