7:05 ヤマの谷 晴れ後曇り 気温0度
7:30 ツゴウ谷
9:00 タタラ跡
9:40 都合越
10:10 ヤマの谷
11:45 ホンゾウ分岐
13:15 広見山
15:50 ゴロゴロノエキ
16:55 コウラ谷入口
17:50 ヤマの谷入口
道路下に「山の谷渓流取水口(3号暗渠)」「古黒見谷(4号暗渠)」「四郎谷(5号暗渠)」入口の標柱がある。そこから川原に降りると対岸がヤマの谷である。雪融けの匹見川は増水して渡渉できない。渡渉地点を探して渕見橋まで下った。結局、雪の積もったツゴウ谷に入った。
スギ林の都合谷銅山跡を通り、出発から2時間ほどでタタラ跡、そこから都合越へ登った。ワサビの花芽が出ていて、この小谷にはワサビ田があったようだ。40分で都合越に登った。ツゴウ谷側から道が通っていた。雪の残る水源をヤマの谷へ下った。30分ほどでヤマの谷。
都合越から降りる谷の落口付近上流は広い平坦地となっている。コスゲ谷を過ぎるとキジヤ床の平坦地。そこから先は谷が狭くなってくる。サワグルミ、トチの大木がある。滝を過ぎると広見山と七人小屋クビレの分岐。広見山へ入る谷の方が水量が多い。
ワサビ |
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左の谷に入るとすぐナメラ状の滝がある。滝の上は小ゴルジュとなっている。分岐を水流の多い方へ進む。水源は広見山の西に入っていた。尾根直下の水源の土は黒く、その下は粘土のような土であった。ササと潅木を分けて山頂に出た。ヤマの谷に下りてから3時間ほどであった。
天気は曇りに変わり、見通しが悪かった。恐羅漢山、十方山の峯を眺め、少し休んでコウラ谷へ下った。ヤマの谷の水源は雪が無かったが、コウラ谷は雪が深い。水流のある谷が雪で埋まっているので落し穴となっている。山の斜面を膝上まで埋まりながら下った。少し下ると谷の雪が融けていた。
ミズナシの落口まで2時間かかった。そこから少し下った左岸にワサビ田跡があり、その中に鉄滓、鉄クズが落ちていた。左岸の上は平坦地となっており、タタラ跡であった。平坦地を下るとワサビ田跡にワサビの花が咲いていた。滝の上を右岸に渡るとゴロゴロノエキである。右岸のスギ林辺りから山道があった。
アテツマンサク |
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カジヤ原付近の右岸に山道が続いている。滝を過ぎて下っていくと足跡があった。釣り人が入っていたようだ。山道は途中で消失しながら左岸、右岸に渡る。テンジョウマワシはワサビ田で奥に滝が見える。左岸の山道を進むと滝があり、そこから間もなく林道に出た。林道は左岸の山に入っている。広見山から3時間半ほどでコウラ谷落口の車道に出た。
コウラ谷落口は岩礁がある。大元神社に明治40年ごろ始まったと伝えられる道川神楽の看板がある。ジヤウジロウ谷落口も岩礁である。匹見川の右岸にイヌボウ谷の小谷が下りる。桜咲く鍛治町鈩跡を過ぎるとキトクのハラの谷が広い水田の中を横切っている。前田中遺跡のある橋を渡り、表匹見峡へ下った。
シロキツネノサカズキモドキ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
「西中国山地の広島・島根・山口県の境界に位置する冠山山地の北西部の島根県匹見町(益田市)一帯でも、縄文時代遺跡の発見が相次いでいる。高津川支流の紙祖川流域の河岸段丘上に分布する石ヶ坪遺跡では、縄文中期と後期の住居跡とともに、土器、打製・磨製石斧、石錘・磨石・石皿・スクレーパー・台形石器などが出土している。
…石ヶ坪遺跡より少し下流の水田ノ上遺跡では、縄文後・晩期の配石遺構や土坑とともに、土器・土版・土偶、打製石器・石錘・石製勾玉・硬玉製管玉・碧玉製小玉・滑石製小玉など特異な遺物が出土している。配石遺構は、東日本の環状列石状の遺構に類似している。…関東から東海地方および九州との交流によってもたらされた文化といえる。
…中国山地脊梁地帯を東西につなぐ文化の伝播ルートが存在したと考えることができる」(『中国山地の縄文文化』新泉社)。
紙祖川や匹見川上流にサケ・マスが遡上していた。
「益田市匹見町の道川地区は、市東側を1000m内外の中国山地(脊梁)山地が北東―南西方向に走り、境山を形成して広島県とに接するといった山間地に位置する…
…そして渓流には遡河性のサケ・マスの仲間であるゴギ、ヤマメが棲み、昭和初めごろまではマス・ツガニも比較的生息していたといわれ、山地の産物誌の豊かな地区である(『蔵屋敷田遺跡調査報告書』益田市教育委員会)。
「本地区(石ヶ坪)では…肥沃な谷平地を形成して紙祖川が流下しているが、その流域幅は最大で約500m(狭
小で300m)測って2.5km下流の匹見中央部で匹見川と相会している。この肥沃な沖積地は本町においては最たるものといえ、永く穀倉地として利用されてきたのであった…
…河川にはハエ・アユ・ゴギ・ヤマメ・ケガニなどが生息 し、昭和の中ごろまではサケ・マスといった冷水魚が遡上していたといわれるなど、自然豊かな環境下にある地区でもある(『市内遺跡詳細分布調査報告書X[』益田市教育委員会)。
紙祖川にサケ・マスが遡上し、道川の出合原にマスが遡上していたことは、縄文時代に匹見川上流にサケが遡上していたと考えられる。紙祖川合流点から匹見川上流に、アイヌ語でサケ・マスと思われる地名とそにれ関連する地名を挙げてみる。
●アザミ谷(表匹見峡)
●イブシ谷(表匹見峡)
●ジヤウジロウ谷(下道川・コウラ谷下流)
イブシ谷落口 手前 |
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●キリンボウ(臼木谷)
●ニオザイエキ(臼木谷)
●キリガ谷(東八幡原・柴木川)
カワヨシノボリ(斑紋型)が虫送峠を越えたことから、サケ、マス、ゴギは虫送峠を越えたと考えられる。
1950年樽床ダム完成後、1994年11月、標識したアマゴ1817尾が柴木川水源の東八幡原、八幡原、苅尾山山麓、西八幡原に分散放流された。1995年10月、木束原川鳥落橋、苅尾山川(ウマゴヤ谷)で再捕獲された。捕獲された降湖型サツキマスの平均全長323mm、平均体重363gであった(『広島県芸北町樽床貯水池におけるサツキマスの生活史』「高原の自然史第2号」)。
柴木川には農業堰があるため、水源には遡上できないが、堰がなければ降湖型サツキマスがキリガ谷にも遡上したと考えられる。虫送峠を越えたサケ、マスはキリガ谷まで産卵にやってきたと思われる。
○アマゴ放流地点
「高原の自然史第2号」 |
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●イヌボウ谷(下道川)
●リョウシ谷(下道川)
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現在、サケは12月に高津川まで遡上している。「越年する川」とは冬の漁、サケ漁であったと考えられる。イヌボウ谷川口下流の前田中縄文遺跡から網用の石錘6個と竪穴住居跡が出土している。
竪穴住居跡から石錘2個、黒曜石2個が出土しており、竪穴住居は仮小屋住居であるとともに、漁猟の作業場でもあったと思われる。
●ネズミイシ谷
ネズミイシ谷落口は岩礁があり、流木の留まりやすい所であったと思われる。流木の下には魚が集まる。
ネズミイシ谷の匹見川を挟んで反対側にあるダヤ前縄文遺跡から石鏃が一つ出土した。安山岩製で、器長3.2cm・器幅1.6cm・厚さ0.4cm・重さ2.0g である。
この鏃は紙祖川の石ヶ坪遺跡から出土した鏃と比べると大きいことが分かる。鏃は弓矢の先に取り付けるものであるが、この鏃は銛として使用されたのではないか。
イヌボウ谷 |
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カシミールデータ
ジュウモンジシダ |
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総沿面距離18.7km
標高差837m
区間沿面距離
ヤマの谷入口
↓ 4.7km
都合越
↓ 4.4km
広見山
↓ 5.3km
コウラ谷入口
↓ 4.3km
ヤマの谷
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