山歩き

ハルニレ…カラ谷…立岩貯水池右岸 2008/10/4
大谷川入口…車道…ハルニレ…水場…カタ谷…木馬道…登山口…小松原橋…立岩貯水池右岸…立岩ダム…大谷川入口

■立岩ダム(タテイワダム) 左岸:安芸太田町大字打梨字押ヶ垰 右岸:安芸太田町大字打梨字清水

立岩貯水池
ハルニレ
伐採木から伸びるハルニレ
根元周囲3mのハルニレ
ハルニレ
カラ谷
オオズエ谷の橋
コダニの谷の橋

コダニの谷右岸の竹林の道

キリイシのタキを望む
フジキ谷の石垣
コンヘイ谷のガレ場
スギ林のイヨキリ谷
タテイワ谷右岸の石垣の水田跡
タテイワ谷から見るキリイシのタキ
立岩ダム
7:15 大谷川入口出発 晴れ 気温12度
 
ジンジソウ

9:15 ハルニレ 
10:40 水場  
12:05 十方山登山口 
12:20 小松原橋 
12:55 オオズエ谷 
13:05 コダニの谷  
13:20 フジキ谷 
13:55 コンヘイ谷
14:20 イヨキリ谷
15:25 タテイワ谷
15:35 タケノオク谷
15:45 境谷
15:55 立岩ダム
16:15 大谷川入口 

 
 大谷川入口付近から国道を、十方山登山口に向って進む。口を開けたアケビが多くぶら下がる。カキノキの実が生っていた。ダンコウバイの葉が目立つ。立岩貯水池の上流はガスが降りて白く煙る。サンインマイマイがつる性の葉に留まる。キツツキがミズナラを登っていく、アオゲラのようだ。

 一ノ原の佐原屋家の墓所を過ぎた所で、大きい杉の手前の、車道の西側にハルニレがあった。さらに車道を進むと、点々と湖岸側にハルニレがあった。ハルニレの葉の表面はざらつくが、全くざらつきが感じられない木もあった。伐採されたハルニレから数本の枝が伸びたハルニレがあった。

ハルニレ
ハルニレ
サンインマイマイ

 一番大きい、根元から三本に分かれたハルニレは根元付近で周囲3mほどあった。道路沿いのハルニレは15本ほどあった。ハルニレの所から急な山の斜面を登った。上で細いハルニレを二本見付けた。そのまま斜面を登り、十方山登山道に出た。

 登山道の水場まで登り、引き返してカラ谷を下った。木馬道から登山口へ下った。国道を西へ進む。ニイハタ谷は滝のような岩の谷。車道にヒカゲチョウが死んでいた。小松原橋を渡り、右岸の林道に入った。

 壊れたわらび小屋を通り、道は右岸沿いにある。鉄塔へ上がる道の標識がいくつかある。瀬戸谷登山口の対岸がオオズエ谷である。谷には鉄の橋が架かっている。橋を渡った少し先で、広い川を覗くと大きなコイが泳いでいた。対岸に十方山登山道がある934ピークの大きな峰がある。

イカリモンガ
ツチグリ

 コダニの谷に鉄の橋が架かる。橋の手前にあった小屋は潰れていた。コダニの谷の橋を渡ると、平坦地に竹林がある。湖岸の先にキリイシのタキが見える。フジキ谷には石垣が残る。そこで道が消失する。崖を登って回り込むと山道がある。所々石垣が残るが崩れている道である。

 コンヘイ谷はガレ場であった。コンヘイ谷の真中に立つと、川上から湖岸へ涼しい風が吹き抜ける。コンヘイ谷の末端はケヤキ、両岸はミズナラ林である。コンヘイ谷の少し先に小谷が降りている。

 イヨキリ谷はスギ林の中にある。中電社用地の看板がある。三ノ原を進む。水天宮西の小出崎を回りこむと倒木が道を塞ぐ。倒木を越えて石垣の残るスギ林を抜けるとタテイワ谷。タテイワ谷の橋は流され、右岸の道は崩れている。タテイワ谷落口の対岸にカヤノガ峠が見える。

 タテイワ谷から先ははっきりした道となる。タケノオク谷の鉄橋を渡った先にクマの大きな糞があった。境谷の鉄の橋を渡り、小松原橋から3時間半ほどで立岩ダムに到着。立岩貯水池の右岸にハルニレがないか歩いてみたが、ないようだ。貯水池左岸の狭い範囲に集中する、ハルニレの発生地がどこにあるのか確かめたかったのだが、まだ結論を出せない。

クマの糞
チャノキ


地名考

 縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。

 日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。

 東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。

 (以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)

 立岩ダムの下流には筒賀の縄文遺跡、上流には吉和の縄文遺跡がある。

 東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
 また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。



 「立岩貯水池側の集落は水没して無人になっているため、谷の呼称調査は難しかったが、幸い三の原に住んでいた斉藤貢老人より聞き書きすることができた。地図には水没した集落名は記していないが、大字名は下山、小字名として、立野、小松原、広瀬、一の原、二の原、大畠、三の原、立岩があったという」(「西中国山地」桑原良敏)。

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カシミールデータ

スジグロシロチョウ

総沿面距離14.5km
標高差308m

区間沿面距離
大谷川入口
↓ 5.0km
水場
↓ 2.4km
小松原橋
↓ 5.5km
境橋
↓ 1.6km
大谷川入口
 

 

立岩貯水池右岸から見るキリイシのタキ
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より