5:35 二軒小屋 晴れ 気温−5度
ノリウツギ |
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7:05 恐羅漢山
7:30 旧羅漢山
8:10 ケンノジキビレ
8:35 焼杉山
9:05 ボーギノキビレ
10:10 京ツカ山
11:05 1158P
12:20 十方林道
14:00 下山橋
14:50 水越峠
15:35 二軒小屋
二軒小屋からライトアップされた国設のゲレンデを上がる。傾斜がきつくなるとアイスバーンのゲレンデは滑って前に進めない。カンジキを履き、爪を滑り止めにして這い上がった。1時間ほどでスキーリフトの最上部に到着、ちょうど朝陽が昇り始めた。そこからほどなく恐羅漢山頂。
山頂で日の出を迎え、南へ続く縦走路に入った。ブナとスギの平太小屋原へ下る。スキーの跡が続いている。スキー場のアナウンスが聞こえ、30分ほどで旧羅漢山。広見山、半四郎山に日が差し始めた。ケンノジキビレへ下る。丘のような焼杉山の上に白い冠山が見える。十方山の長い尾根が西へ延びている。
固く締まった雪は沈まず歩きやすい。歩く所が道である。朝陽に輝く焼杉山を見ながら、30分ほどでケンノジキビレに下った。焼杉山の登りに入ると旧羅漢山全体が見え、右手の山端に丸子頭がある。山頂手前の2.8mブナの所を通り、恐羅漢から1時間半ほどで焼杉山に到着。焼杉山の南にある周囲4.2mの大きいブナのところに寄った。この付近で4mを超えるブナはここだけである。
ヤマボウシ 京ツカ山 |
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大きいブナを見ながらボーギノキビレへ下った。尾根の西側がヒノキ林の周辺部を下り、30分ほどで横川越。鞍部に酒瓶がくくりつけてあった。ここは背丈を越えるササ原だが、まだ雪の下である。鞍部から登りに入ると、雪の少ないところはササが立ち始めている。タヌキの足跡が尾根に続いている。枝分れした大スギを過ぎると1168ピーク。
この辺りから広い平原のような尾根が続く。前方に京ツカ山が見えてくる。林の間から半四郎山と白い向半四郎山が見える。ボーギノキビレから1時間で京ツカ山。実が残るヤマボウシの横に三角点標柱が出ていた。南西に1158峯への平原が続き、左手に霞む冠山が見える。もう一山南西へ進んだ。
ツルウメモドキが赤い実を残す。黒くなったキハダの実が雪の上にたくさん落ち、木にもたくさんの実が残っていた。ミズナラにクマ棚がある。左手に黒ダキ山が間近に見える。冠山が大分近づき、クルソン岩も判別できるほどである。十方山南西尾根が細見谷上流と下流の分岐点にぶつかり、その先が細見谷南尾根の懸崖となっている。
ツルウメモドキ 京ツカ山南 |
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1158峯付近の雪の間から枯れたススキの穂が覗いていた。京ツカ山から1時間でピークに到着。平原はさらに南西に続いている。十方山の長い尾根も向かい側に見える。東の小尾根を下った。西斜面にカラマツの林があった。ヒノキの植林地を下る。前方にザザラのタキが見える。1時間ほどでカネヤン原中ノ谷左岸の林道に出た。
林道に雪が残るが道が表われていたのでカンジキを外した。細見谷上流に進むに連れて林道は雪で覆われるようになった。下山橋まで1時間半、マゴクロウ谷からカンジキの跡が続いていた。さらに1時間半ほどで二軒小屋に帰着。
実の残るキハダ 1076P北 |
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ミズメの実 細見谷 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
阿蘇市波野でおこなわれた植物珪酸体分析の黒ボク土層の基底部は1万3千年前にさかのぼる。「“千年の草原”といわれてきた阿蘇の草原が、“万年オーダー”
のものである可能性が出てき」たと言う。以下はその分析結果である。
『阿蘇市波野のテフラ断面における植物珪酸体分析結果』(下図)
「分析結果をまとめると、調査地点 の植生は、ササ草原(約3.2〜3万年前)、気候や火山活動で衰退したササ草原(約3〜1.3万年前)、ススキ草原(約1.3万年前〜現在)へと変遷していることがわかりました。
注目すべき点は、ススキ属を主体とする草原が、最近約1.3万年間にわたって継続しているということです。ススキ草原が、これほどの長期間継続したという例はこれまで国内で報告されていません。
ススキの種子は風で飛散するため、裸地ができたときには容易に侵入することができます。しかし、一旦は定着したとしても、ススキ草原が自然状態で長期間継続することは難しいといわれています。現在、阿蘇地域で行われている野焼き(火入れ)を中止すると、数年で灌木が巨大化して、ススキが衰退することが報告されています。したがって、ススキ草原が1万年以上も長い間継続したことに
は何らかの原因があります。
調査地点は中岳火口から10km程度も離れておりススキ以外の植物が繁茂できないほどの火山ガスの影響を受けていたとは考えにくいのです。しかし、人間による影響が古くからあったと仮定するとどうでしょうか。阿蘇の草原は、長年にわたる採草・放牧・火入れにより発達・維持されてきたとされています。なかで
も野焼きは最も効率的に草原植生を維持できる方法で、現在でも毎年春に行われています。
遺跡の調査から、阿蘇カルデラの周辺域では3万年前頃(旧石器時代)から人間活動があったことがわかっています。ススキ草原が始まる約1.3万年前という時期は、旧石器時代と縄文時代の境界にあたります。当時は十分な道具もない時代ですから、草木を刈り取って、広範囲にわたって草原を維持することは容易なことではなかったと思われます。したがって、火入れをして焼き払うということがもっとも簡単な方法だったのでしょう」(『九州の森と林業』76 2006.6から)。
冠高原の黒ボク土の植物珪酸体分析がおこなわれ、長い間草原が維持されたことから、火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が指摘された。
恐羅漢山から五里山へ続く長い南西の尾根は黒ボク土であり、ススキ草原が広がっていたと考えられる。県境尾根の両側に「Ysi-1」「Azo-1」、島根県側に厚層黒ボク土の「Azo-2」がある。県境尾根上にある地名は長く続いた「ススキ原」から形成された地名と考えられる。以下にカヤ類、ススキを表わすアイヌ語から縄文地名を考えてみた。
●恐羅漢山(オソラカンザン)
アイヌ語「san」(サン)は「平山」「棚山」などの意があり、「棚のような平山」のことで、急峻でない丘のような山を言う。西中国山地で山を「サン」と呼んでいるのは「苅尾山」「深入山」「十方山」「千両山」「寂地山」「羅漢山」などがある。カヤ原はススキ原のことである。
●ソカヒ山(恐羅漢山古名・1825年)
●旧羅漢山(キュウラカンザン)
「旧羅漢山は、広島県側横川の呼称である。いつの頃からこう呼ばれ出したか明らかでない」(「西中国山地」)。
●ケンノジキビレ
●焼杉山(ヤケスギヤマ)
●村杉山(ムラスギヤマ・焼杉山の広見側の呼称)
山頂から広見側は等高線の幅が広く緩やかに下っている。焼杉山は丘のような山である。
●ボーギのキビレ
p
●京ツカ山(キョウツカヤマ)
●中尾(ナカオ・京ツカ山の点称)
●バンキチエキ(黒ボク土)
西側から京ツカ山へ上がる小谷。
●ザザラのタキ
san-sara-not-ke
十方山の尾根端から西へ降りる小尾根の末端部が岩場の小山となっている。そこが山の棚である。「サラ」は「空いている」「すいている」などの意がある。「サラ」には「さらけ出す」という意味もあるようだ。
カシミールデータ
ヤマウルシ |
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総沿面距離22.1km
標高差596m
区間沿面距離
二軒小屋
↓ 2.8km
恐羅漢山
↓ 3.7km
焼杉山
↓ 3.8km
京ツカ山
↓ 3.3km
十方林道
↓ 8.5km
二軒小屋
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