山歩き

判蔵原…長平谷…クルソン岩…冠山
2009/8/30

バンゾウハラ…フカ谷の橋…タキガ谷林道…長平谷…クルソン岩…冠山…土滝山…寺床…松の木峠…判蔵原

■冠山(カムリヤマ)1339m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西(点の記) (廿日市市)

国道から草原に入る
判蔵原
一面ヨウシュヤマゴボウ
岩盤の沢を進む 判蔵原から降りる沢
木の橋を渡ると車道に出る
禁漁区と書かれた林道を進む
植林地の林道を上がる
中の谷から落ちる滝 右は長平谷
長平谷
長平谷の看板
キハダの実
クルソン岩
落ちていたクルソン岩の破片 割ると薄く剥がれる
ブナの道を進む
冠山
寺床付近
カラマツの道
ブナ
松の木峠D地点付近
ホツツジ
判蔵原のヒメウラナミジャノメ 食草ススキなどイネ科
6:00 判蔵原出発 曇り 気温20度
 
フシグロセンノウ

7:05 フカ谷の橋
8:00 ヘイケ谷
8:30 長平谷(中の谷の滝)
10:05 クルソン岩
11:10 冠山
12:00 土滝山
12:15 寺床
12:30 1164P
13:35 松の木峠  
13:40 判蔵原
 
 頭上の有線放送が6時を告げる。閉じられた林道から草原に入る。草原は薄くガスがかかる。ススキが穂を出している。東側に大きいビニール舎が見える。辺りはヨウシュヤマゴボウが群落を形成している。林道沿いにツリフネソウが咲く。ワルナスビの咲くヨモギ群落に入ると、そこで道が消失していた。周辺は薮の草原である。

 山側の林に入り、ササ薮を進む。穴に落ちて転げた。穴はコンクリートの側溝であった。道があったようだが、見えるのは生い茂るササだけであった。側溝に沿って下ると判蔵原から降りる水源に出た。そこは岩盤の小沢であった。沢を下るとフカ谷に架かる木の橋に出た。小道が通っている。上空を送電線が通っており、鉄塔に上がる山道のようだ。

 橋を渡ると車道に出た。「PCB汚染物保管場所」と書かれた大きな建物がある。植林地の林道を下ると分岐。すぐ東は国道の通る一軒家。アマゴ禁漁と書かれた植林地の林道を上がる。林道がタキガ谷の西に入ると水音が大きくなる。タキガ谷末端で林道終点。

オオマルバノテンニンソウ

 林道終点のすぐ先の中の谷の落ち口に滝がある。長平谷はその滝下に落ちている。タキガ谷を渡り、長平谷を上がる。左岸に踏み跡がある。スギ林の谷を上がると瀬戸物の茶碗のカケラが落ちていた。さらに進むと「センター事業地 冠山 7.61ヘクタール」の看板があった。

 踏み跡が無くなった所で、東のスギ林を登った。スギ林を抜けピークを下ると登山道に出た。キハダの実が鈴生りであった。オオウラジロノキの実が落ちている。ガスの濃いクルソン岩に到着。落ちていた岩を見ると、冠高原の安山岩に似て薄く層状に剥がれるが、重さが軽く、もろい、叩いた音が金のように響かないなどの違いがある。

 ガマズミの咲く道を引き返す。キリで薄暗いブナの道を進む。山頂にフシグロセンノウが咲いていた。山頂で休んで展望地へ進んだが、展望はまったく無い。ホツツジが咲いていた。ミズナラの葉に小さい蛇がトグロを巻いていた。

 南へ下り、松の木峠へ下る登山道へ出た。土滝山、寺床を過ぎるとカラマツ林となる。カラマツ林は1164ピークまで続いていた。大きいブナが所々に残る。冠山から2時間半ほどで松の木峠へ下りた。

ジャコウソウ

地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 植物珪酸体は、植物の細胞内にガラスの主成分である珪酸が蓄積したもので、植物が枯れた後も微化石(プラント・オパール)となって土壌中に半永久的に残っている。
 植物珪酸はイネ科・カヤツリグサ科などで含有量の高いことが知られている。

 「阿蘇カルデラ東方域のテフラ断面で植物珪酸体分析を実施…最近約13500年間は一貫してススキ草原が優先する草原植生が続いていたという結果を得ている。これらの研究により、”千年の草原”といわれてきた阿蘇の草原が”万年オーダー”のものである可能性が出てきている…
 阿蘇カルデラ東方域などでは1万年前頃より野焼きが行われススキ草原が維持されていた可能性は十分に考えられる」(図1 『阿蘇火山南西麓のテフラ累層における最近3万年間の植物珪酸体分析』宮縁育夫・杉山真二 地学雑誌HP)。

 図1を見ると、阿蘇カルデラ東方域では4000年から7300年前の間にススキ属型のピークの一つがある。

 野焼きが行われた理由の一つとして、旧石器時代から縄文時代は狩猟生活が中心だったので、広く見渡せる草原の方が好都合であったという考え方がある。

長者原花粉分析地 780m標高
(東京・北緯34度41分28秒 東経132度10分25秒)
毛無山南東の枕牧場付近 720m標高

 冠遺跡群D地点(795m標高)は松の木峠の国道沿いの東側にあり、堆積物に含まれる火山噴出物の分析が行われた。黒ボク土に多い植物珪酸体含有率はアカホヤ火山灰(6000から6500年前)のある6000年前がピークとなっている(図2)。

 D地点周辺の植物珪酸体分析は次のようになっている。
 「K−Ah(アカホヤ火山灰)にかけては…この時期にはススキ属、キビ属などが生育する草原植生が成立したと考えられ…これらのイネ科植物は陽当たりの悪い林床では生育が困難であり、ススキ属やチガヤ属の草原が維持されるためには定期的な刈り取りや火入れ(焼き払い)が必要である。このことから当時は火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が考えられる」(『冠遺跡群[』2001)。

 判蔵原から30kmの苅尾山西の長者原の花粉分析が行われている(780m標高)。イネ科、カヤツリグサ科の花粉のピークは5500から6500年前の間にある(図3)。

 長者原から20km東の毛無山の南の枕湿原で花粉分析が行われた(720m標高・枕牧場付近)。

 「160〜140cmの間では草本類のGramineae(イネ科)とArtemisia(ヨモギ属)がたくさん出現している。一般に山地の湿原では人類時代のR-Vb時代(1500年前から現代)以外は木本類が草本類より高率に出るのが普通であるから、このような例は珍しい。この層は8000yr B.P.前後のものなので、まだ人類による植生破壊とは考えられない。そこでこの原因として環境の変化とか自然発火による山火事のような現象を考えねばならないが、現時点ではどちらとも結論を出せないので、今後の研究課題としたい」(『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』1977)。

 直線距離で50kmの間にある冠高原の植物珪酸体含有率や、長者原湿原、枕湿原の花粉分析の単純な比較はできないが、6000年から8000年前にイネ科花粉がたくさん出現することは、縄文の人々が定期的に火入れを行ってきたように思われる。

 

五里山(1124ピーク)のススキ
ササの間からススキが伸びている。
2007/7/22

 西中国山地の尾根はササで覆われているが、注意深く見ると、ササの間から点々とススキが伸びているのが分かる。

 13000年前、阿蘇の縄文人が野焼きを継続的に行っていたとすると、中国山地の縄文人も野焼きを行っていた可能性がある。西中国山地にススキの尾根が点々と続いていたのではないだろうか。

 1万年前から、蒜山高原でも山焼きが行われていた。(『蒜山高原の姶良Tnおよびアカホヤ火山灰調査』)。

 ススキ草原は黒ボク土を作る。中国山地に黒ボク土が続き、草原の広がる大山に黒ボクが多い(5図)。

 「オオツノジカは左右の掌状角の間隔が最大で3メートルにも達するものもあるといわれており、森林帯に生息することは困難であるとされる。このことから推定すると当時(縄文早期)の中国山地帯の一部には、草原に近い植生を示すところが存在したと考えられる」(『中国山地の縄文文化』帝釈峡遺跡群・新泉社)。

 オオツノジカは山口県の秋芳洞からも産出している。

 冠高原や八幡原で約6000千年前に植物珪酸体やイネ科花粉のピークがあることは偶然とは思われない。

 「岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり18日、灘崎町教育委員会が発表した。この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。イネの栽培をうかがわせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をはるかにさかのぼる可能性がある(共同通信 2005/2/18)。

 西中国山地と東中国山地の間にある三瓶山東の板屋V遺跡から縄文早期のイネのプラントオパールが出土している。

 「この地域(三瓶山東)での縄文時代の生活は、狩猟・漁撈・植物採取を中心とする山地型の採集生活であったと考えられるが、板屋V遺跡や下山遺跡、五明田遺跡などでのイネ・キビ・ヒエ・ハトムギ・シコクビエ、モロコシ、キビなどのプラントオパールの検出は、狩猟・漁撈・植物採取を中心とする生活に加えて、植物栽培も試みていた複合的な生業活動が営まれていた可能性を示している」(『中国山地の縄文文化』新泉社)。

 約6000年前、中国山地周辺において、狩猟生活中心からイネなどの植物栽培という、生活様式の大きな転換点があったのではないだろうか。狩猟のための野焼から植物栽培へ生活の重点が移った。それが植物珪酸体やイネ科花粉(ススキなど)のピークが減少へと転じることと重なるように思われる。

 そうであれば、西中国山地の尾根に残る「ススキ」地名は6000年前以前から呼ばれていた地名であり、中国山地縄文人の野焼きの始まりと共に形成された地名と思われる。

中国地方周辺の縄文時代のイネのプラントオパール(植物珪酸体)の出土例

草創期(約12000〜9000年前)
縄文早期(約9000から6000年前)
縄文前期(約6000〜5000年前)
縄文中期(約5000〜4000年前)
縄文後期(約4000〜3000年前)
縄文晩期(約3000〜2300年前)
早期 板屋V遺跡(島根県・三瓶山東)
   
前期 彦崎貝塚(岡山県灘崎町)
前期 朝寝鼻貝塚(岡山市)
   
中期 姫笹原(岡山県・東中国山地)
中期 矢部貝塚(岡山県倉敷市)
中期 福田貝塚(岡山県倉敷市)
中期 長繩手(岡山県備前市)
   
後期 南溝手(岡山県総社市)
後期 津島岡大構内(岡山市)
後期 福田貝塚(岡山県倉敷市)
後期 文京遺跡(愛媛県松山市)
後期 五明田遺跡(島根県・三瓶山東)キビのプラントオパール
   
弥生前期 片瀬遺跡の水田跡(山口県)


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カシミールデータ

ワルナスビ 判蔵原

総沿面距離14.6km
標高差633m

区間沿面距離
判蔵原
↓ 5.2km
長平谷
↓ 2.1km
クルソン岩
↓ 1.8km
冠山
↓ 5.5km
判蔵原
 

 

図1 阿蘇市波野のテフラ断面における植物珪酸体分析結果(『九州の森と林業』76から)
4000年から7300年前の間にススキ属型のピークの一つがある。

上部帯(ススキ草原 約1.3万年前〜現在) 
中部帯(気候や火山活動で衰退したササ草原 約3から1.3万年前) 
下部帯(ササ草原 約3.2〜3万年前)
 
図2 冠遺跡群D地点(松の木峠)の堆積物の分析結果
(アカホヤ火山灰は約6000から6500年前)
 
6000年前に植物珪酸体含有率のピークがある。
 
(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から  
 
図3 『広島県北広島町長者原湿原堆積物の花粉分析』
(『高原の自然史』第12号)

「長者原湿原堆積物の草本花粉および胞子の分布図」から抜粋
(右端に深度・年代を付け加えた。)
左が堆積物の柱状図。 胞子の分布図は省略した。
 イネ科、カヤツリグサ科の花粉のピークは5500から6500年前の間にある
 
図4 『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』(1977) 720m標高
 赤字は付け加えた。
冠遺跡D地点の黒ボク層(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から  
 
図5 中国山地に続く黒ボク土(森林立地学会HPより)
 
図6 中国山地のおもな縄文遺跡(『中国山地の縄文文化』帝釈峡遺跡群・新泉社より)
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より