7:30 石原峠出発 晴れ 気温11度
オオイヌノフグリ |
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7:50 鬼爪石
9:25 林道終点
10:10 NTT無線中継所
11:10 小室井山
11:45 奥の原山
12:45 シンペイ谷
13:00 田形
13:30 オクノハラ谷
14:35 立岩谷入口
15:20 石原峠
石原峠付近を出発。この辺りはレンゲガハラと呼ぶ。高速道の向こうに鉄塔が見える。186号線を下ると牛舎がある。四頭の牛がこちらに顔を向けた。ほどなく高速道の下を通る林道に入った。林道は谷に沿って上がる道と、高速道沿いの道に分かれる。
高速道に沿う林道を進むと、側溝に石橋の架かっている所があり、そのすぐ奥のスギ林の中に岩があった。その岩が鬼爪石であった。枯葉や枝を取り除くと、岩の表面が現われた。
岩を引っかいたような溝がある。岩の反対側に回ると同じような溝があった。幅150cm、長さ190cm、高さ150cmほどの岩である。スギ林の周囲をみても他に岩はなかった。鬼が女鹿平山から投げたのが、この鬼爪石である。江戸期にはすぐ傍を往還道が通っており、道行く人々がこの岩を眺めていたと思われる。
クリノキの爪痕 |
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高速道に沿って林道を進んだ。アオダモの木がある。「三段峡」と書かれた赤い大きな看板の横を通って、林道が上がって行く。スギ林の林道はクリノキが多い。スギゴケが林道を這う。クリノキにクマ棚がある。細い枝に爪痕が残る。高度が増すと林道の落葉にミズナラが加わる。公社造林の看板に「吉川山」とあった。
林道分かれにオオモミジの木があり、一方の林道はフタツバラの谷へ下りている。分岐から少し進むと、林道が崩壊していた。崩壊地点から上は小川のようになり、ホースが林道に沿って延びていた。川になった林道を上がって行くと、茅谷の途中で水が塞き止められ、その谷の水が林道に流れ出していた。その先が林道の終点。
クリノキの落葉にミズナラが加わる |
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教龍寺事業地 |
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終点に公社造林の看板があり、「教龍寺事業」と書かれていた。林道終点から薮尾根とスギ林を登る。株立ちのモミジがある大岩の所に出た。そこから女鹿平スキー場が見える。少し登ると「教龍寺事業地」の看板があった。
「日の平山は、潅木とササの薮山で頂の展望も悪く、山頂へ登る径もないのでヤブこぎはまぬがれない。観音信仰の盛んであった明治大正の頃は吉和村石原の教立寺(キョウリュウジ)裏より高崎こうかん道と呼ばれていた尾根道が付けられ観音まで続いていたが、現在はその跡すら定かでない」(「西中国山地」桑原良敏)。
植林地を抜けて、上の鉄塔に出た。入口の看板に「吉川山事業地」とあった。鉄塔は「NTTドコモ小室井無線中継所」と呼ぶ。鉄塔の東を回る林道を進んだ。雪道にイノシシの足跡が続いている。すぐ先で林道終点。この辺りはフタツバラノ谷の水源になる。終点の数十メートル先に乗用車が捨てられていた。
スギ林を登り、尾根に出た。東側は植林地だが、西側はブナ、ミズナラの林である。水源の水溜りにブナの葉がたくさんあった。雪の残るブナ林を進み山頂に出た。日の当たる伐採地の遊歩道は暑かった。山頂から東の遊歩道を進み、奥の原山へ続く尾根を下りた。ブナ、ミズナラのほかに、ハリギリの大きい木が目立つ。
ブナ、ミズナラ林 山頂北 |
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ハリギリ |
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奥の原山からシンペイ谷の東の尾根を下る。ブナ、ミズナラの尾根であるが、下っていくと植林地となる。小鳩ほどの大きさの鳥が、ミズナラに付いたヤドリギの実を食べていた。ミズナラのクマ棚が多い。積雪計と雨量計が設置してある。尾根からシンペイ谷の斜面にかけて、ミズメが多くなる。
尾根を横切る林道に出た。林道はシンペイ谷を下る。右岸に大きいトチノキがあった。その辺りに堰堤があり、周辺を田形と呼んでいる。谷に沿って平坦地が無く、とても田畑があった所に見えないが、田があったとすれば、シンペイ谷とその東の谷の間付近であろうか。
さらに下ると、ヤケノイタ谷左岸に石積があったが、ワサビ田の跡のようだった。植林地の林道を下る。オクノハラ谷に大きいケヤキがあった。谷の下流はシラカシが多くなる。坂原に出た。山添の車道を進む。畑の端にオオイヌノフグリの小さい花がたくさん咲いている。
ミズナラに留まる小鳥 ヤドリギの実を食べていた |
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おばさんがタラノキ畑で作業していた。朝市に出すそうだ。今から芽が出るのだという。ミツマタの花が咲き始めている。その傍で、おばあさんが畑仕事していたので聞いて見た。田形に昔、クリを取りに行ったという。50年ほど前にはまだ田の形が残っていたが、大雨で全部流されたそうだ。
シンペイ谷で牛の餌の草を刈り、もっこで担いで降りるのが大変だったと。キハダの皮は牛の餌に混ぜて、胃薬として食べさせた。向こうに見える三角の尖った山は名が無いが、貝殻塚はその下辺りと言う。その山へはよく水晶を取りに行った。国道は昔は川の下の方を通り、小さい道だった。その先に焼場があった。坂原は平家の落人が昔開いた所だ。
長話をして、タテイワ谷の入口に下った。タテイワ谷にキチョウが舞っていた。国道を上がった。日の当たる道は暑い。気温が20度になっていた。川原に重機が降りていた。筒賀川水源の右岸にポッカリと大きな穴が開き、国道の法面が崩壊していた。
カイガラヅカ方向にある尖った山 |
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ビワ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
近くの半坂遺跡、女鹿平4号遺跡などから、縄文後期の磨消縄文土器が出土している。
●鬼爪石(オニツメイシ)
「吉和村三浦一之介所蔵『吉和村絵図』(江戸末期)には、鬼爪石は吉和村石原より筒賀村坂原へ越すレンゲガ原にあり」(「西中国山地」)。
「鬼石 山県郡上筒賀村江越ス往還道端ニ有右石大なる指ニて掴取リ候様成ル処数々有鬼の爪跡与申伝依鬼石と号ス」(「芸藩通志」1825年)。
吉和の昔話では、鬼が女鹿平山から投げた石が鬼爪石である。
鬼ヶ城山は「鬼ヶ城」という岩に起因して名付けられている(「西中国山地」)。山頂近くにある岩崖は真中が裂けており、串が刺さっているようにも見える。
●田形(タガタ)
田形は50年ほど前までは、田畑の跡が残っていた。
カシミールデータ
ミツマタ |
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総沿面距離13.9km
標高差542m
区間沿面距離
石原峠
↓ 1.2km
鬼爪石
↓ 3.7km
小室井山
↓ 2.5km
田形
↓ 6.5km
石原峠
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