6:55 三葛小学校跡 晴れ 気温2度
ネコノメソウ |
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8:05 登山道
10:15 寺床
10:25 安蔵寺山
11:15 オオゼリ
12:35 フルミチ
13:30 ミノブ境
14:40 ギオン谷落口
15:15 三葛小学校跡
三葛小学校跡を出発。民家の庭先の岩に注連縄が張られていた。イゲン谷橋を渡ると林道が左岸に入っている。伊源谷はかつて「伊源谷ブナの大森林が茫漠」と続いていた。
「匹見上村安蔵寺山の麓、三葛の伊源谷に『匹見上村伊源谷公有林伐斫採事務所』と、荒削りのブナ板に書かれた標札が、バラック作りの粗末な山小屋に掛けられたのは、昭和十一年七月のことだった。三葛部落は当時、戸数凡そ四十戸、匹見処女林の首都と呼ばれていた。文化の触手はついに太古の夢を破り、斧斤の手がついに入ったのである。伐林文化の先駆者―それは伊源谷部落の人たちであった。逞しい男たちは一人残らず山に入り、残った妻や娘たちは家を守りながら一方、製材所の雑役に従事した。伊源谷ブナの大森林は目の届く限り茫漠と続き、天日を覆うばかりに繁茂した枝と枝とが重なり合って、うす暗い森の中に一歩踏み入れると、全山寂として音もなく、大森林の奥には山の戦士たちが、首の所まである熊笹をかき分けて、匹見の径に挑戦し一本一本と林木を切り倒して行く」(『石見匹見町史』矢富熊一郎)。
同町史に安蔵寺山の林相が記されている。
「ブナ・コミネカエデ・オオカメノキ・クロモジ・オクノカンスゲ・ヤマソテツ・マルバフユイチゴ・ミヤマカタバミ(主林木)
スギ・ヒロハアオダモ・ブナ・ナツツバキ・ハイイヌガヤ・タンナサワフタギ・コアジサイ・ササ・コミネカエデ・イヌツゲ・アサノハカエデ・サワアジサイ・ツタウルシ・タニイヌワラビ・ミヤマイボタ・ウリハダカエデ」。
ニワトコ |
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崖下の御幣 |
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右岸のキヘイミチの谷に降りてみた。細い糸のような谷であった。谷の下流は広い平坦地となっている。ロクショウ谷の奥には小滝がある。イゲン谷左岸に広いワサビ畑がある。カツラの大木が多く、赤く芽吹きを始めている。林道沿いの岩壁の下に御幣が一本立ててあった。
ノボリオの谷は大きい堰堤で塞がれている。林道はヤシガ谷に沿って上がる。クワノキ谷とイゲン谷の合流点には石垣がある。イゲン谷を渡ると林道はその先で分岐し、クワノキ谷左岸に林道が上がっている。イゲン谷右岸の植林地を進む。ワサビの花が咲いていた。
林道から登山道に入る。山道は左岸に渡り、「旧ルート・新ルート」の道標がある。旧ルートのイゲン谷左岸の山道を進む。右岸の小谷にワサビ田がある。山道はオオゼリから下りる谷の分岐で小尾根に入る。少し山道を進み、ヒノキオに降りた。
アブラチャン |
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ヒノキオは岩の多い谷である。岩帯からゴルジュに入る。ゴルジュを抜けると、また岩の谷となる。この辺りの植林はスギである。ゴーロが続き左岸に岩壁がある。谷を大分上がった所に小さいワサビ田があった。石垣がしっかりと残っている。そこから一つ西の谷に移った。寺床へ上がる谷はゴーロの枯谷であった。
ササ薮に入り、鞍部手前に朽ちたブナの巨木があった。周囲4.4mで大きなサルノコシカケがたくさん付いていた。かつてはこんな巨木が「伊源谷ブナの大森林」を形成していたのであろう。そこから寺床の登山道に出た。10分ほどで安蔵寺山。
山頂には新しい展望案内板が設置されていた。霞む山々を案内板で確認した。小五郎山が正面にあり、その後ろに霞む羅漢山が見える。ここからみると鬼ヶ城山は目立つ。案内板には石鎚山(1982m)まであった。南の展望所に進んだ。
アマナ |
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眼前に赤土山、香仙原の尾根が見える。白旗山から茅帽子山への展望がある。眼下には高尻川が見える。イゲン谷登山道を下り、狼岩、大天狗岩を通り、途中からオオゼリへ下りる尾根に移った。小木とササの尾根である。展望所から30分ほどでオオゼリに出た。1028ピークからは左手に安蔵寺山を見ながらササ薮を進む。
956ピークを少し進むとヒノキ林に入る。ここから尾根の南側は長いヒノキ林が続く。ヒノキ林の南側がやけに明るい。マツガゴシの東側の谷は伐採され、裸となっていた。南北からクワノキ谷が上がるフルミチの鞍部はヒノキ林で、南側を林道が通っていた。フルミチからしばらく進んだ小鞍部にも東側から林道が通り、終点となっていた。
ササ薮を下りミノブ境に出た。ここは鞍部と言うより野原のような所であった。南からゴホンドシの谷が上がっている。緩やかなギオン谷を下った。上部は土の谷で、ササの下は30〜40cmほど真っ黒い土の層であった。谷には脆い水色の岩の層があった。少し下るとワサビの葉が出ていて、石積みが残っていた。
土の斜面にはオクノカンスゲが群生している。少し下ると左岸の植林地に山道が通っていた。谷沿いにワサビ田がある。スギ林の中にミツマタの花が咲いていた。川口から200mほどの左岸にススキ原があった。鞍部から1時間ほどで三葛川に出た。
ヤマエンゴサク |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
三葛の熊祭り
「三葛地区には『熊祭り』が行われていたともいい、昭和57年(1982)ごろ大谷瀧次郎(故人)から聞き書きしたものを列記しておく。それは熊を捕った場合、その狩猟具の槍などを用いて熊の周りを囲むように七本立てなければならない。数が足りない時は木棒でも立てて補う。熊の月ノ輪の部分はお天道様には向けてはならず、頭を正面に向けて舌を切り取って供える。そして『籠宮の乙姫様に肴を差し上げんと思って討ったら、天の犬をあやまって捕ってしまいました。どうぞ許してください』そして『アブラウンケソー』と三回唱えたという。なぜ熊祭りをしなければならないかというと、熊野権現様のご幣が一本ずつ倒れるから、そのお使いである熊を供養しなければならないからであるという…熊を山の精霊としてとらえていることは確かであり、おそらく根底には山の神自身であったのではないかと思う」(『匹見町誌・遺跡編』)。
秋田県阿仁のマタギがクマを獲ったときの唱えことばがある。
「大モノ千匹 小モノ千匹 アト千匹 タタカセ給エヤ ナムアブランケン ソハカ」(『マタギ 狩人の記録』)。
「アブランケソワカ」「アビランケインソワカ」は阿仁・仙北・鳥海・雄勝のマタギ言葉で、「阿毘羅吽欠蘇婆訶」と表わし、マタギたちが山で唱える呪文で、地水火風空を意味するサンスクリット語。梵語=古代インドの標準語。大日如来の真言の呪文(『マタギ 消えゆく山人の記録』)。
三葛の大谷氏が唱えた「アブラウンケソー」は東北マタギの呪文そのものである。三葛にはマタギに似た狩の風習が昔からあったのであろうか。
「当町地方の猟師が、大グマを射とめた時には、アブラウンケン・ソワカと、呪文を唱えた…東北地方のマタギは、大グマを射とめた際、アブラウンケン・ソワカと三度唱えたという。当地方のはこうした呪文の片言が、たまたま残存しているものらしい。クマを捕獲すると、天候が険悪になるものと、百谷辺では信じられておる。現在ではクマの数は、次第に減っていく運命にあって、当町では道川の三ノ谷や、三葛の伊源谷に、クマの穴があって住んでいるらしい」(『石見匹見町史』)。
アイヌの「熊送り」は、木幣を立て、祝詞(のりと)を捧げて、熊の霊を神の国へ送りとどける儀式であるが、三葛の「熊祭り」でも7本の槍や木棒(木幣)を立てて、権現様のお使いである熊を供養する儀式であり、「熊送り」も「熊祭り」も同じ性格のものであると考えられる。
三葛の「熊祭り」、マタギの「ケボカイ」の神事、アイヌの「熊送り」の写真をみると、三葛の「熊祭り」では槍や木棒(木幣)を7本立て、マタギのけボカイ神事では葉の付いた小枝を熊に捧げる。アイヌの熊送りではたくさんの木幣を祭壇に立てる。三葛の熊祭りはより古い風習が残されているのかもしれない。
匹見における熊捕りの歴史は、江戸末期の前後に槍で突く猟が行われている。
熊捕り
嘉永5年(1852)7月5日、下道川村の弁蔵は、字押ヶ谷という畑で、偶然熊に出くわした。かねがね近辺の者から熊取りの依頼を受けていた弁蔵は早速、猪槍を持ち出して、まんまと突きとめた。
万延元年(1860)6月、三匹の熊を捕獲し、無届のまま、隠して置いた広見河内村百姓、馬之助・百合松・紋兵衛・庄兵衛・善作・新兵衛・梅右衛門・磯助は、法度を犯したかどで、五人組の作次郎と、連蔵とを通じて、同村の庄屋へ理由を述べて訴え出た。病気には熊の胆が、特効薬と聞いたので、何卒熊を討ち捕り、村中に貯えて置きたいと、機会を待っていたところ、去る安政6年12月、猪狩りの節不図熊に出くわし、三匹を突き留めたのである。
慶応4年(1868)5月9日、下道川村の百姓、惣太郎・恵之助・貞之助・文吉・豊吉外五人は、同村亀井谷山へ明松を取りに行った時、不図熊に出くわし、その内壱頭を打捕り、直に切り崩し、御用当番斉藤六左衛門へ届出、生胆の買い上げを、民政所に願う(『石見匹見町史』)。
匹見町の縄文遺跡のなかでは、中ノ坪遺跡での石鏃の出土が突出している。匹見地域にある縄文村の中で、三葛は「狩の村」であったと思われるほどである。ツムギ谷、ウシロカムリ経由で冠山の南尾根を下れば半日で石器石材産地の冠高原に抜ける。こうした地の利が生かされ、三葛が「狩の村」として縄文期に発展したのかもしれない。
「マタギ」の呼び名に近いアイヌ語に以下がある。
マタンキ(matanki)狩人(帯広方言・アイヌ語方言辞典)
マタンキ(matanki)猟(アイヌ語辞典・萱野茂)
マタキネ・エパイェ・アン(matakine-epaye=an)
狩猟に行く(沙流方言アイヌ語辞典)
知里真志保はマタギの山言葉にアイヌ語が用いられているとして以下の事例を挙げている(『知里真志保著作集4』)。
マタギ言葉 |
アイヌ語 |
日本語 |
セタ・シェタ・シェダ・セッタ・ヘダ |
セタ
seta |
犬 |
ハケ・ハッケ・ハッケィ・ハッキ |
パケ
pake |
頭 |
サンペ |
サンペ
sanpe |
心臓 |
ワカ・ワッカ |
ワッカ
wakka |
水 |
ワシホロ |
ウパシ・ポロ
upas-poro |
雪が多い |
カド |
kanto
カント |
天気 |
シナリ |
シナ
sina |
荷負縄 |
匹見町では、明治期以前から猪、鹿、熊などの獲物が豊富で巻狩(まきがり)が盛んに行われていたと言う。
それにしても何故、東北マタギの風習が「熊祭り」として、三葛に残っていたのであろうか。この風習は縄文期まで遡るのであれば、三葛から大量の石鏃が出土したことと関係あるのだろうか。
中ノ坪遺跡
「大型剥片材質のほとんどは,冠山系の角閃石安山岩質のもので、本地区の上流部には玄武岩・流紋岩あるいは凝灰岩質のものが産出される。大量の石器類の出土には,こうした産地との近隣性が大きく影響しているものと考えられる」(『中ノ坪遺跡』)。
「石器類では石槍・磨製、打製石斧・凹石・石錘・石匙・石銛・スクレイパー・石鏃などが出土した。うち石鏃は400点余りと多く、狩猟に力点をおいた生活誌であったことを垣間見せるとともに、石匙も28点と注意すべき数量である。これらの石材の大半は安山岩を用いているが、5%は黒曜石であり、そのうち7割は乳白色をした黒曜石である。剥・砕片を含めて四千点余り出土した大半の安山岩質のものは、直線にして8キロの広島県廿日市市吉和の冠山産の可能性が強い…匹見の縄文文化の豊富さの要因は、落葉広葉樹帯で食料確保が容易であったということも然ることながら、こうした石材産地と接近性にあったといってよいだろう」(『匹見町誌・遺跡編』)。
●アブランケソワカ(マタギが唱える呪文)
マタギが唱える呪文と同じような言葉が三葛に残っていることは、梵語でなく縄文語(アイヌ語)からその意味を辿れないだろうか。縄文時代から唱えられている呪文であれば「大日如来の真言」とは関係ないと考えられる。
『知里真志保著作集』の別巻植物編のハシドイの項に次のようにある。
この木で家内の守り神である「チセコルカムイ」(chise-kor-kamuy 家を・所有する・神)の御神体、すなわち「ソパウンカムイ」(so-pa-un-kamuy 座・頭・の・神)…と称する木幣を作った(沙流)。
「so-pa-un-kamuy」の「so-pa」は「座・頭」で「上座」の意である。アイヌ語「sopa」は「上座」とある(『沙流方言アイヌ語辞典』)。
三葛の「熊祭り」の写真を見ると、熊の周りに木棒や槍が立ててある。これは木幣の代用と考えられる。「アブランケソワカ」=「オプ・ランケ・ソパ・カ(ムイ)」は、「槍を・下ろす・上座の・神」の木幣を表していると思われる。つまり木幣は「槍の神」=「狩の神」を表している。
匹見町荒木の細形銅戈(ドウカ) 弥生前期末
『匹見町誌・遺跡編』 |
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紙祖川の野入北の匹見町荒木から銅戈が発見された。銅戈は青銅製の武器で、発見されたものは長さ28cmが想定される切先部分で、細形銅戈に分類されるものである。細形銅戈は弥生前期末に朝鮮半島から北部九州に入り、おもに宝器として甕棺墓などに副葬された古形式のものである(『匹見町誌・遺跡編』)。
銅戈は使用痕が殆んどないことから、祭器用であったと推測され、銅戈には鹿の陽刻が施されたものがあることから豊猟を願う祭器であったと考えられる。
銅戈発見地点の上流100mのところに水田ノ上遺跡がある。「水田ノ上A遺跡は、縄文時代後期末から晩期前半期の共同墓地に伴うものであることは確実であり、そこで再生にかかわるお祭りが行われたものであったといってよい」(『匹見町誌・遺跡編』)。
銅戈発見地点や水田ノ上遺跡が縄文から弥生へ連続して続く集落跡であれば、縄文期の祭り事が弥生時代へ引き継がれ、そこへ銅戈が祭器として登場したと考えられる。槍の木幣に代わり、銅戈が祭器として使用されたのではないか。
中ノ坪遺跡から「けつ状耳飾り」が出土した。けつ状耳飾りの着装者はシャーマンなどの儀礼執行者に限定されていたであろう…副葬品を伴った配石遺構…は、何らかの儀礼、葬送儀礼に伴ったものであった…匹見町半田のヨレ遺跡から線刻石(縄文後期末から晩期初頭の遺跡)が出土し、儀礼のかかわりを示唆している(『匹見町誌・遺跡編』)。
●ヒノキオ
●安蔵寺山(アゾウジヤマ)
●アゾウジ谷
安蔵寺が実在しないのであれば、安蔵寺山西のアゾウジ谷の山の意と考えられる。
●三葛(ミカズラ)
●伊源谷(イゲンダニ)
「鮭は大正年間までは、相当さか上がっていたが、昭和に入ると次第に少くなり、現在では影をひそめた。鱒は大正年間ころまでは、非常に多く、下道川までさか上がった。どの淵を臨んでも一〜二尾は発見され、所によると十数尾もいた」(『石見匹見町史』)。
「本地区(石ヶ坪)では…河川にはハエ・アユ・ゴギ・ヤマメ・ケガニなどが生息
し、昭和の中ごろまではサケ・マスといった冷水魚が遡上していたといわれるなど、自然豊かな環境下にある地区でもある(『市内遺跡詳細分布調査報告書X[』益田市教育委員会)。
中ノ坪遺跡から石錘が16個出土しており、鮭・鱒の網漁が行われていたと考えられる。あるいは大きい鏃で鮭・鱒を突いていたとも思われる(bU4・65の石鏃=銛具)。
三葛の「熊祭り」では槍や木棒を立てるが、アイヌの「熊送り」では木幣を立てる。木幣にはハンノキも使われた。
カシミール3Dデータ
ミツマタ |
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総沿面距離14.4km
標高差765m
区間沿面距離
三葛小学校跡
↓ 5.7km
安蔵寺山
↓ 3.2km
フルミチ
↓ 3.7km
ギオン谷落口
↓ 1.8km
三葛小学校跡
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