7:40 田原小跡出発 雨 気温9度
ヤブコウジ |
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8:05 田原上のテングシデ
9:50 横吹峠
10:40 熊の城山
11:05 栃畑
11:20 車道終点
12:05 テングシデ群落
12:55 田原小跡
明治7年創立の田原小学校跡を出発。創立100年記念樹のテングシデが昭和49年に植えられている。古い校舎が南側の一角に残っている。熊の城山や櫛山は雲に隠れている。添谷を横切って312号線を進むと「国天然記念物 テングシデ」の道標がある。その道標付近から、民家の屋根の上に垂れ下がった枝が見える。
その枝の方へ進むと、民家の裏の山の斜面に大きなテングシデがあった。ここはテングシデ群落から北東1.5kmのところにある。かつてはこの辺りまでテングシデが群生していたと思われる。
車道を上がり、横吹峠へ入るスギ林の林道を進んだ。林道はサンショウガケの谷に沿う。ウバユリの果実の空が立っている。山の斜面はスギ、ヒノキの植林地となっている。スギ林の中に株立ちした大きなケヤキがあった。
ヤマコウバシやコナラの葉が残っている。林道を大きい鳥が横切った。飛んで行った方を見ると、スギの枝にフクロウが留まっていた。丸い顔がこちらをじっと見て林の中へ飛び去った。1時間半余りで横吹峠。
峠を越えて少し進むと山道の入口に道標があるが読めない。道の入口に古いベンチが残っている。山道を少し入ってみたが、熊の城山の西を下る道のようであった。
シロナンテン |
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引き返して、熊の城山の東の遊歩道を進んだ。木を敷いた道に小さいキノコが付いている。植林地の中に大岩がある。道標を見ると、櫛山は丸掛山となっている。熊の城山東の724三角点の点名も丸掛である。丸掛はこの辺りの地籍名のようだ。
モクレンの道を進む。ハクモクレンの枯れた葉が下を向いて垂れ下がる。展望岩に出た。霞む村里が見える。道の分れに出ると熊の城山まで530mとある。木の階段を上がる。看板にこの辺りの植栽名が書かれている。ヤマモミジ、イヌシデ、ナナカマド、ヤマザクラ、キリシマツツジ、ヤマツツジ、ビョウヤナギ、コデマリ、ガクアジサイ、ムラサキシキブ、ヤマブキ。
横吹峠から1時間ほどで熊の城山。山頂の道はガスで煙る。マンサクの花芽が赤く膨らんでいる。ブナに茶色の葉が付いたままであった。登山道に大きいブナが三本残っている。クリノキの枝が派手に折られている。栃畑の手前で道が下る。ケヤキが枝を広げている。珍しくキハダがあった。ほどなく車道の終点に出た。
アオキ |
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林道を上がって来た時、スギ林の中に緑の葉のアオキがあったが、車道沿いには斑入りのアオキが多い。展望トイレで雨宿りし、車道を少し下って、テングシデ群落地へ降りる山道を進む。車道を少し降りた群落地の西300mほどの所にテングシデがある。枯れた葉が少し残している。少し下って、下から見るとテングシデは山の斜面にポツンと立っていた。
そのテングシデの100mほど下にも1本テングシデがある。ほどなく群落地に下りた。群落地の一番西のテングシデが無残にも根元から折れていた。見ると根が腐っていた。折れたシデにはたくさんの葉が付いたままであった。
入口に回ると「大朝のテングシデ群落」の看板がある。テングシデはイヌシデ(カバノキ科)の一変種とある。テングシデは東西100mの間に群落している。「横吹峠を越す林道の標高700メートル地点にも三本自生している」(「西中国山地」桑原良敏)という。
「横吹峠を越す700m地点」は熊の城山の大分西へ寄った方である。サンショウガケの谷にも1本ある。かつては田原上から熊の城山西側まで広範囲にテングシデが群生していたとも考えられる。
車道下のテングシデ |
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倒れたテングシデの葉 |
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テングシデ群落の看板 |
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■地名考
縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
大朝は縄文遺跡の多いところである。
テングシデはいつごろから呼ばれるようになったのだろうか。縄文時代からテングシデが群生していたとすると、縄文の人々は何と呼んでいたのだろうか。テングシデの現在の自生地や過去の自生地から考えてみると、熊の城山東の田原から横吹峠を越える所まで自生していたと思われる。「丸掛」はこの辺りの地籍名のようだ。
イヌシデのアイヌ語は残っていない。同じカバノキ科ではケヤマハンノキ(ケネ)、ヤチハンノキ(ニタッケネ)、ミヤマハンノキ(ハニ)、エゾノダケカンバ(カムイタッ)、ウダイカンバ(シタッ)、シラカンバ(レタッタッ)、サワシバ(パセニ)、アサダ(セイカパル)がある。
ミヤマハンノキの他の呼び名に次がある。
☆ホルケウケネ(狼のハンノキ)
☆ポロケウケネ(大いに悪魔を追うハンノキ)
☆カムイケネ(神のハンノキ)
この木はしばしば木幣に用いた。樺太では、この木の枝で魔除けの人形を作って子供の着物の袴または帯の所に結びつけておく。
(以上『知里真志保著作集』から)
「広島県の文化財」から
「テングシデは枝條の屈曲が著しいイヌシデの変種である。指定地内にある89本のうち最大のものは胸高幹囲が約3m,樹高14mである。近年の調査により,突然変異による形質が遺伝的に固定されたもので,種子による世代交代が行われていることが明らかにされた。テングシデに対する畏敬の想いや,木を損なう行為に対するタブーなどから,この地で大切に保護され現在まで残されてきたものである。
このような特異な遺伝形質を持った樹木の群落が残されたことは,学術的にも貴重である」
カシミールデータ
ウバユリ |
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総沿面距離13.2km
標高差554m
区間沿面距離
田原小跡
↓ 1.3km
テングシデ
↓ 4.5km
横吹峠
↓ 1.9km
熊の城山
↓ 2.8km
テングシデ群落
↓ 2.7km
田原小跡
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