7:15 加下橋出発 晴れ 気温0度
オオバヤシャブシ |
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7:50 イワイ谷入口
8:30 オオリュウズ
10:40 林道分岐
11:05 東牛首
12:00 993P
12:40 青笹山
13:15 西牛首
13:50 篠ヶ原山
14:30 馬庭峠
15:10 アカゴウ谷水源
15:45 林道
16:00 488号線
16:30 加下橋
色梨林道入口の加下橋を出発。「吉和村誌」では樫田橋とある。加下橋を渡ると「出合いの滝」の表示がある。川に出ると足元に滝が落ちている。下流にはオリオ谷が滝となって落ちている。林の中にシロモジの枯れた葉が残る。車道を進むと、古い木の鳥居があり、その奥に祠があった。スギ林の先にクマガスギノ谷が下りている。
スギ林の488号線を進むと、橋を渡って南へ林道が上がっている。キジロウ峠へ出る林道であろうか。右岸に石垣が残っている。そこから左へカーブする国道を進むと、曲がり角にカーブミラーがある。そこがイワイ谷の入口である。
「本多田川は多くの支流の水を集めている。青笹谷より流れ出るイワイ谷も、その支流の一つであるが、この谷には本多田水系の中で一、二を争うほどの大滝がある。谷の奥は篠ヶ原国有林として知られ」ている(「西中国山地」桑原良敏)。
ヒオドシチョウ |
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ヒオドシチョウ |
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水量の多い川を駆け足で渡った。左岸を進むと、赤いテープが続いていた。エサ箱が転がっていた。釣り人が入る谷のようだ。左岸が大きく崩れている先は、谷が狭まり、渕となっている。左岸を巻いて越える。
奥へ進むと、谷の分岐に大きいスギが立っており、見上げると岩崖が朱色になっていた。コケでも付いているのだろうか。その一本杉の先に大滝があった。オオリュウズである。なかなか見ごたえのある滝であった。滝の左岸を越えられそうであったが、登山靴では滑って無理であった。引き返して、左岸の山を大きく巻いた。
滝の上は、ナメラ状に谷が上がっている。谷に大きいイイギリがあった。ナメラを抜けると大きい岩の転がる谷に変わる。大きいケヤキやトチノキがあった。やがて水源の平坦地に出た。右岸は植林地である。右岸に林道が通っていた。林道は何度か川を渡り、分岐に出た。中山造林地の看板があった。
ブナの爪痕 |
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林道を南へ進む。壊れかけた木の橋の先に石垣が組まれていた。古い道跡であろうか。植林地の林道を進む。所々、石垣がある。林道分岐から30分ほどで東牛首に出た。所山から上がる林道は西牛首に向って延びているようだ。
少し休憩して、植林地の尾根を上がった。シロモジの葉が残る。植林地を抜けて大岩の所に出た。林越に展望がある。ブナが現われる。クリの木にクマ棚が残る。ブナにクッキリと爪痕がある。牛首から40分ほどでブナのある993ピーク。少し先がピークとなっており、地籍調査の標柱がある。前方に鉄塔が見え、それに向って尾根を下る。植林地の先に青笹山が見える。女鹿平山の先に雪の残る十方山が見える。左手に板敷山がある。
鉄塔に出ると、広い山道になる。植林帯を抜け、赤い鉄塔の所に出た。目前に板敷山がある。そこからほどなくブナのある青笹山。もうチョウが舞っていた。鮮やかなオレンジの成虫で越冬するヒオドシチョウであった。
スギ林のブナ |
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来た道を引き返し、西牛首へ下りた。スギ林の中に大きなブナが残っていた。植林地を抜けると伐採地に出た。馬庭峠へ向う峯が続く。小室井山が見える。青笹山から30分ほどで西牛首に出た。林道は潅木で覆われている。東牛首から延びる林道は、現在ここまで来ていないようだ。
伐採地の尾根を進む。植林の木はまだ背が低いので東側へ展望が開ける。いち早くマツが伸び始めている。サルトリイバラが進行の邪魔をする。ススキの枯れ穂がある。伐採を免れた尾根にブナなどの広葉樹が点々と残っている。峠から40分ほどで篠ヶ原山。送電線の先の大峯山が見える。
山頂を下ると尾根上のヤドリギの付いた大きいブナが一本あった。幹の目の上の高さまでヤドリギが寄生していた。植林地を登る。岩場に着くとピークである。岩場から冠山、女鹿平山、十方山が見える。南側に青笹山から東牛首へ送電線と鉄塔が続いている。
ブナに寄生するヤドリギ |
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岩場から岩の尾根が続き、それを抜けると、植林地の馬庭峠に出た。篠ヶ原山から40分ほどであった。鶏石を探しながら峠を東へ進んだ。峠から200mほどの所の道沿いに変わった石があった。鶏のトサカのような、鬼の角のような石である。鶏石は高さ120cm 幅150cm 長さ200cmほどの小さい岩であった。
鶏石は吉和村の伝説にある。
「鶏石 馬庭の峠にある。いい月夜の晩にゃあ、鶏が鳴くいうて子供の頃にゃあ言いよった。鶏の形をしとったんじゃあなあように思う。馬庭の峠を少し下がったところにあった」
「三時頃、吉和を発って水内の多田へ出る頃にゃあ、しらしら明けますいのう、あの上の方じゃあ。そこに鶏石ちゅう石があります。ここ(細井原)を三時に出つりゃあ、四時頃にゃあ、あそこで夜が明けますわあよう。そこで鶏が鳴くんじゃあなあ、石がありますわあ、大きな石が。ああ、ここで夜が明けたちゅうことじゃいうて、みないいよりました」(「吉和村誌」)。
また、馬庭峠には「ちきり女」伝説がある。女の神の宮島さんが、機織に使う「ちきり」を持って、二人の子の手を引っぱって、石州からこの道を馬庭の峠まで行った時に、もうくたびれて、後生大事に持っていた「ちきり」を投げられた。その投げた「ちきり」が湯来町の本多田に飛んで行き、落ちたところを「ちきり屋敷」と言って、今でもあるという。
馬庭峠北の971三角点は、点名、馬庭峠(バテイトウゲ)となっているが、「吉和村誌」では、「ウマニワノタオ」と呼ぶ。971三角点の所在地は「吉和村字乱杉(ミダレスギ)」
「馬庭坂は上り下り各一里半とある。これは湯来町境の樫田から細井原までの全距離で、石見街道として古来重要な官道であった」
「中世以前は、銑鉄を得るための砂鉄の採掘・タタラ場への運搬・タタラ場でできた銑鉄の販売等が、この上下一里半域で行われ馬庭はその中心で…村境の交易交通の要地でもあったろう。近世になっては藩の禁山篠原山の栗・楢等もこの街道を通じて、廿日市や水内川経由で広島、その他に搬出された」(「吉和村誌」)。
サカキ |
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鶏石からほどなく林道に出た。林道は北の谷へ降りている。920ピークの南側の林道を進む。「造林作業路 東山線」の標柱がある。尾根を廻り込んだところで終点。アカゴウ谷の水源を降りる。間伐された倒木が谷を覆い歩けない。左岸の斜面をトラバース。植林地を下っていくと作業道に出た。そこからほどなく林道に出て、488号線まで下った。
ウラジロガシの大きな木がある。岩井谷の入口まで下ると、道路横の岩に赤いペンキで「龍口沢」と大書されていた。そこからほどなくオリオ谷入口に帰着。
東山線終点 |
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倒木で埋まるアカゴウ谷水源 |
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アカゴウ谷 |
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488号線に出る |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
吉和から佐伯にかけて縄文遺跡がある。
●馬庭峠(ウマニワノタオ)
●鶏石(ニワトリイシ)
馬庭は「マニワ」でなく、「ウマニワ」と呼んでいる。
●チキリ女(チキリメ)
鶏石のことか。
●牛首(ウシクビ)
「牛首は山の鞍部を言う地形方言である」(「西中国山地」)。
天杉山西のウシクビ谷、馬糞ヶ岳西のウシクビ(谷)がある。それぞれが峠に上がる谷である。
●青笹山(アオササヤマ)
●篠ケ原山(ササガハラ)
「アオササ」「ササガハラ」の「ササ」は、この辺りの地勢、植生を表現しているのかもしれない。伐採地の尾根はサルトリイバラやススキの尾根であったが、昔から薮の覆う山であったのかもしれない。
カシミールデータ
アセビ |
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総沿面距離16.1km
標高差552m
区間沿面距離
加下橋
↓ 6.4km
東牛首
↓ 2.0km
青笹山
↓ 2.8km
馬庭峠
↓ 1.4km
アカゴウ谷水源
↓ 3.5km
加下橋
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