7:15 椛谷出発 晴れ 気温2度
ツルリンドウ |
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9:55 林道分れ
11:10 法師山
11:30 882P
12:25 863P
13:10 770P
14:10 845P
15:10 965P
15:45 高岳山(高崎山)
18:30 後畑林道
18:40 椛谷
椛谷橋を出発。椛谷集落は繁山谷川右岸の山裾にある小さい集落である。右岸の林道を上がる。コナラが赤や黄色に染まっている。林道後畑線が西へ上がっている。左岸へ渡る橋の所にケヤキ林がある。右岸の道は養殖場への道。
林道は植林地を通る。日の当たる斜面にフユイチゴが実を付けている。ケヤキの目立つ谷である。ケヤキの落葉は数個の葉を付けた枝先ごと落ちている。葉腋に小さい果実が付いており、枝ごと落ちるのは、より遠方に種子を飛ばすためのケヤキの戦略のようだ。
シロダモが赤い実を付ける。チドリノキは黄色の葉をまだ残している。ゼンマイは黄葉。「椛谷山国有林」の看板がある。このあたりは椛谷山と呼んでいるようだ。ヤシャブシは緑の実を付ける。シゲヤマ橋を渡り右岸を進む。キカラスウリだろうか、まだ緑の実をぶら下げていた。
フユイチゴ |
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枝ごと落ちたケヤキの葉 |
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カラスザンショウ |
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ケヤキの道が続く。タカサンドウ橋を渡る。スギ林の中に石垣が見える。この辺りまで水田があったのだろうか。また橋を渡り、右岸のスギ林を進む。スギ林の中に古い祠があった。複葉が落ちた木に赤い実がたくさん残っているのはカラスザンショウ。オオバヤシャブシが青い実を付ける。ヤブムラサキの紫の実だけが残る。
西へ入る林道は入口に「仏峠林道起点」とあった。仏峠は高岳山の南にある峠のことと思われる。高岳山の東の谷を降りたが、林道は通っていなかった。今後、仏峠へ延長されるのであろうか。相変わらずケヤキが多い。赤い実が付いた枝が落ちている。イイギリの実のようだ。小滝を越える道の下に探していたキハダがあった。
そこからほどなく林道は東へ上がる。椛谷沿いには少し茂った作業道が上がっている。作業道の入口に「←歩道入口」とあった。鈴ノ大谷山へ登った時にも、これと同じ道標があった。青いビニールひもが続いている。右岸の作業道を進むと終点付近にタイヤが転がっている。そこは法師山の直下である。そこからヒノキ林を登った。ヒノキ林の中に小さいクマの糞があった。
ヤシャブシ |
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オオバヤシャブシ |
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山頂に先客が二人あった。願成就温泉から登られた方だった。植林帯の中で展望はない。コーヒーで一服してすぐに出発。高岳山への尾根は薮だと教えてもらった。
土塁のある県境尾根を歩く。尾根の東側はヒノキの植林地となっており、歩きやすい尾根道である。樹林の中で展望はない。882ピークを過ぎた先に目印となる岩がある。そこからしばらく植林地を進み863ピークの手前あたりから笹薮となる。土塁の上のヒサカキが黒い実を付ける。
863ピークの手前あたりから林越しに西側の平野が見える。最初の展望地から前方に高岳山が見える。東側への展望が開ける。展望地の先でクマの皮剥ぎが見られた。深い牙の痕がある。尾根道の笹の中にツルリンドウの赤い実が一つだけ残っていた。振り返ると法師山へ続く尾根が一望できる。東側のすぐ下に仏峠林道が入っているのが見える。
法師山から4時間半でようやく高岳山(高崎山)の展望地に出た。箱庭のような徳佐の平野が広がる。その先に目立つ十種ヶ峰、法師山の先に青野山の大きな山容が見える。しばらく越を下ろして、コーヒーを飲みながら眼下の風景を堪能した。
県境尾根を進むと高岳山の三角点が登山道の脇にあった。そこから南の尾根を進んだが、笹が深い。尾根伝いに椛谷へ降りる予定であったが、高岳山東の小谷を下りた。
谷筋は巨木が残る。谷の上部にキハダはなかった。谷の暮れるのは早い。右岸の斜面に大きなブナがあった。ヘッドランプを付けて進む。堰堤に着いた頃には真っ暗であった。堰堤の下の右岸に林道が上がっていた。山頂から3時間余りで暗闇の後畑林道に出た。
■地名考
縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
周辺には大野原の向津原遺跡、本郷遺跡(弥生)がある。
「椛谷口に次郎が雀を追って投げたという岩が田の中に散らばっていたそうだが、最近の開発で取り除かれた」
(「椛谷次郎物語」)。
怪力男、椛谷次郎の話に、お城へ納める建築用材や木炭を繁山谷から笹山を通って運んだという。材質が良好で材に弾力があり建築用材に適していたとある。おそらく建築用材はケヤキと思われる。
法師山の所在地は点の記では柿木村大字福川となっている。古くは船方山と呼ぶ。徳佐側の呼称であろうか。山名と山麓地名の関係から見ると、本郷川か繁山谷川の山であると考えられる。
カシミールデータ
サルトリイバラ |
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総沿面距離19.2km
標高差750m
区間沿面距離
椛谷
↓ 5.5km
林道分れ
↓ 1.5km
作業道終点
↓ 0.5km
法師山
↓ 6.5km
高岳山(高崎山)
↓ 5.2km
椛谷
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