5:40 三坂橋 晴れ 気温20度
キツリフネ |
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6:00 笹山橋
6:35 モチガ谷
10:40 シシガクチ
12:40 ミサカ谷
13:20 作業道
13:35 三坂林道
14:10 三坂橋
三坂橋を出発、川岸にネムノキ、アカメガシワが咲く。紙祖川を下るとウワミズザクラが実を付け、スモモの小さい実が生っていた。カレイ谷に架かる笹山橋を渡ると、前方にシシガクチが見えてくる。民家の軒下に刈られたススキが立て掛けてあった。紙祖川沿いにワサビ畑がある。
旧道分かれにある天満宮に寄ってみた。民家のような建物の後ろに社があった。エンコウ橋を渡ると右岸からモチガ谷が下りている。この先のバイパス道上に雀堂遺跡と呼ぶ縄文のキャンプ地があった。雀堂はこの辺りの字名で、雀封じの小祠があったと言う。
「(雀堂発掘)調査地点の東300m山裾には周知の遺跡である『雀堂』が存在しており、地元の人たちはこれを鳥害としての雀封じのために祀った小祠跡であったといっている。またその南側の餅ヶ谷という谷筋が西流してつくった緩やかな谷地を形成しているが、そこには畑地や古墓などが点在し、古くは生活の営みがあった様子が窺われるのである」(『雀堂遺跡調査報告書』)。
ウワミズザクラ |
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モチガ谷左岸に樹林に覆われた林道が通っていた。林道は南側へ延びていたので、途中からモチガ谷に入った。モチガ谷は低木の覆う、クモの巣の多い石の谷であった。谷にはオオキツネノカミソリが多い。谷を進むと涸れ谷に変わる。涸れ谷の分岐付近の右岸に石積の残る山道が通っていた。山道が谷に下りるとワサビ田跡の石積がある。ワサビ田にはオオキツネノカミソリがさびしく咲いていた。
石の谷を登っていくと左岸上部が大きく崩壊していた。モチガ谷は岩や土砂で埋まり、トゲのある潅木帯となっていた。ナタで潅木を掃い谷を進む。涸れた水源の上部に石積みがあった。ワサビ田跡ではなく、炭焼き跡でもなかった。谷を道が横切っていたような所であった。
オオキツネノカミソリ |
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球根が見えるオオキツネノカミソリ |
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ササ帯に入ると、東の尾根に登った。深いササを分けて登る。モチガ谷から4時間ほどでシシガクチに出た。ピークは林で展望はないが、樹林を分けて南へ出ると安蔵寺山が大きく見え、枯れ松がある所から南への展望がある。左から冠山、寂地山、茅帽子山が見え、眼下のミサカ谷の先に小五郎山が大きく見える。
シシガクチから南の急な斜面を谷へ下った。涸れ谷を下る。谷の分岐に出ると、やっと水流が現れ、ワサビ田の石積みがあった。ワサビ田の石積みを下る。1時間半ほどでミサカ谷に出た。右岸のテープを進み、大溢鈩跡に出て、ミサカ谷に下りた。ミサカ谷は思った以上に大きい谷であった。涼しい風の吹き抜ける谷で一休みして、左岸のスギ林を下った。
谷を下ると、右岸は伐採地となっている。左岸のスギ林の中の作業道を進む。ミサカ谷右岸は尾根まで丸坊主となっていた。作業道はコウイ谷を渡り、三坂林道に上がっていた。林道からシシガクチが見える。30分ほどで三坂橋に帰着。
サワオトギリ |
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ヒナノウスツボ |
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ウバユリ |
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クサアジサイ |
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ノリウツギ |
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マタタビ |
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ヌルデ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
「雀堂遺跡は紙祖川の谷、樫田と笹山の中間にある。調査前は原野になっていた。道路改良工事に伴う調査として二区画を発掘した。遺物は石器だけしか出土しない。しかも定型的な石器は、表面で採集した石鏃だけで、残りはすべて小さな石のかけらである。縦長のかけらがおおいので、何か特殊な製作方法で石器が作られていたことがわかる。しかし、石器だけで土器がまったく出土しないことはおかしなことであって、当然、住居跡も見つからなかった。
このように石器の破片しか出土しない縄文遺跡は、生活跡でなく、キャンプのような一時的な野営地と考えるほかない。もともと煮炊きのための土器を所持せず、狩猟のための石器を修理するために、打製石器を打ち直したのがこの場所と推理できる。このような遺跡はあまりにも小規模であるため、発見されることが稀である」(『匹見町誌・遺跡編』)。
雀堂遺跡の石器は冠山産出の角閃石質安山岩と思われるものがあるので、冠山安山岩原石が出土している三葛・中ノ坪の縄文人のキャンプ地であったのかもしれない。
石鏃や打製石斧片が出土しているので、このキャンプ地周辺で狩猟や土堀をおこなっていたと考えられる。
●モチガ谷
冠高原の花粉分析では6500年前、ススキ属、キビ属が生育する草原植生が成立したと考えられているから、吉和から匹見への冠山安山岩の搬入ルートは、栽培穀物の搬入ルートでもあったと思われる。
三瓶山東の板屋V遺跡・下山遺跡・五明田遺跡などの縄文遺跡から、イネ・キビ・ヒエ・ハトムギ・シコクビエ、モロコシ・キビなどのプラントオパールが検出されたことは、植物栽培も試みていた複合的な生業活動の可能性を示している(『中国山地の縄文文化』)。
雀堂遺跡から打製石斧片が出土したことは、周辺で穀物栽培が行われていた可能性を示唆し、栽培穀物に雀が群れていたとも考えられる。
日本書紀(720年完成)に、崇神天皇の皇子がみた夢として、「逐食粟雀」がある。「粟を食む雀を逐る」の意であるが、この時代、雀は「粟を食む鳥」と呼ばれていたようで、焼畑で粟を栽培していた証でもある。
モチガ谷はオオキツネノカミソリの多い谷である。神奈川県平塚市の上ノ入遺跡からはキツネノカミソリの炭化球根が発見されていて、縄文時代には食用にされていたと言う。
キツネノカミソリを食べる風習は最近まで焼畑農耕で知られる宮崎県椎葉村に残っていた。椎葉村ではキツネノカミソリをオオシと呼び、デンプンを採り、おにぎりに結んで焼いて食べたという。椎葉村ではキツネノカミソリはさほど多くないので、山で見つけると掘り採ってきて家の近くに仮植えをして、5月の末に葉が枯れてから太った球根を掘り起こして利用していた(植物の文化誌HP)。
●ハタガエキ
●キリゲキ
●ミズガエキ
pet-ka-ekimne
モチガ谷の南北に「エキ」を含む地名がある。「ミズガエキ」「キリゲキ」「ハタガエキ」で、「モチガ谷」は「モチガエキ」と呼ばない。
「西中国山地の山域に特有な地形方言として、タキ、リュウズ、クビレ・キビレ、ツジ、サコ・サク、エキ・エゴ、タオをあげることができる。エキ、エゴとサク、サコはいずれも凹状地形を表わす語で、広い意味で谷に包括される地形方言である」(「西中国山地」桑原良敏)。
三つの「エキ」地名と「モチガ谷」の違いは、地形図で見ると、モチガ谷川口流域が平坦地で広いことにある。ここでは焼畑がおこなわれ、穀物が栽培されていたのではないか。そのため穀物を食べるスズメが群れるようになった。
焼畑は縄文から弥生、古墳、日本書紀の時代(逐食粟雀)へと引き継がれ、スズメがよく集まり、「雀堂」の地名が成立したと考えられる。
匹見における焼畑
「当代における当組では、楮を主として、そば等の栽培は、焼畑耕作によっておこなわれた。これは山を焼き払って、耕作する農法で、中国山地一帯がそうであった。この製紙地帯では、楮の栽培と結びつき、山を焼き払ってから二〜三年の間は、食料となるそばや、大根・菜種を植え、それから楮を植えて、後二〜三〇年を楮畑とするのである。この焼畑は明治維新とともに、政府から禁じられて、定畑となっておる」(『石見匹見町史』)。
雀堂遺跡は縄文のキャンプ地である。三葛縄文集落や紙祖川下流の縄文集落から出向いてキャンプを張っていたと考えられる。
カシミール3Dデータ
ミヤマイラクサ |
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総沿面距離12.6km
標高差668m
区間沿面距離
三坂橋
↓ 2.3km
モチガ谷
↓ 3.9km
シシガクチ
↓ 1.5km
ミサカ谷
↓ 4.9km
三坂橋
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