6:45 金火箸橋 晴れ 気温2度
フデリンドウ |
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7:20 家廻り
8:00 戸村分れ
9:05 本谷
10:45 燕岳
11:10 打原峠
12:30 七村橋
13:00 あたご神社下
13:35 ガナアニ滝付近
14:50 金火箸橋
金火箸橋を出発。下流にもう一つ金火箸橋がある。犬を連れた近所の人に聞いてみると、下流の橋が本来の金火箸橋であった。昔はこの橋までマスが上がってきて、50cmほどのホンダマスを釣ったことがあると言う。小原川に沿う県道左鐙線を進んだ。
山の斜面にワラビが出始めていた。青ワラビと紫ワラビの両方がある。民家が点々とあり、森ノ橋の少し先に家廻りの縄文遺跡であるが、説明の看板などは無かった。ノブガ谷の下流に橋が架かり、「ちぐさ索道」が谷に入っていた。アカメ谷の手前の県道に注連縄のある立派な社がある。車道沿いに明治を刻んだ墓があり、花が供えられていた。
アキグミ |
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戸村へ上がる谷の橋を渡ると林道ハビ内谷線の標識がある。林道下には廃屋があった。コンクリート管を利用した祠に御幣が供えてあった。「町行造林三○○○ha達成記念の森」の標柱の先で、県道は一旦、本谷を通るがすぐにUターンしてイシタニゴシノ谷に入る。本谷左岸に作業道が上がっている。
谷には石積みがあり、ゼンマイ、ワラビが伸びる作業道を400mほど進むと終点でワサビ田がある。ワサビ田を横切って谷を進むと石積みが続く。谷の上部まで石積みが残っていた。谷の斜面にワラビが芽を出していた。水源を登り山頂に出た。高鉢山の上に立岩山(赤谷山)、右手に坊主山、特徴ある冠山、さらに右に安蔵寺山が見える。
イチリンソウ |
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打原峠へ下った。登山道は山頂から続く土塁の上にある。この土塁は昔山焼きを行っていた防火線である。20分ほどで峠に下った。オオカメノキが白い花をたくさん付けていた。中国自然歩道を下った。途中から林道に変わる。コノノエキを過ぎると、この辺りのササ下の土壌は黒ボク土であった。もうマムシが出ていた。
テング谷の上流に橋が見えたので上がってみた。中国自然歩道は林道より北側を通っているが、歩道は潅木に覆われていた。そこからまもなく車道に出た。県道189号線を下ると大きい堰堤がある。堰堤の上は高鉢山で山全体が春の芽吹きであった。大イチョウの下に明治から昭和までの墓所があった。
オオルリ |
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コヤマ川に架かる橋に田代谷川とあった。ワサビ畑のある民家を通り、あたご神社のある山下に入ると谷が狭まってくる。谷上の枝にオオルリが留まり、ミツバツツジが花を咲かせている。
川の曲流部に入るとゴルジュとなり、車道から滝が見える。これがガナアニ滝と思われるが、「西中国山地」の地図ではもう少し下流のように思われる。この滝から下流は谷は急に落ち込み、車道は谷から大分高い所を通っている。下に滝があるように思われるが、林が邪魔ではっきりしない。車道は小谷を渡り金火箸橋に出た。
ヤマエンゴサク |
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スミレに留まるスジボソヤマキチョウ 越冬後 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
昭和38年7月18日の毎日新聞に「燕嶽登山」の様子が次のように記されている。
「倒木の下を四ツばいで潜りぬけ、立ちはだかる雑木を切りはらって進み、ブナ林を登り谷を飛び越え、やっと尾根にたどり着く…この尾根から頂上へほとんど垂直な防火地帯が四十度くらいの傾斜で続く。日原側は国有林でスギ・ヒノキが頂上まで続いている。防火帯のクマザサの中を頂上に向うがほとんど胸が地にとどきそうだ」(『石見匹見町史』矢富熊一郎)。
山頂周辺に防火地帯があったことから、当時はまだ山焼きが行われていた。山焼きの後にはまずワラビが生えてくる。
「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する」
「わらび掘りのあとへは、必ずシズラの苗を補植し、毎年山を焼くことが肝要であった。こうして漸く七〜八年を経過すると、再び掘り取ることが出来、放任して置くと十四〜五年も経過してやっと蕨が生えはびこるのである…
わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。
わらび粉(わらびせん)や蕨縄は1700年代から生産されていた。
「わらびの御用量目を次にあげる。
安永七年三月わらび縄御用(1778)
文化七年六月二十四日蕨粉六斗売上げ(1810)
同年蕨粉三十目売上げ
文化二年 御用納蕨粉 弐斗 三袋ニシテ 与吉献上
(1819)……」(『石見匹見町史』)。
「蕨粉を取り除いたからの内、わらびの外側の長い繊維を『しずら』といっておる。これは非常に強靭で且つ腐りにくい点は、シュロの比ではない。だから江戸時代には土蔵の壁を塗る時、これを『すさ』として時に使用した。内石の俵正義氏方では100年以上経過した土蔵を取り壊したが、その際塗りこめた『しずら』は尚依然として変化もみせていなかったという」(『石見匹見民俗』)。
「縄文人は、ワラビの繊維を利用して、ワラビの縄をつくっていたふしがあります。 ふつうワラビは、食用と考えますが…桜田遺跡というところからは、ワラビの繊維で出来たカゴが、出土しているといいます」(「青森県・縄文ファンHP」)。
●燕岳(ツバクロダケ)
燕岳周辺の黒ボク土
カシミール3D+国土交通省土壌図
Azo-1(薄茶)・Azo-2(茶色) |
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燕岳、打原峠周辺は黒ボク土(Azo-2)で1万年前から野焼きが行われていたと考えられる。野焼きの後にワラビが生え、ススキ原が広がっていたと思われる。
周辺縄文遺跡から蕨文、渦巻文の土器が出土していること、石ヶ坪、中ノ坪の紙祖川流域の縄文遺跡から根茎類を掘る道具である打製石斧が多く出土していること、1万年前から山焼きが行われたことなどからワラビは重要な食料の一つであったと考えられる。
「ワラビ」の初見は万葉集にある。万葉集に志貴皇子(しきのみこ)の歌がある。万葉集に「ワラビ」は一首だけ登場する。
原文:
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
よみ:
石(いわ)ばしる、垂水(たるみ)の上の、さわらびの、萌え出づる春になりにけるかも
『万葉集』(759年) 左和良妣(さわらび)
『本草和名』(918年)は「蕨菜」を「和良比」と訓じる。
『倭名類聚抄』(935年)「薇蕨」を「和名和良比」と訓じる。
『鎌倉大草紙』(室町時代末期) 蕨
ワラビの出典からみると、ワラビは「サワラビ」から転訛したと考えられる。
ワラビの若芽を「さわらび」「うちわらび」「したわらび」「かぎわらび」などとも言うようだ。さわらびは「早蕨」と書き、「早い」の意として使用されているが、「さ」は清らかな神聖さに充ちたものに冠することばであると言う。
「サワラビ」が縄文期からの呼び名であればアイヌ語から次のような解釈が可能である。
イルカのアイヌ語は「トワユク」「ツワユク」と呼ぶ。
tuwa-yuk ツワ・ユク 飛ぶ・獲物(イルカ)
ワラビのアイヌ語「tuwa」には「飛ぶ」の意がある。
tuwa-rapi ツワ・ラピ 飛ぶ・翼(ワラビの・翼)
tuwa-rapi → suwa-rapi → sawa-rapi の転訛。
「サワラビ」は「飛ぶ・翼(羽)」の意と考えられる。万葉集の左和良妣(さわらび)は縄文語と思われる。
ワラビの学名
Pteridium aquilinum var. latiusculum
Pteridium:ワラビ属
aquilinum:鷲のような、湾曲した
latiusculum:かなり広い
Peteridium(プテリディアム)は、ギリシャ語の「pteron(翼)」が語源。羽状複葉の形が語源となっている。
ワラビ属のギリシャ語は「ツバサ」が語源となっているが、「ツワ・ラピ」はアイヌ語で「飛ぶ(ワラビの)・翼」の意である。ギリシャ人も縄文人もワラビから「翼」を連想しており、人類の共通点であるかもしれない。
「ツバサ」は万葉集にある古い言葉のようだ。アイヌ語では次のような意が考えられる。
tuwa-say ツワ・サィ 飛ぶ・鳥の群れ
tuwa-sa の転訛。
万葉集に「つばさ」を含む歌は二首ある。
2238:天飛ぶや 雁の翼の 覆ひ羽の いづく漏りてか 霜の降りけむ
訳:雁(かり)がまるで空を覆うように飛んでいたが、いったい空を覆った羽のどこから霜が降ってきたのだろうか。
3345:葦辺行く雁の翼を見るごとに 君が帯ばしし投矢し思ほゆ
訳:葦の生えている草原の上を雁が飛んでいる。その翼を見ると、あなたが背負っていた弓矢を思い出します。
両方の歌とも「雁の翼」であるが、「雁の群れ」として表現されていると考えられる。万葉の時代、「つばさ」は「飛ぶ鳥の群れ」を意味していたのではないだろうか。
「シダの民族植物誌」HPによると、以下のようにワラビが世界で利用されている。
「最も多くの民族によって食用されているものは、やはり汎世界的に分布するワラビ(Pteridium aquilinum)
である。地下茎に多量に含まれる澱粉を救荒食として利用するのである。例えば、カナリヤ諸島では根茎を挽いた粉と大豆の割り挽きとを混ぜて一種のパンを作る。これはゴフロ(goflo)と呼ばれている。北アメリカ北西部の原住民(Chehalis,
Cowlitz, Green River Group, Lummi, Skagit など)は根茎を焼いて皮(周皮)をはいで中心部の澱粉の多い軟らかな部分を食べる。
ニュージーランドではマオリ族の食糧だった。1769年から70年にかけて、クック船長の率いるエンデヴァー号でこの地を訪れたジョセフ・バンクスも、アルエ(aruhe)と呼ばれるワラビの根茎料理を食べた」
「ワラビの根茎には多量のデンプンが含まれ、縄文時代には既に重要な食料の一つであったということは「食糧」のページに書いたが、デンプンを採取した後に残る維管束や靭皮繊維も同時に利用されていたであろうことは想像に難くない。根茎は長く地中を這い、10m以上にもなる。したがって撚ってロープにしたり、編んでバスケットを作ったりした。家や蔵を建てるとき土壁が使われるようになると、ワラビ縄は塗りこめる竹格子をとめる”木舞縄”として重用されるようになる。耐久性に優れているだけでなく見た目にも美しいので、庭園の竹囲いなどを縛るのにも使われた」
「ワラビは北米原住民のWasho, Yokut, Mewk, Pomo, Ukiah などの諸族が、根茎を縦に裂き、細い帯状にほぐしたものを、そのまま編んでバスケットにしたり、撚ってロープにしてから丁寧に編んで袋状の入れ物を作ったりした」
カスミザクラ |
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●打原峠(ウチワラダオ)
打原峠周辺は黒ボク土で山焼きが行われ、ワラビが群生し、ススキ原であったと考えられる。ワラビの若芽を「うちわらび」と言う。
●金火箸橋(カナヒバシ)
●ガナアニ滝
金火箸橋まで50cmほどのホンダマスが遡上していた。ホンダマスは降海型のサクラマスと考えられる。サクラマスが遡上できる川はサケも遡上可能である。ガナアニ滝は縄文期、七村川の川口近くにあったと考えられる。
カシミール3Dデータ
アカタテハ |
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総沿面距離16.3km
標高差752m
区間沿面距離
金火箸橋
↓ 6.2km
本谷
↓ 2.1km
燕岳
↓ 0.8km
打原峠
↓ 7.2km
金火箸橋
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