7:45 吉和公民館 晴れ 気温−9度
11:10 女鹿平山
12:00 青笹越
12:20 石休ミ
13:25 大向
13:35 花原
13:50 吉和公民館
温度計は−9度を示す。朝の吉和は冷える。吉和公民館から市垣内の別荘地の道に入ると、除雪された雪がうず高く積まれている。吉和の町は真っ白い雪の中にある。積まれた雪の後の山道に入った。この辺りから20〜30cmの雪が積もっている。
植林地の雪の中を進む。最初の除雪された車道を横切る。植林地はさらに雪が深くなる。次の車道も除雪されていた。別荘の屋根は深く雪が積もっている。800mを越える次の車道は雪で埋まっていた。深い雪の車道を横切る。
山は植林地からミズナラ林に変わる。ノウサギの足跡も深い雪に沈んでいる。雪の車道を東へ上がっていると前方にノウサギが駆け抜けた。茶色いノウサギであった。気温が上がり枝に付いている雪があちこちで降り注ぐ。公民館から3時間半ほどで山頂。
アセビ |
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松の木の先に冠山と後冠が見える。鬼ヶ城山の左に羅漢山のレーダーサイトがはっきりと視認できる。板敷山は大きく見え、その左に青笹山。もみのき森林公園は白い雪原、左に小室井山が見える。山頂直下はひっきりなしにスキーリフトが上がって来る。
女鹿平山西面を下った。山頂西面はブナが多い。西尾根の北側は植林地である。西面は雪が深い。植林地の間から五里山東の白い1158峯が見える。大分下ったところで谷の水源に出た。西側に林道が通っている。水源からヤマドリが飛び立った。ヤマドリの足跡が雪の上に続いていた。
小ピークを越えると青笹越。周辺は造林地である。青笹越の北が熊崎事業地、南が大町谷事業地となっている。深い雪の林道を下り大向林道に出た。大向林道も30cmほどの雪だが、轍が奥に入っている。雪道をよく車が上がったものである。
法面から転がった雪はバームクーヘンのように渦巻いていた。林道から冠山が見える。長い雪道を下り、ようやく吉和の里が見えてきた。
ヤマドリの足跡 |
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ヌルデ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
土壌は、風化作用と生物の働きにより、主に鉱物と生物体(有機成分)から形成される。生物、特に植物の存在が必須であるために、地球以外には存在しない。鉱物は地表に存在する岩石の構成物である。陸上では、狭義の土壌はほぼ平均して1メートル以下程度の厚さしかないと予想されている。土壌の生成には、母材・気候・地形・生物・時間の5つの要因が大きく影響する。これに、人為を加える場合もある(「地球資源論研究室」HP)。
吉和の土壌図(@図)で特徴的なのは赤茶と茶の黒ボク土壌である。この土壌は吉和川沿いに帯状に長く続いており、石原峠から鬼ヶ城山南まで達している。縄文人の人口の増加とともに、竪穴住居の屋根材の入手や狩猟地の確保のためススキ原が広がっていったと考えられる。黒ボク土は縄文人のススキ草原への火入れによって形成されたと推測される。
縄文人口の増加は食料の確保が大きな課題となる。狩猟地の確保のため周辺の尾根上に新しいススキ原がつくられ、ドンクリやクリの採集のため山々が整備されたと思われる。
吉和の土壌図によると女鹿平山、小室井山、焼山谷周辺の土壌図の色が違うが、いずれも褐色森林土壌が大半を占めている。この地域の植生は植林地を除くと「ブナ−ミズナラ群落」(薄緑・山頂周辺)、「クリ−ミズナラ群集」(緑・山麓)が広い部分を占める。現在植林地になっている地帯も元々これらの植生であったと考えられる。
同じ褐色森林土壌でありながら、土壌分類が分かれているのは植生の違いに大きな要因の一つがあると思われる。植生が土壌を決定付ける大きな要素であり、とくに同じ植生が長い年月に亘って続くと、その植生よって土壌が形成される。
黒ボク土壌は1万年に亘る縄文人のススキ原への火入れによってつくられたように、女鹿平山、小室井山、焼山谷周辺の土壌は縄文人が利用して整備してきた山の植生によって形成されたと考えられる。長年に亘って利用された植生は、その地域の地名に反映される。
吉和の縄文人は1万年に亘って「ススキ原」や「クリ山」「ドングリ山」「ブナ山」を利用し、徐々に整備していったと想像される。植生は土壌を形成し、長期間維持された植生は地名を決定付ける。
さらなる人口の増加は新しい居住地を切り開いた。大町谷水源、小松原、立岩ダム周辺に新しいススキ原が形成された。それにともなって新たな狩猟地が開拓された。五里山や十方山、立岩山の尾根に新しいススキ原つくられた。
●女鹿平山(メガヒラヤマ・米加比良・1806年)
『佐伯郡廿ヶ村郷邑記』(1806年)に「米加比良山」とある。
●小室井山(コムロイヤマ)
●焼山川(ヤケヤマガワ)
●吉和川(ヨシワ・古名:吉羽)
鹿の角を祀った社は花原から熊崎にかけての吉和川沿いに五ヶ所ある。
●ウシオ谷(半坂遺跡西・黒ボク土)
●汐原(ウシオバラ 半坂遺跡西・黒ボク土)
●ウノコ(半坂遺跡東・黒ボク土)
●ツカ松(ツカマツ 半坂遺跡西・黒ボク土)
●半坂(ハンザカ・黒ボク土)
「半坂遺跡」(『吉和村誌』から)
「調査区は東西20m南北15mで…土壙からは石器・縄文・弥生の土器が出土し、冠・頓原遺跡にみられない居住生活域であることが認められた。…土層は6層に分れ…4層の黒色土層以下は原状の堆積層である。…第一土壙は170×70〜40cmの隅丸長方形。深さ35cmのピットがある。第二土壙は180×87cm、深さ50cm。壙底170×40cm、中央に径10cm深さ5cmのピットがある。…
本遺跡は出土遺物により縄文時代早期から後期にかけての時期の遺跡と考えられる。石器類は比較的まとまって出土しているが、土器は細片で少なく、又遺跡も少ない。明らかに人為的遺構としては、第一号・二号土壙の2基のみである。この土壙は形態、規模、在り方から関東・中部高地を中心に検出されている『落し穴』と考えられる」
半坂遺跡出土石器 |
器種 |
個体数 |
石鏃(やじり) |
7 |
スクレイパー(四種類) |
27 |
楔形石器 |
5 |
尖頭器(銛) |
1 |
石錐 |
3 |
石錘(おもり) |
3 |
磨石・敲石(たたき石) |
4 |
石皿 |
1 |
計 |
51 |
半坂遺跡の西が汐原で「鹿蹄の多い丘」の意であり、東のウノコと呼ぶ谷は鹿の居る谷、遺跡西のツカ松の谷は狩場であったと考えられる。
半坂遺跡は尾根上の平坦地にあり、黒ボク土でススキ原であったと考えられる。ススキ原の一部を刈り取って獣の通り道をつくり、そこに土壙を掘っていたのではないかと推測される。
カシミールデータ
総沿面距離10.1km
標高差504m
区間沿面距離
吉和公民館
↓ 3.2km
女鹿平山
↓ 1.1km
青笹越
↓ 3.8km
大向
↓ 2.0km
吉和公民館
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